Bye For Nowよりも世界中の誰よりきっと

今朝の情報番組でやっていましたが、T-BOLANが完全復活だそうで。

それを伝える番組内で流れているのはほとんどが上の曲「離したくはない」です。この曲がやはり代表曲になるのでしょうか? 確かに聞き覚えはありますけど、あたし的にはT-BOLANというとこちらなんです。

「Bye For Now」です。この曲の方がよくかかっていたような印象があるんですよね。

ただ、いずれにせよ、あたし、別にT-BOLANのファンだったわけでもなければ、曲をよく聴いていたわけでもありません。どちらかというと、同じ頃に流行っていたWANDSの方が好きでした。WANDSと言えば、

「もっと強く抱きしめたなら」とか、そしてミポリンとのデュエット

「世界中の誰よりきっと」ですよね。

ただ今どきの若い人だと「T-BOLAN」も「WANDS」も読めないのでしょうか?

知らないものは知らない

「……ですが、いつもお世話になっております」

「こちらこそ、お世話になっております」

「某某さん、いらっしゃいますか?」

「もうしわけありません。外出してしまいまして、本日は社に戻らないのですが」

上記のような会話は日常茶飯事です。たいていの場合、先方は「では、明日またかけ直します」と言うか、「ご伝言、お願いできますか?」という具合の流れになります。まあ、書店からの場合、普通に注文のこともあるので、馴染みの担当者が不在でも「じゃあ、注文、お願いします」となることも多いのですが……。ただ、時に

「某某さんになんとか連絡付きませんか?」

と言われることもあります。滅多にないのですが、全く無いとは言い切れません。たぶん、先方は携帯電話を持っているだろうから、連絡くらい付くはずだと考えているのでしょう。

が、あたしの勤務先は会社として社員に携帯電話(スマホやタブレットも含め)を支給していません。デスクには社員それぞれにPCがありますが、あくまでデスクトップでモバイル端末ではありません。ですから、外へ出てしまった社員へは連絡の取りようがありません。

もちろん、社員の中には故人で携帯電話を持っている人も多数いますので、そこへかければ連絡は取れるのかも知れません。しかし、あたしは誰がケータイを持っていて、誰が持っていないのか知りません。特に知りたいとも思いません。ですから、持っている人の電話番号だって知りません。なので、

「某某さん、ケータイ、持ってないんですか?」

と聞かれても、個人として持っているか持っていないか、あたしはほとんど知らないので

「弊社では社員に携帯電話を持たせていないので……」

と答えています。個人で所有している携帯電話を仕事に使うべきか否か。会社によっては、私物のケータイでも仕事で使っていれば、その分の通話料を負担してくれるところもあるようですし、最初から会社として携帯電話を支給しているところもあるようです。

あたし個人としては、私物のケータイを仕事に使うのはイヤだなあ、と思います。しかし、大方の人は「別にいいじゃない」という感覚なのかも知れません。こういったあたりがグレーなのも日本的と言えるのでしょうか?

ちなみに、あたしは外回りの時はタブレットをカバンに入れています。重いです。これでメールチェックはしていますが、タブレットはあくまで私物ですので、外回りに出たら必ずメールチェックをするとは限りません。バタバタして、自宅に帰り着くまでメールチェックを一度もしないこともしばしばです。

もしかして、これが運命の出逢いになるはずだったのかしら?

昨日の営業回りの時の出来事です。

東京郊外の電車に乗っておりました。座席はほどよく埋まっていたのでドア付近に立って本を読んでいました。あたしが乗っていたのは急行で、とある駅で各駅停車との待ち合わせのために停車しました。

すると、すぐ近くの座席座っていた女性が下りていきました。各駅に乗り換えたのか、その駅が目的地だったのかはわかりません。見かけは学生でも主婦でもなく、明らかに社会人。20代後半から30代前半くらいでしょうか。キャピキャピした若さよりも落ち着きを感じさせる、なかなかきれいな女性でした。

さて、彼女が下りたために空いた座席に座り、引き続き本を読み始めました。しばらくして座席脇の手すりに傘がかかっているのに気づきました。季節柄、日傘でしょうね。細見のちょっとおしゃれな女性ものです。たぶん、いま下りていった彼女のものではないでしょうか?

あたしが発見した時点で、急行電車は待ち合わせのためまだ停車中でした。ドアは開いています。しかし、何分も停まっているはずはなく、そう思う刹那、ホームのベルが鳴りドアが閉まり発車しました。

もしあの時、ドアが開いている内に傘をつかんでホームへ下り、彼女を見つけて(まだ近くにいたでしょうから)傘を渡したら、どうなっていたでしょう? その出会いをきっかけに話が弾んで……

そんなわけないか。人生はドラマではないですし、そもそもわが身をよーく省みろと言われそうです(涙)。しかし、万が一、万万が一ということもなくはないでしょうし、何がきっかけで人生の歯車が回り出すかわかりません。

あたしは、昨日、一歩踏み出すべきだったのでしょうか?

足並みを揃えてケインズ

もう店頭に並んでいるかと思います。

 

新刊の『ケインズを読み直す 入門現代経済思想』のことです。

あたしも店頭で見ました。ところが、なんとすぐ隣にこんな本が並んでいるではないですか!

中央経済社の『ケインズ 最も偉大な経済学者の激動の生涯』です。あたしの勤務先の新刊より少し前に出ていたみたいですね。ほぼ同時期にケインズの新刊が並ぶとは奇遇です。一方はケインズの経済思想の入門、他方はケインズの評伝ですから、併せ読むとケインズについて理解できるようになる、というところでしょうか?

しかし、イラストのケインズと写真のケインズ、同じ人物に見えますか?

 

それに、この中央経済社の新刊って、装丁があたしの勤務先の既刊『ガルブレイス 異端派経済学者の肖像』や『アメリカの資本主義』にちょっと似ていませんか? これでは、どれとどれが同じ出版社の本なのか……(汗)

注文殺到中で重版に

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そしてまた「nikaze」問題が……

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既視感というか既読感?

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朝の食卓で思う

朝はパン食です。小さい頃からずーっとそうです。

で、ふと思ったのです。

上の写真のような、こういう、いわゆる山型パンの場合、「頭から食べる」とか「お尻から食べる」という言い方をしたりしますが、下の写真のような四角い食パンの場合はどうなのでしょう? 袋に入っている状態で上になっている方が頭ですか? でも皿に載せた時点でわからなくなりそうですよね。それとも皿に載せても、焼いたりしても頭側を見分ける方法ってあるのでしょうか?

あと、山型でも四角いのでもどちらでもよいのですが、トースターで焼くときに、どっちを上にして焼くかって気にしますか? つまりこういった食パンに裏と表があるのかってことです。

焼き上がったパンにマーガリンを塗りながら、ついつい考えてしまいました。

どうして殺してくれないのだろう?

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この本どこにありますか?

この十数年の書店の大型化、1000坪を超える本屋も珍しくない昨今。そもそも本屋の広さは坪数で表わされることがほとんどすが、それで広さをイメージできる人ってどれくらいいるのでしょうね? いまの若い世代ですと「坪って何よ?」という感じではないでしょうか? でも、本屋に限らず、日本では広さを表わすのに坪を単位とするのがフツーなので、それがたとえ一般人に伝わりにくいものだとしても習慣的に使っているのではないでしょうか?

閑話休題。

本屋が広くなって、目的の本が見つけられないというお客さんは多いようです。日常的に本をよく読み、本屋をよく利用している人であれば、自分の探している本がどんなジャンルなのかわかっているのでそれほど迷うこともなくお目当ての本を見つけられるでしょう。でも、それほどでもない人は大きな本屋に来てもどこから探せばよいのかすらわからないでしょう。

もちろん、本によってはどこに置いてあるのかわかりにくいものもあります。

 

新刊の『ハヤブサ その歴史・文化・生態』は副題に「その歴史・文化・生態」とあるとおり、ハヤブサについて文化史的、生態学的に書かれたものですから、本屋では自然科学の生物の棚に置かれていることが普通です。大型店ですと、生物の下位分類、動物、鳥類、猛禽類といったコーナーに置かれていると思います。

その一方、同じ著者の前作『オはオオタカのオ』は、確かにオオタカについて書いてはあるものの、父を亡くした著者がオオタカを飼育することによって喪失感を癒していくノンフィクションです。ですから本屋では文芸書コーナーのノンフィクション、海外ノンフィクションの棚に置かれていることがほとんどです。もちろん動物の棚にも置いてあったりしますが、見る限りノンフィクションの方が多いです。

となると、同じ著者の作品でどちらも鳥、それも猛禽を扱った本なのに、一方は自然科学、一方は文芸に置かれてしまうわけです。買う方としてはちょっと不親切と感じるかも知れませんね。ただ、本の内容に従って分類すればそうなるわけですから、これはこれで合理的なのです。もちろん、大型店の場合、在庫一冊ということは少ないですから、この両書を自然科学にも文芸にもどちらにも置いてある書店も見受けられます。そうなっていると読者にはありがたいところですが、書店からすると棚管理がちょっと面倒になるという不都合も出てきます。

 

次に、これまた新刊の『続・寂聴伝』はそのものズバリ、瀬戸内寂聴さんの評伝です。普通に考えれば文芸書コーナーの評論の棚に置かれているはずです。しかし、瀬戸内寂聴さんの本、小説やエッセイなどは同じ文芸書コーナーでも日本の女性作家の棚に並んでいるはずです。寂聴さんの評伝ですから、興味を持つのは当然寂聴さんのファンの方が真っ先に思い浮かびます。となると、本書も評論ではなく女性作家コーナーの寂聴さんの作品の隣に並べてあった方が効果的なのではないかと思います。

現にそういう並べ方をしている書店も数多くあります。評論に棚にある作家論などは個別の作家の場合、その作家の著作が並んでいるところに置いた方がよいのでしょうけど、他社本ですが『乱歩と清張』だと、こんどは江戸川乱歩のところか、松本清張のところか悩みますね。

 

この人、カフカ?』なども評論コーナーに並んでいることもありますが、やはり海外文学のカフカのところに並べた方がよいだろうなあと思います。でも、カフカって、いま単行本で読めるものありましたっけ? ほとんどが文庫(新書版の白水Uブックスもお忘れなく!)ですよね? そうなると、問題はまた面倒なことになります。さすがに文庫コーナーには置けませんし、そもそも文庫は会社別、レーベル別に並んでいますからね。

やはり、本をどこに置くかって難しい。でもそれが面白さでもあり、書店(担当者?)の個性でもあるわけで、こっちに置いても全然売れなかったのが、あっちへ置いたらすぐに売れた、なんてこともよく聞くので、悩み出したら止まりません。