1、はじめに
司馬遷の『史記』の中に八書の一つとして「封禅書」が存在する。「封禅書」は古来からの祭天の儀礼である封禅について述べたものであるが、司馬遷とその父・司馬談が大きく関わった武帝の封禅の儀式がそのハイライトである。
一方、司馬談が武帝紀の一代盛事である封禅の礼に参加できなかったことを悔やみながら、息子・司馬遷に後を託したことも有名な逸話である。このことから司馬遷が父の死の一因である封禅に対して並々ならぬ関心を持っていたことは間違いなく、また万感の思いを抱いて封禅の礼に参加したことでもあろう。
ところで、『史記』の「太史公自序」には、作者・司馬遷と壺遂との会話に「余、董生に聞きて曰く(余聞董生曰)」という文が見え、司馬遷が董仲舒と関わりがあったことがわかる。太史公という官職は史官であり、歴史書である『春秋』の大家として知られた董仲舒と何の関係がないとはとても思えない。董仲舒の弟子は数多く、『漢書』董仲舒伝では「弟子、伝ふるに久次を以て相業を授く(弟子伝以久次相授業)」というくらいであり、司馬遷が董仲舒自身から講義を受けたのであったのなら、かなりの高弟であった可能性もある。
この董仲舒の主著と言われる『春秋繁露』を東洋大学大学院へ入学後、演習で読むようになった。そして特にこれという理由があるわけでもなく『春秋繁露』の祭祀関係の諸篇を読み始めた。あえて理由を捜すなら、陰陽五行や祭祀という、ちょっと胡散臭さの漂うテーマに多少の関心を持っていたこともあるが、それ以前に諸先輩が初めの方の何篇かを既に読了していたため、それと重ならないようにする必要があったからである。
2、天至上主義
『春秋繁露』の祭祀関係の記事は比較的後半にまとまって並んでいる。具体的に篇名を挙げるならば、巻十四に「郊語第六十五」、巻十五に「郊義第六十六」「郊祭第六十七」「四祭第六十八」「郊祀第六十九」「順命第七十」「郊事対第七十一」、巻十六に「執贄第七十二」「山川頌第七十三」「求雨第七十四」「」止雨第七十五「祭義第七十六」「循天之道第七十七」である。基本的には天を祭る儀礼である「郊」と四時の祭である「四祭」について様々な見地からその在り方が述べられており、主眼が祭祀から外れるような篇も混じってはいるが、おおむねこれら諸篇をひとまとまりと見なして構わない。
これらの篇で主張されていることの中で最も重要なのは天に対する態度である。具体的な内容は過去に『東洋大学大学院紀要』などに発表した「春秋繁露註釋稿」を参照していただきたいが、それは天子にとって最も重要な祭祀であるから、あらゆる祭祀の中で最初に行なわれなければならない、どんなことがあっても行なわなければならない、とされている。極端な例としては、天に対する祭祀は、たとえ親が死んで服喪中のために、その他一切の祭祀を取りやめたとしても行なわなければならない、とはっきり記されている。
これらの文章を初めて読んだ時には、その主張の強烈さに多少いかがわしい新興宗教のような感じを受けたが、それと同時に天に対する祭祀としての郊祭を『春秋繁露』がどれほど重要視しているかを認識させられた。
3、封禅
これらの諸篇を一つずつ順番に読み進めていくうちに、非常に不思議に思えたことがあった。それはこれら諸篇の中に「封禅」という言葉が一つも出てこないことである。『春秋繁露』では管見の及ぶ限り、「王道第六」に「天を郊し地を祀し、山川に秩し、時を以て至し、泰山に封じ、梁父に禅す(郊天祀地、秩山川、以時至、封於泰山、禅於梁父)」とあるだけで、それ以外には全く封禅という言葉が見えない。
初めにも述べたように封禅は武帝の時代の最も大きな行事と言っても過言ではない。文帝・景帝の頃より徐々に封禅に対する議論が活発になってきて、司馬談が封禅に対する意見を述べたこともあった。このように武帝の時代に向けて封禅に対する気運が盛り上がってきたことは「封禅書」の記述からも見て取れる。
にもかかわらず、『春秋繁露』の祭祀関係の諸篇には封禅に対して一言も述べられていないのである。『春秋繁露』が董仲舒の著作であると考えた場合、董仲舒が景帝の時代に博士となり、当時の学者としては第一人者であったことを加味すれば、封禅に対して何の発言もしていないのは不思議である。
ところでまた、『漢書』董仲舒伝に「仲舒、家に在り、朝廷にもし大議有れば、使者および廷尉張湯をしてその家に就かしめて之に問ひ、その対みな明法有り(仲舒在家、朝廷如有大議、使使者及廷尉張湯就其家而問之、其対皆有明法)」とあるように、政治の表舞台にはいなくとも董仲舒は、言うなればご意見番・顧問相談役のような立場であったようである。この記述と対応するかのように『春秋繁露』には「郊事対」という篇がある。その内容は張湯が皇帝の使いとして董仲舒の許を訪れ「郊」について尋ねるというものである。
皇帝とはここでは当然武帝であろうが、あれだけ封禅に執着していた武帝の使者である張湯の口からはとうとう封禅の二文字は発せられなかった。篇名からもわかるとおり、この一篇は郊祭について、張湯の質問と董仲舒の答え(考え・主張)によって構成されており、またこの対話全体が武帝への奏上文に議せられている。
4、郊祭
筆者はかつて1995年11月12日に行なわれた無窮会八十周年記念東洋文化談話会発表大会で「董仲舒と郊祭」の題目で発表を行ない、更にその発表に基づいて『東洋文化』(復刊第78号、平成9年3月)に「前漢郊祭考」を発表した。これらの発表のために『漢書』の各皇帝紀を調べた限りでは、実は「封禅」という言葉よりも「郊」という言葉の方が目に付いた。
前漢は成立当初より秦の祭祀を引き継いで、秦代以来の場所で祭祀を行なってきた。それらは都・長安からすれば郊外にあるので(郊外と言うにはかなり遠いものもあるが)、一括して「郊」と呼ばれていたようである。記録から見ると、時代が進むにつれこれらの祭祀の対象・場所・期日が徐々に問題になってきたようであり、議論はほとんどこの三者のうちのいずれかを話題・主題としている。これらの議論は、武帝の時代に一つの結論を見たというよりは、むしろ武帝の時代に向けて大いに盛り上がり、それ以降ますます活発化していったと言える。そして最終的な決着は王莽の登場を待たねばならない。王莽以降は、現在の北京市に天壇・地壇が残っていることからもわかるように、郊祭は皇帝の重要な祭祀として、以降の王朝に継承されていったのである。
狩野直禎氏が「封禅と郊祭とはともに、皇帝が天地を祭るという点では共通の要素を有するが、後世、皇帝の行う祭祀としてのありかたや、祭祀を行う場所など、種々の点で両者は異なった面も持っているのである」と述べ、更に「封禅があまりにも神仙と結びつき、また神格化されていったのと、秦の始皇帝や漢の武定の例からも分るように莫大な費用を要したので、かえって後世には唐の玄宗や宋の真宗など、この儀礼を行ったものは数えるほどしかなかった」と言うように、後世では封禅よりも郊祭が例祭として定着したようである(『漢書郊祀志』(1987年、平凡社「東洋文庫」)の解説)。
5、終わりに
泰山を舞台とする封禅は山東の学者によって主張され、長安付近を舞台とする郊祭は関中(旧秦)の学者によって主張されたと断言するにはあまりにも証拠となる資料が少ないが、このように当時の学者間の地域対立・競争という角度から眺めてみるのも面白いと思う。事実、『漢書』郊祀志を見ると実に様々な人が十人十色の意見を開陳している。このような立場で漢代を眺めてみると、関中派がひとまず勝利を収めたということになるのであろうか。
『春秋繁露』の祭祀関係諸篇の主張は、武帝以降の学者たち、特に王莽の主張と類似するところが多い。現時点での筆者の印象としては、これら祭祀関係の諸篇が董仲舒自身の手になると考えるよりは、董仲舒の弟子、孫弟子(あるいは更に下るかもしれないが)あたりが前漢末に向けて郊祭の議論が収束へ向かう中で師・董仲舒に仮託して作り上げたものであったのではないかと想像している。学問の立場を離れて言わせてもらえば、自身の意見の権威付けに王莽が董仲舒一派の後学に命じてでっち上げさせたのではないか、などと想像して楽しんでいる。特に先に紹介した「郊事対」などはいかにも後から作ったという臭いがする。ただ董仲舒自身が全くこれら郊祭について何の発言もしていなかったと考えるのも問題があり、今後は祭祀関係諸篇がいつ頃成立したものかを史書の記述などと比較検討して推定することと、果たして董仲舒自身の意見はどのようなものであったのかをあぶり出すことが筆者の課題である。