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【 和 訳 】
同類相動第五十七
 今、大地を平らにならしてそこに水を注ぐと、水は乾いている所を避けて湿った所へ流れる。薪を平らに積み上げ火を着けると、湿った所を避け乾いた所に火がつく。つまり万物はそれぞれ類を異にするものを避け、同類の物に付き従うのである。であるから気の種類が同じであれば一緒になり、音の種類が同じであれば響き合うのは、現象として極めて明らかである。琴瑟を調えて並べ、宮の音階を弾くと、それ以外の宮の音階を持つ物もそれに和し、商の音階を弾くと、それ以外の商の音階を持つ物もそれに和す。五つの音階それぞれ同じもの同士が自然と共鳴するのは、神妙な力が働いているからではなく、その類が同じであるからそうなるのである。好ましい事柄が類を同じくする好ましい事柄を喚起し、悪しき事柄が類を同じくする悪しき事柄を喚起するのは、その類が同じであるため互いに応じ合って起こるのである。それはちょうどある馬が嘶くと他の馬も嘶くようなものである。帝王が興起しようとする場合も、その類い稀な瑞兆がそれに先立って現われ、滅亡としようとする時には、災いがそれに先立って現われるのである。万物は本来的に同類の物は引き付け合うものである。であるから龍によって雨を呼び起こし、扇子によって暑さを取り除くのであり、軍隊が駐屯する所には荊が生えるのである。良いこと悪いこともそれが起こる原因は存在しているが、人はそれを天命であるとし、その原因までは知らないのである。天が雨を降らそうとすれば、それによってまず先に人の病気が発現するのである。これは人の陰気と天の陰気が互いに反応して起こったためである。雨が降りそうになると、人が眠くなるのも共に陰気の働きである。憂いがあるとやはり人が寝るのは陰気が互いに引き合うのである。嬉しいことがあって寝てなどいられなくなるのは陽気が互いに引き合うのである。水は夜になるとその体積を若干増し、東風が吹くと酒は溢れ出る。病気の者は夜になると病状がますます悪くなり、鶏は明け方になると一斉に鳴き出して朝を迎える。これらはその気が更に純粋になるからで、陽の気はますます陽となり、陰の気はますます陰となる。そして陰と陽の気はその性質によって互いに損害や利益を与え合うのである。天にも陰と陽があり、人間にも陰と陽の気が備わっている。天の陰の気が働くと人の陰の気がそれに反応して働き、人の陰の気が働くと天の陰の気もそれに反応して働くが、それはそれらを貫く法則が同じだからである。このことに通暁している者は、雨を降らせたいと思ったならば自分の身の陰の気を働かせて天の陰の気に働きかけるのであり、雨を止めようとすれば自分の身の陽の気を働かせて天の陽の気に働きかけるのである。つまり雨を降らせるのは神妙な力の働きによるのではないのである。それを神妙な力の働きでないかと疑うのは、その原理が非常に奥深いものだからである。ただ陰と陽の気だけが類を同じくするもの同士互いに反応し合っているのではなく、吉凶禍福といったものの起こるのもこれと同じ道理なのである。すべての事柄は、自分自身がまず何事かを起こし、その結果外界の同類の物事が反応して動きだすのである。であるから聡明で物事に通暁している人は、自分の心に照らしてとらわれることなく、明聖であるということは、自分の心に照らして我が身を顧みるということである、物事に明るく優れた人だけは、自分の真実の心がそこに有ることを知っているのである。そこで琴と瑟を合わせて演奏し宮の音階を弾くと、他の物で宮の性質を持つものが自然と鳴り出してそれに反応するのである。これがつまり同じ種類のものが互いに反応するということなのである。しかしその反応は、音はすれども音を弾いて出した形跡がない。人々は反応して音が鳴った形跡を目視できないので、自然に鳴っているのだと言う。また互いに働き合っているのに目に見える形跡がないので、自然とそうなるものなのだと言うが、自然とそのようになるのではなく、そうさせるものがあるのである。物に本来そのようにさせるものがあり、そうさせてはいるが目に見える形がないのである。『尚書大傳』には次のようにある「周王朝がちょうど興隆しようとしている頃、大きな真っ赤な鳥が穀物の種を口にふくんで武王の屋形の屋根に集まった。武王は喜び、群臣たちも喜んだ。周公が言った『もっと努力しようではないか、天がこのような瑞兆を示し我々により一層善を行なうことを求めているのだ』(神妙な道理をわかりもせず)自分の行いに驕り高ぶることを戒めているのである」

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