| 天の徳とは万物に施しを与えることであり、地の徳とは万物を育むことであり、人の徳とは仁義を行なうことである。天の気は上の方にあり、地の気は下の方にあり、人の気はその中間にある。春は万物を生み、夏は万物を育て、これによって万物は生じ、秋は万物を枯らし、冬は万物を収穫し、これによって万物は蓄えられる。であるから気よりも清らかなるものはなく、地よりも豊饒なるものはなく、天より神妙なるものはない。これら天地の精気によって生み出されたものの中で人が最も貴いものなのである。人は天より命を授けられているので、超然として傑出しているところがある。その他の万物には様々な欠点があり、仁義の道を踏み行なうことは出来ないが、ただ人だけが仁義の道を行なうことが出来る。万物は様々な欠点があり、天地を貫く法則に合致することは出来ないが、ただ人だけが天地を貫く法則に合致することが出来る。人には三百六十個の節があるが、それは天の一年の日数に則ったものである。人の体や骨肉は地の厚みに則っているのである。体の上部に耳や目の聡明な働きがあるのは太陽や月を象ったものである。体に穴や血管などがあるのは川や谷を象っているのである。心に喜怒哀楽の情があるのは神妙なる気の働きと同類のものである。人の体がこのように天地を貫く法則に則った一体のものであることをよくよく観察してみるならば、いったいどうしてこれ程まで他の物に抜きん出て、天にも比肩するほどなのであろうか。それは万物は天の陰陽の気をきちんと摂取することなく生きているが、しかし人は燦然と光り輝き天の理法をその身に備えているからである。そこで万物の形態は、かがんで伏せて歩くのであるが、人は天地に対して真っすぐに立ちきちんと天地に応対している。であるから天地の精気を受け取ることが少ない物は天地に対してはいつくばり、多い物は正対するのである。このことは人が他の万物に抜きん出て天地と交わりを持つということを表わしている。つまり人の頭が大きく丸いのは天の形を象っているのであり、髪の毛は星を象り、耳や目が左右にそれぞれ相対しているのは太陽と月を象り、鼻と口で呼吸するのは風の気を象り、心の中に外物を知覚する働きがあるのは神妙なるものを象り、腹の中に詰まっているところもあれば、空っぽのところもあるのは、あらゆる万物を象っているのである。万物は最も地に近いものであるから、腰以下は地である。天地を象る場合には腰をその境としている。首より上には精神の崇高なる働きがあり、それは天と同類のものである。首より下にはふくよかで厚かったり薄っぺらで貧相なところもあり、それは大地に比類する。足の形が方形であるのは、大地を象っているからである。そこで礼のきまりでは、帯のところに紳を垂らす場合は、必ず首と同じように垂直に垂らし、それによって心臓と区別するのである。帯より上の部分はすべて陽に属し、帯より下の部分はすべて陰に属し、それぞれに持ち分が定められている。陽は天の気であり、陰は地の気である。そこで陰陽が巡って作用を起こすと、例えば人が足を患ったり喉を病んだりすれば、それは地の気が上昇して雲となり雨を降らせることになり、このように自然現象も対応するのである。天地のこのようなしるし、陰陽の反映が、いつでもその身に備わっていれば、それはまさしく天そのものと言えるのである。人の体に備わっている数と天の数とが互いに符合しているから、人の運命と天の運行とも互いに関連するのである。天の丸一年間の数によって人の体は構成されている。そこで、人の体に小さな関節が三百六十六あるのは日数に符合し、大きな関節が十二あるのは月の数に符合しているのである。体内に五つの臓器があるのは五行の数に符合し、体外に四肢があるのは四時の数に符合しているのである。時には目を見開き時には目をつぶるのは昼夜に符合し、時には剛健に時には柔軟であるのは夏冬に符合し、時に悲しみ時に楽しむのは陰陽に符合しているのである。心の中に思慮を秘めているのは度数に符合し、行動に倫理があるのは天地に符合しているのである。これらはすべて人の与かり知らぬ間に各自の身に備わっているもので、人と共に存在し、引き比べて天地に対応して符合するるものである。数を数えられるものについては、天地の数に符合し、数を数えられないものについては、天地との類似性によって符合しているのである。数えられるものも数えられないものも、どれも同じように天地に符合するという点については同じである。であるから、形のあるものを述べることによって、形のないものを表現し、数の数えられるもの把握することによって、数えることのできないものを表現するのである。これから言えば、このような天と人とを結び付ける法則も両者の類似性によって対応しているということは、その形態上の数がちょうど一致していることと同じである。 |