第16回 大学院2年次

大学院2年次は修士論文を除くと、取らなければならない授業の単位はありませんでした。が、これはどこの大学でも似たり寄ったりでしょうが、主査・副査の先生の授業には最低限1コマ出席することになっていました。私も主査の先生の授業を1コマ、1年次からの継続で出席しました。私の下の学年、つまりこの年の大学院新1年生は3名いたので、2年生の我々がメインとなって授業に出て演習を行なう必要はほとんどありませんでしたが、出る以上は一通り読んで訳して調べて、ということはしなければなりませんでした。

また前回書いた『列子』の授業と『春秋繁露』の授業は新1年生の履修者がいなかったので、引き続き参加しました。『列子』の方は卒業生の人が以前から参加していましたので、昨年と同じメンツでの授業で、ただテキストを『列子』から王弼注『老子』に変わっただけでした。

『老子』は王弼注ということでしたが、たまたまその当時台湾から河上公注の『老子』が輸入されてきたので、なんと我々は2種類の注を比較して読むという授業になりました。この授業は私を含めて3人しか学生がいませんので、1人が王弼注、1人が河上公注を分担して、あとの1名がその週は分担がお休みというローテーションでした。事実上毎週当番が回ってくるような感覚でした。しかし、これまた楽しい授業でした。昨年までは魏晋玄学と一括りにしても人によって思想に差異があることを学びましたが、今回は魏晋玄学ではない河上公注ですから違いがよりはっきりと見えてきます。先生も当初の計画とは異なる河上公注の併読を楽しんでいらっしゃったのではないかと思います。ただこの授業のお陰で、私は老子を迂闊に解釈できなくなってしまいました。これもよい効果ということなのでしょうが、既存の訳注書とかを見ても、本当にこれでいいのかなあ、と思うようになったことは確かです。

もう一つ出ていた『春秋繁露』は、この年にははっきりと先生から紀要に成果を発表しようということが表明されていたので、こちらもそれを意識して訳注を作りました。またいくらなんでも私一人では心許ないですし、力不足ですので既に卒業していた先輩方にも先生から声を掛けていただき、出席してもらうようになりました。その結果、実際に授業料を払っている学生は私一人でしたが、入れ替わり立ち替わりで数名の先輩方が参加していました。これは私にとっても大きな収穫でした。

以前に書いたかもしれませんが(既に読み返す気力がない… ^^; )、東洋大学は学部の1年生、2年生が埼玉県の朝霞校舎で、3年生から大学院までが文京区の白山校舎にわかれています。特にゼミと言うスタイルの授業がないので、3年・4年次に選択科目が重なる程度で、再履修科目でもない限り他の学年と顔を合わせる機会が多くありませんでした。近い方と言えるのかもしれませんが、朝霞と白山は電車1本でいけるわけではないので、上級生が朝霞へ行ったり、下級生が白山へ来たりということも少ないものでした。白山の研究室には1部屋学生の雑談・自習室がありましたが、3年生、4年生ですら来ることが希ですので、わざわざ1年生や2年生が来ることはまずありませんでした。と言うよりも、朝霞で授業があれば、事実上白山へ来ることは不可能に近い状態でした。

と言うわけで、我々の頃から上下の繋がりというか交流が極端に少なくっていた東洋大学でしたので、上級生と一緒に中国の古典を読めるというのは限りなく贅沢で恵まれた環境だったと思います。ただ、先輩方が何人も出席するようになったとはいえ、実際に訳注を作って、読んで訳していたのは私一人でした。これは修士論文の執筆時期だろうと関係なく、この1年間続きました。

(第16回 完)

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