「神実主義の中国と文学」ということについて

先の日曜日、駒場の東京大学出行なわれた閻連科さんの講演。手元に残したメモを元に自分なりに振り返ってみます。

まずは王堯さんの講演から。

文革後の中国文学は80年代文学、90年代文学、新世紀の文学の三つに分けられる。現在活躍する多くの作家が80年代に注目を集め始めたのに対し、そのころの閻連科氏は助走期間であり、「後から来た作家」である。そんな文革後の文学は、文革をどう捉えるかが大きなテーマであった。

文革を否定するのが基本的な立場であり、その上に文学が発展してきたのが80年代。しかし90年代になるとその傾向(文革に対する態度)に分化も見られるようになり、政治と文学の関係は芸術と現実との関係と捉えられるようになってきた。

文革の終結により、文学は政治に奉仕するものではなく、人民に奉仕するものとなった。つまり文学はようやく現実と理性的な関係を持てるようになった。傷痕文学は芸術的な達成という点では大きくはないが、当時のタブーを打ち壊す役割を担った。そして80年代は社会の中心に文学があり、近代化建設に重要な役割を果たしていた。

閻連科の作品は、こういった文学を超えた作品であり、人と人との関係や人間性を描いており、社会主義にも暗い面があることを訴えている。その点では暗闇に敏感な作家であり、魯迅と並び称することができる。

一方、歴史を叙述する文学の変化も見られ、莫言などの作品はそれまでの作品と一線を画している。閻連科の作品は、特に現代史に関心を持ち、現実の描き方を変革していった作家であり、中国の現在、中国そのものを描き出し、その結果、もう一つの中国が創造され、時代精神も書き換えられている。

かつての文学は現実に奉仕していたが、現在は文学と現実がお互いに超越し、より開かれた関係となったが、また新たな問題も生まれている。

以上です。

うーん、読み返してみて、わかるようなわからないような……。あたしのメモが乱雑すぎてスミマセン。

続きまして閻連科氏の講演。

神実主義とは現実主義に対する反抗である。現実主義とはそこにある現実を描くものであり、現実対するわれわれの感覚を書くものである。それは見た真実、つかみうる真実であって、つまり表面的な真実にすぎない。それに対し神実主義とは、それがどうして起こるのか、発生の源を描くものである。内在的な真実、見えない真実を描き出すものであり、いわゆる真実に覆い隠された真実を描くものである。

中国に対する世界のイメージは、醜い存在というものである。中国は果たして文明的な国家であるのか、街中で話す声が大きいだとか、爆買いに見られるような行為が想起される。旧知のフランスの哲学者に言われたこととして、49年以前の中国は神秘、49年以降の中国は革命、そして現在の中国は低俗だと。この言葉にショックを受けたが、世界は中国を理解できていないし、中国も中国を理解できていない、そして政治家や歴史家も中国を理解できていないということである。

中国は資本主義国家でもなければ、民主主義国家でもない、かといって社会主義国家でもなければ、共産主義国家でもない、人類史上初めての存在である。このまま数十年続いたならば、歴史家や哲学者はどう名づけるのだろうか? 自分は暫定的に「異中国」と名づけたい。異とは異なっていると同時に疎外を意識させるものである。

そんな異中国の直面する異時代。疎外された中国が疎外された時代を迎えているという、世界中の誰もが理解できない状況。杭州でG20が行なわれている一方、生きていけずに自殺をする一家が存在する。こんなまったく異なる出来事が起きるのが理解できない。われわれは異中国における異時代を生きる異中国人である。多くの中国人は慣れてしまっているが、人心の欲望の肥大化が起こっている。

中国の変化は改革開放の成果ではあるが、作家としては欲望が極限まで肥大化し、罪悪が蔓延している社会であり、もし中国人が信仰心を持っていたならば、罪悪の前に何もできなくなってしまうだろう。中国人は信仰を持っていなくて幸いである。喩えて言えば、現在の中国は花束が投げ込まれたゴミ箱のようなもの、自分が知っていた中国とは異なる。

こんな中国を作家はどう表現するのか。

リアリズムでもモダニズムでも描けない。精神的困窮は人類が体験したことがないものであるが、この歩みを後退させることはできない。高層ビルをいくつも建てたことではなく、13億の民を小康状態に導いたこと、これを後戻りさせることは不可能である。和諧の強調は滑稽にも感じられるが、もし本当に混乱が起こったならどうなるだろうか。もし中国人が難民化したらと考えると、経済は発展させなければならないが、そうなると環境汚染は減らず、世界を苦境に陥れてしまう。これが中国の文学者目の当たりにしている現実である。

文学は新しい方法で現実を描写しないとならない。貧富の格差は人の想像を超えている。これらを文学がどれくらいカバーできるのか。一部しか描けていないし、すべてを描くのは不可能である。

魯迅の阿Qによって世界はそれを中国と見なした。しかし今の中国は当時の中国とは違う。阿Qは現在の中国の代表者とはなり得ない。新しい中国的人物が必要である。つまり今の中国を象徴する人物。

どの作家も本当の中国を描いていない。それは今の時代の阿Qを作り出せていない。それは限られた現実認識に基づいているからである。神実主義によって内在する真実をたぐり寄せることができるのではないか。

ところでアジア文学という枠組みは脆いものである。日中韓は欧米の文学をもてはやしすぎで自国の文学を軽んじている。自分たちの文学を信じるべきであり、世界の文学に抗することができるものであるから、その後に初めて世界文学を語るべきである。日本の読者も中国の文学をほとんど読んでいない。中日の文学の交流は文化の交流である。交流が進めば好みも欧米からアジアに移ってくるだろうし、アジアに意識が向いてくるようになる。文学の交流はそれに留まらないものである。

以上、こちらもまとまりのない、支離滅裂な感じですが、すべては筆記者の能力不足のせいです。閻連科さんの話が悪いわけではありません。

今日の配本(16/11/09)

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