第15回 『列子』と『春秋繁露』

前回書いた大学院の授業の中で特に印象的だった『列子』について引き続いて書きたいと思います。

現代音による音読を科す、ということは前回書きましたが、今回は授業の内容についてです。多くの人にとっては当たり前のことかもしれませんが、中国思想に限らず哲学なり思想なりを学ぶということは該当テキストをきちんと読みこなすということが大前提です。高校までの現代文などでは、ここで作者の言いたかったことは何か、などという形式の授業も初めに文章を読んでから始めたものです。

しかし高校まで、授業でやったこともない人もいるらしい漢文で書かれた文章を読んで、その中身を理解して、そこから問題点を導き出し、作者の意図を探り、それをどう自分で考えたかを他人と議論するというのは到底無理な話です。

たぶん西洋哲学だろうとインド哲学だろうと、事情は同じではないでしょうか。否、日本文学や日本思想だって古典を対象とするならば同じでしょう。極論すれば、現代日本語で書かれた現代日本の思想だって、それなりの訓練を受けなければ、テキストを読み進むのも相当ハードなことだと思います。

学部時代、学科名こそは中国哲学文学となっていましたが、実際には漢文訓読の練習と文献の扱い方の教授がその内容でした。とても中国古典の1册を持ってきて、そこに書かれている思想を熟読玩味して皆で議論を戦わせる、なんてことは期待できませんでした。

しかし、大学院というのはそれではいけないところです。むしろ学部時代のこのような訓練の土台の上に立って、今度こそ本当にテキストの中身を読むことが科される場だと思います。恐らくレベル的には今述べた、偉そうなことのほんの入り口に過ぎないのでしょうが、大学院の『列子』の授業で私は訓読さえすればそれでよかった授業から、中身を探る授業へと変わったことを気づかされました。

と、ずいぶんと前口上が長くなりましたが、具体的には張湛注に従って『列子』を読むということです。普通、註釈というのは本文を読むための補足であり、本文のわかりにくいところを補うものです。が、この時代は、つまり魏晋玄学時代ですが、註釈の形を借りて自分の思想を述べることが非常に顕著でした。まあ、中国思想の場合、註釈の形で自分の思想を述べるというのは何も魏晋時代には限りませんが…。要するに、本文の助けとして注を使うのではなく、注に述べられた思想に基づいて本文を読むのです。更に『莊子』郭象注なども参考にし、また向秀、王弼など当時の知識人達の註釈に見られる微妙な言葉の違いを意識して、彼ら相互の思想の違いを考える必要もありました。1年間このようにして読んでくると、たとえ主語が書いて無くとも、「ああ王弼はこんなこと言わないよな」とか少しはわかるようになっきますから不思議です。

そうか、こんな読み方もできるんだ、と改めて目から鱗が落ちる思いで、1年間この『列子』の授業を受けたのでした。

さてもう一つ忘れられない授業は『春秋繁露』です。これは全く私一人の授業でした。が、当時この授業を開いていた、今は亡き中下正治先生の元へ中国から王さんという女性の方が研究生として見えていて、授業を聴講していました。当時はまだ日本語もたどたどしく、それが却ってこちらとしては中国語のよい勉強になりましたが…。

この授業、基本的には『春秋繁露』を訓読して訳す、というごくごく普通のスタイルの授業でした。が、中下先生が4月の開講当初から考えていらっしゃったのか今となってはかわかりませんが、作り上げた訳注を大学院紀要に載せようという目標がありました。これは少し説明が必要かもしれませんね。

『春秋繁露』は私が入院した年に読み始めたものではなく、それ以前から中下先生が大学院で読んでいたものです。私が入った時点で恐らく10年以上は読んでいたのではないでしょうか。ただ、私が入る前1年か2年くらいは、古代思想に興味ある学生がいなかったこともあり途絶していました。この年、私が入ったことで、たぶん中下先生が「こいつは『春秋繁露』を読むだろう」と漠然と思われて、改めて開講されたのではないかと思います。私はまだ大学院入りたてのぺーぺーでしたから、現在は各地で活躍されている先輩方に声をかけて、時間があるなら来てもらい、皆で『春秋繁露』を改めて読み始めることにしたのです。と言っても当初は訓練がてら私が1人で読み始め、先輩方にはおかしな点を指摘してもらう形式でした。

こんなわけで始まった訳注ですが、中下先生としてはご自身の定年退職が数年後に迫り、何か形に残るものを残しておきたいと思われたのではないかと思います。また中下先生は本来近代史を専攻とされていらっしゃいましたが、近代中国と言えば公羊学です。私も、そして参加された先輩方も、結局は公羊学を理解しなければ中国はわからないぞ、という考えでこの春秋繁露研究会に参加されていたようです。確かに、主だった中国古典の中で、訳注のないものと言えば真っ先に『春秋繁露』が挙げられるのではないでしょうか。なにせ儒教国教化の立役者・董仲舒の主著と言われながら、管見の及ぶ限り和刻本すら存在しないのですから。

どこでも好きなところ読んでいいぞ、と言われて始まった『春秋繁露』ですが、何篇かは数年前までの先輩が読んでいましたので、先生に聞いて誰も読んでなさそうなところを選びました。今でも鮮明に覚えていますが、一番最初の授業の時、孫詒譲の『札い』(「い」の字は「多」にしんにょう)の『春秋繁露』の項目をコピーしたものが渡されました。ちょうどその頃、私も買っていましたが、該書が東方や内山の店頭に並んでいたのです。

え、いきなり! と思いつつ、なんとか現代語とも古典漢文ともつかぬ孫詒譲の文章を読み始めました。来週からはどこを読む。自分で選べ、と言われ、確か先輩の読んだところがどこであったか来週か再来週になればはっきりするからそれまでの繋ぎで読んでみろ、という話だったと思います。2回目の授業では中程にある、比較的短い篇を選び読み始めましたが、その時はその次の時に先輩が読み終わっているところがはっきりしたので、改めて私がどこを読むかをきちんと決めなくてはならなくなりました。

秦漢思想を学んでいた私は、当時は陰陽五行説とか讖緯思想に興味を持ち始めていました。そこで『春秋繁露』の目次を見ていると後半に陰陽五行とか祭祀関係の篇が並んでいるのに気づきました。その時、なぜ陰陽五行を後回しにしたのか今では覚えていませんが、ともかく祭祀関係の諸篇を読み進めることにしました。ちょうど学部4年の時に『史記』の封禅書を読んでいたことが影響したかもしれません。この頃読んでいた『春秋繁露』は、その後大学院終了時に大学院紀要に発表しました。

(第15回 完)

2014年9月29日