第8回 大学3年次(前)

ようやく大学3年生に突入です。うちの大学は1年生、2年生は朝霞校舎(埼玉県朝霞市)で学び、3年生から大学院までは白山校舎(東京都文京区)で学びます。私の場合、通学がかなり楽になりました。そして本好きのメッカ・神保町が通学路に入りました。

ちなみに私は大学受験・合格発表・入学手続きとすべて白山校舎でしたので、また過去問すら見ないような受験生でしたので、東洋大学に入るということは模試で来たこともある文京区のあの学校に通うのだと勝手に思いこんでいました。しかし4月になって履修要覧など実際の始業準備にかかわる事務手続きが始まる段になって初めて「受け渡し場所:朝霞校舎」とあるのに気づきました。「朝霞校舎」って何? というのが率直な感想でした。そこで恐る恐る大学入試の募集要項を見直しました。すると、「1・2年次朝霞校舎」という文字がありました。その時点まで頭の中には全く「朝霞」などという文字がなかったものですからかなりの衝撃でした。

今更こんなことを書いてもしょうがないですね。話を3年生の時に戻しましょう。3年になるとさすがに「一般教養」的な授業はなくなります。選択科目として中哲文科の場合、同じ文学部の哲学科・インド哲学科の授業などを履修することも可能でした。中国哲学と文学にはそれぞれ「特講」「演習」という名の授業が2つずつあり(つまり合計8つです)、「特講」「演習」それぞれの中から3つを選択することになっていました(3年・4年の2年間で)。いちおう卒論のテーマが哲学的な人は哲学を2つ文学を1つ、逆に文学的な人は文学を2つ哲学を1つ選ぶという暗黙の了解がありましたが、授業内容と開講時間によって選べばよく、堅苦しい決まりというほどのものではありません。時には4つずつすべて履修する剛の者もいました。

私の場合、教員免許にしろ学芸員・図書館司書にしろ資格というものを全く取るつもりもなく、それ故そのための授業を履修してこなかったので、学科の授業の選択は比較的自由にできました。ただ、どう頑張って取りこぼしなく履修しても、1年で履修できる単位に上限があるため、4年次に卒論とあと授業1科目が残るようにできています。そして、ここでもまた暗黙の了解のようなものがあり、4年次には、確かに制度上は卒論と1つの授業だけ出ればそれで構わないのですが、自分の卒論担当の先生の演習科目には単位にかかわらず4年の時にも出席しなければならないのです。もちろん出ない学生もかなりいましたが、多くの学生は自分の担当の先生の授業の単位を4年次に残しておく履修の仕方をしていました。

そんなわけで私は哲学特講を2つ、哲学演習を2つ、それに文学特講・文学演習を1つずつ、合計6つを履修すればよかったのですが、哲学演習を1つ4年次に回しました。

では次にこの年に履修した科目(主として演習形式)を書き並べてみます。
中国哲学特講 : 塩鉄論 章太炎先生自訂年譜
中国哲学演習 : 史記会注考証
中国文学特講 : 世説新語
中学文学演習 : 楚辞集注
中国現代文学演習 : 長生塔(巴金)

この他に講義形式として中国哲学史概説、中国文学史概説、中国現代文学史概説、文字学の授業がありました。

書名だけは立派に並んでいますが、どれも全篇を通読したわけではありません。ほとんどの科目は先生がこの数年来ずっと講読を続けているもので、昨年度の続きから読み始める場合がほとんどでした。そしてこれまで繰り返し述べてきたように、原文だけでなく注も読み、出典調査をしながらですから、我々の年もせいぜい1篇か2篇も読むことができれば「御の字」という状態でした。結局は「中国の古典文献の取り扱い方を学ぶ」ことの方がメインで、例えば『塩鉄論』に書かれている内容を皆で吟味して議論を戦わす、というものではありません。中哲文科の場合、いわゆる「ゼミ」というものがなく、どの授業も平均20人から30人くらいの学生が履修していましたから、事実上そのような授業を行なうことは不可能といっても過言ではありませんでした。

ただこの中で『世説新語』の授業だけは、履修時間の関係もあってか3年生の履修者は私を含め3人か4人で、あとは10名ほどの4年生がいただけでした。が、4年生は就職や卒論、教育実習など授業に出てこないことが多く、実際の授業は我々3年生数人でやってました。この授業は前期のうちは序論や本文の初めの辺りを少し読んだのですが、後期からは夏休みの課題を承け、各自が『世説新語』の中から興味ある人物を選び、その人のエピソードを全書から集め、そこからその人物の人物像を自分なりに考え発表するというものでした。学生は事実上3人しかいませんから、事前準備も含め協同作業のような感じで進みました。レジュメもあらかじめ配ったりしておいたので、議論も盛り上がり私個人としてはなかなか楽しい授業でした。

『塩鉄論』は王利器が注釈を施したものがテキストでした。ここまで幸いにも我々が履修してきた教材はほとんど「虎の巻」とでも言うべき、訓読・現代語訳付きの本が出ていました。が、この本には手頃な翻訳書がなかったのです。せいぜい部分訳程度で、この年読んだ部分はその部分訳には含まれていませんでした。あれこれ捜していたところ、運良く古本屋で岩波文庫の『塩鉄論』を見つけることができました。もちろん新刊書としては品切状態でしたので、古い文庫本のくせに1000円もしました。ただ、今となっては古い品切・絶版ものの岩波文庫は1000円なら安い方ですね。なおこの岩波文庫は数年前に復刊されています。

岩波文庫で昔『塩鉄論』が出ていたということは、あまり学生の間には知られていませんでした。やはりその時点で品切になっているとわからないものです。図書館なら置いてあったはずですが、そもそもあると思っていなかったためか、クラスの中で持っている人はいないようでした。もちろん図書館の本はせいぜい1冊か2冊しかないですから、誰かが(他の学年・学部の人も含め)借りてしまったらおしまいでしょうが……。そのため、私が持っていた岩波文庫はちょっとした人気者でした。なにしろ、その岩波文庫は訳こそ載ってないものの、『塩鉄論』全書に訓読がつけられていたからです。

岩波文庫で思い出しましたが、同じくこの年に履修した『楚辞』も、その当時は品切でしたが、かつて岩波文庫にありました。そしてこれも同じですが数年前に復刊されました。ただ、この当時の岩波文庫は往々にして訓読文だけで現代語訳がありません。当時の日本人の教養レベルなら、訓読がそのまま現代語訳として通用したのでしょう。が、現代の私たちにはそれではちょっと困ります。むしろほとんどのクラスメートは訓読よりも現代語訳の方を求めていました。

この辺りで、本当に中国学が好きで入学してきた者とそうでない者との差が出てきます。好きな学生は訓読だけで十分なのです。なぜなら解釈は自分でやるのが勉強だと思っているからです。時には既存の訓読が当てにならないと感じることもあります。最悪の場合、間違っている訓読もあるほどです。間違っているというよりは、自分の解釈に従って訓読するとそのような訓読にはならない、と言う方が正確でしょうか。

が、とりあえず好きでも嫌いというわけでもなく入学してきた学生はそんな解釈がどうのこうのと言ったことには興味がないのでしょう。単純に現代語訳だけを求めます。入試に漢文がなかったということからも、また比較的大人数で演習も行なわれていたということからもわかるように、うまく3年生まで進んできた者もかなりいます。人によっては漢文訓読の基礎が全くできていない人もいました。私立の高校の場合、受験科目に漢文がなければ、授業で漢文を選択しなくてもよいらしく、漢文の授業を受けたことがないのに中哲文科に入学してきた学生もいるようです。

ただ、これも考えようだと思います。自分はミーハーかも知れないけど,NHKのドキュメンタリーや漫画などで中国に興味を持ったから入学してきた。高校時代には漢文の授業がなかったから漢文を読むのは苦手だけど、大学で一から勉強すればいいや。こんな風に考えて入ってきた学生もいたと思います。しかし、大学というのはそういう面では冷たいところです。最低限(これも人により先生により差がありますが)のことは、各自が自分でやっておくものだという考えが支配的です。ですから、漢文訓読の基礎は「授業で」ではなく「自分で」身につけなければならないのです。

例えば、中国哲学史と中国文学史の授業は3年生であります。別にこれは概説と銘打っていますが、決して古代から近現代までの通史の授業ではありません。先生が毎年毎年適当なテーマを選んでそれについて1年間かけて講義をするのです。もし中国哲学史・文学史の概略を講義するような授業であるなら、3年生でやっても意味がないでしょう。1年生の時にやるべきだと思います。が、実際には上に述べたような授業内容なので3年生に配当されていました。ですから、中国哲学史・文学史の大略を学ぶのは、これもまた各自が自分でやらなければならないのです。

これが大学の学問のやり方と言えばそうなのでしょうが、やはり我々世代の気質にはちょっとなじみにくいものもありました。結局、好きで入学した者は、なんとか自分でやり抜け、そうでない者は中哲文科を卒業したというのに、なにもつかむことができずに卒業していくことになるのです。ちなみに中哲文科の学生で卒業時に、中国歴代王朝の順番をきちんと言える人はほんの一握りでしょう。もちろん中にはきちんと成立年・滅亡年まで言える人もいますが。ましてや四書五経、十三経・二十四史を言える学生はよほど奇特な学生です。

(第8回 完)

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