憎き生姜!

妹家族がやってきました。甥っ子の半年に一度の通院のためで、明日がその日なので今日来て、明日病院へ行き、そしてまた帰るということです。

で、今宵は皆で近所のバーミヤンへ夕食を食べに行きましたが、バーミヤンのメニューって、あんなに生姜が効いていましたっけ? 基本的には美味しく楽しく食事ができたのですが、どの料理も生姜が効いていて、あたし的にはちょっとNGでした。

このダイアリーで何度か書いたかもしれませんが、あたし生姜、苦手なんです。中国料理って生姜だらけじゃない、と言われそうですが、中国へ行って食べるぶんには気にならないんですよね。そもそも生姜が効いているのか? 生姜以外のスパイスがかなり強烈だから気にならないのか? そのあたりはわかりませんが、とにかく日本では、生姜の効いている炒め物はだめです。

豚の生姜焼きは食べられません。スタミナ焼きも同じですよね? スタミナや気なんて言われても、あたし的にはスタミナどころか元気を奪われるメニューでしかありません(涙)。

数年ぶりのバーミヤンで、そんなことを思い出しました。確か、以前に来たときも、生姜が効いているな、と後悔したのを思い出しました。学習効果のない人間ですね、あたしって。

真剣に将来について考えてみた

若いうちは可能性に満ちあふれていると言われますが、逆に言えば、歳を重ねるといろいろと選択肢が狭まるということであります。最近、つくづく、そういったことを感じるようになりました。

いま、あたしは母と二人暮らしです。母は今のところ元気でピンピンしていますが、いつボケるとも限りませんし、ボケなくとも体がきかなくなる可能性だってあると思います。そうなると、あたしはいまのような生活を送ることは難しくなります。難しくなるどころか不可能と言ってよいでしょう。老老介護ではありませんが、あたしが働きながら母の面倒を見なければならなくなるわけです。

そんな余裕、どこにあるのでしょう? いや、余裕なんかなくても、やらないとならないのですよね。仕事を辞めるわけにもいきません。介護をするにしても、いろいろお金はかかります。自分が働いて収入を維持した上での介護なわけですから、介護のために仕事を辞めるというのは本末転倒です。

まあ仮に、母がこのまま元気なままで亡くなったとします。残されたあたしは一人暮らしになります。日常的な炊事、洗濯などはすべて母にやってもらっていましたので、それを自分でやらなければならない負担がのしかかってきます。いや、それは今までが楽をしていたわけだから当然と言えば当然です。それはなんとかしないとならないでしょう。やるしかないです。

問題は、ふだんは母に任せっきりでほとんど交流のない近所づきあいの方でしょうか? このままいくと、孤独死、孤立死が現実味を帯びてきます。一応、親戚として妹夫婦はいますが、静岡在住ですから、何かあったときにすぐに駆けつけてくれるわけではありません。あたし一人でなんとかしないとならないわけです。そういう事態に陥ったときに、果たしてあたしは体がまともに動くような常態なのか否か、なってみないとわかりません。不安がないといえば嘘になりますが、今から考えても仕方ないことでしょう。

こういうことになるから、多くの人はパートナーを見つけるわけですね。離婚した人も、一人で迎える老後は不安だから再婚を真剣に考えるのでしょう。確かにその気持ち、わからなくはないです。ただ、あたしの場合、人付き合いが基本的にできないタイプなので、いまさら結婚など、どうしたらできるのか、という気がします。

その結婚ですら、例えば、今から本気考えて実現しようと思った場合、相手はいくつくらいの人になるでしょうか? 相応に考えれば、そこそこの年齢の方になるのだと思いますが、そうなると(失礼な書き方になるかもしれませんが)現実問題として、二人の間に子供を作るということは考えにくいでしょう。かといって、子供を作れるほど若い人と結ばれる可能性があるかと問われれば、そちらの方がはるかに低い、ほぼゼロ・パーセントではないかと思います。

で、あたしみたいに子供が好きなタイプにとって、子供を作らない(作れない?)のに結婚する意味ってあるのか、という疑問があります。子供だけが結婚ではない、という人も大勢いますし、そういう考えがあることも理解していますが、あたしはそうではありません。やはり結婚するからには子供が欲しいと思います。

そんな歳まで恋人の一人も作れなかった人間が何を言っているんだ、と言われそうですが、そう思っているのですから、こればっかりは如何ともしようがありません。となると、消去法で考えていくと、結婚は諦め、孤独死へ向かってひた走る人生後半を甘んじて受け入れるしかないようです。

いや、それならそれで仕方ないか、自分が選んできた人生なんだから、という諦観はあります。ただ、そんな風に考えたときに、ああ、これが歳をとると選択肢が狭まるということか、と実感されるのです。残されたオプションとしては、子持ちバツイチの人と結婚するという形でしょうか? 他人の子供を愛せるの、というもっともな疑問も出てくるでしょうが、そもそも自分の子供がいないわけですから、そしてたぶんその結婚相手との間に子供をもうけることもないと考えれば、他人も何もないです。たぶん愛せると思います。

が、そもそも問題なのは、あたしが子供だろうが大人だろうか本気で他人を愛せるのか、ということかもしれません。

所詮、いい人で終わる?

狐さんの恋結び』読了。過日読んだ『恋都の狐さん』の続編です。

 

個人的には前作で恋を成就させたとおぼしき狐さんが、その後失恋し今作では新たな恋が生まれるという話ですが……

なんか、うまく行きすぎている感があるのは恋愛小説だから仕方のないことでしょうか? それに、今作の場合、果たしてこれは恋と言えるのでしょうか? ヒロインの女の子はまだ恋なのかどうか、自分の気持ちがわかっていない感じです。とりあえずは「いい人」とは思ってくれているようですし、二人で出かけたり、食事をしたりといったことには付き合ってくれます。

これをもって恋人と言えるのか、付き合っていると言えるのか、恋愛未経験者のあたしには判断つきかねます。一緒に(二人だけで)遊びに行ったり食事に行ったりする男友達なってたくさんいるよ、という猛女も世の中にはたくさんいるでしょうから、そういう女性から見たら本作のヒロイン春菜のやっていることはオママゴトにしか見えないのではないでしょうか?

仮に二人が付き合ったとしても、よい家柄のお嬢様と、無職で30手前の男性が釣り合うとは思えません。いずれ反対されるのは目に見えていますし、そんなとき狐さんが蛮勇をふるって彼女と二人駆け落ちをするとか、定職に就くとか、そういった成りゆきは想像できません。

やっぱり、いい人で終わってしまうタイプなのではないでしょうか? とはいえ、無職の引きこもりなのに、こうやって出会いがあるなんてズルいと感じます。

書評連続、重版続々

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みんな辞めていく

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既に3刷

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室内熱中症?

Facebookにも書いたのですが、昨晩と言いますか、今朝未明と言いますか、夜中の二時ころ、目が覚めましてトイレに起きました。その時、上半身を起こした布団の上でフラッとなり、その後、トイレに向かう廊下でもフラフラし壁にぶつかりながら前へ進むという体たらく。

これって、もしかして熱中症だったのでしょうか?

扇風機を付けていますが、エアコンのない、あたしの寝室。いえ、寝室なんて大層なものではなく、もとは納戸という狭い部屋。窓も小さく、空気の流動性は悪いです。夜中でも時計に付いている温度計は33度を示していましたから、かなり暑かった室内のはずです。

やはり熱中症になりかかっていたのでしょうか? 枕元に水でも置いておいた方がよいでしょうかね?

昨晩の隅田川花火大会にまるで関心のないあたしは江戸っ子とは言えないのだろうか、という件について

このところ昼間もそうですが夜も暑いです。あたしが寝ている部屋はもともと納戸だった部屋で、つまりは部屋と言うよりは物置、せいぜい2畳程度の広さ(狭さ?)しかなく、窓も小さいのがあるだけのものです。ですから、クーラーなんて付いていません。付けようにも付けるスペースがありません。辛うじて壁掛けの扇風機を設置し、それを回しております。

夜中に暑さで目が覚めると、枕元の時計を観ます。夜行性なので真っ暗な部屋の中でも見えます。そして時刻だけでなく、温度と湿度も表示されているのですが、それがこの数日は真夜中だと言うのに「32度」とか「33度」といった数字を表示しています。「見るんじゃなかった」と思ってももう遅いです。見てしまったものは取り消せません。そんな数字を見てしまうと、実感以上に暑く感じます。

もちろん、外気はもう少し涼しい(?)のでしょうし、あたしの部屋の小さな窓だって開けてはいますが、なかなか外の空気との循環ができているわけではなく、室内はそんな気温になっているのです。夜中に目が覚めて「いま何時かな?」と時計を見てしまうのは既に癖のようなもので無意識にやってしまいます。そんなとき、小さな時計の盤面に表示されている温度表示にまで視線が向いてしまうのもやむを得ません。

せめて夕方に一雨来れば気温も下がって寝やすい夜になると思うのですが……。そう言えば数日前、東京は世界で一番暑い都市だというニュースを読みました。気温だけを見ればもっと暑い(高い)都市はいくらでもあるようですが、湿度ですとか、コンクリートに覆われた照り返しなど、東京ならではの暑さは格別なようです。そして特に大きかったのが「夜間に気温が下がらない」という点。これが東京をして世界でもっとも暑い都市にしてしまっているようです。

そんな東京の夜ですが、昨晩は隅田川の花火大会でした。

火事とけんかは江戸の華と言いますが、江戸の風情を今に伝える隅田川の花火大会という触れ込みなのでしょうか、毎年テレビ東京が生中継していますよね。あの意味がわかりません。花火をテレビで見て何が楽しいのでしょう。一発、二発の映像をニュースとして見るぶんにはわかりますが、二時間も生中継ってわけがわかりません。

ちなみに、あたしは隅田川の花火大会は見に行ったことはありません。行きたいとも思いませんし、テレビの中継も見たことはありません。自宅のベランダや窓から花火が見えるというのであれば「ああ、やってるな」「きれいだね」と眺めるくらいはするでしょうが、わざわざ会場に行ってまで花火を見ようとは思いません。

ですから、あたしは花火大会って見に行ったことがありません。小さいころ、うちの家族と親戚の家族と一緒に矢切の渡しのあたりの花火大会を見に行ったことがあったかな、という程度の記憶があります。場所はうろ覚えなので、全然違うところだったかもしれませんが。で、その時の感想は、確かに目の前に打ち上がる花火は大きくて迫力がありきれいでしたけど、あれを毎年見に行きたいかと聞かれれば、いえ結構です、と答えるでしょう。実際、その後は行っていません、どの花火大会にも。

あたしの場合、花火大会が嫌いと言うよりも、お祭り自体が好きではないのですよね。「にぎやかで楽しくて、屋台とかも出ていて面白いじゃない」と言われれば、確かにその通りですが、そういうのが鬱陶しくて面倒で、いやなのです。幼少のころ、巣鴨の地蔵通りに住んでいたので、毎月三回、4の付く日に縁日があり、昨今ほどではないにしても、当時もそれなりに賑わっていました。もちろん屋台も出ていました。そんな縁日を楽しんだ記憶もたくさんありますが、小さいころにそれだけ経験していますと、もう飽きてしまいます。ふだんは楽に買い物ができる商店街が、4の付く日だけは人出が多すぎて歩くのもたいへんだったりすると、もう嫌になります。そんなこんなで徐々に縁日が嫌いになり、祭りが嫌いになった、というところでしょう。

小学校、中学校、高校と嫌われっ子だったあたしには、「お祭りに行こうよ」「花火見に行こう」と誘ってくれる友達はいませんでしたから、学生時代も祭りに行く機会は皆無でした。もちろん浴衣のカップルなんていう図は、あたしにとっては夢のまた夢、現実に起こりうるとはとても思えません。きっと、これからの残りの人生も同じでしょう。もちろん、もともと出不精なあたしですから、一人で行こうという発想もありません。なんでわざわざあんな人混みに出かけて行かないとならないの、というのが正直な気持ちです。

と、まあ、あたしはそんな風に祭りが好きでなく、縁日も好きではない大人になってしまったわけです。でも、よーく考えると、縁日が嫌いになった理由にはもう一つ、トラウマと言えるような体験があります。

上述の地蔵通りの四日市のことです。当時、JR巣鴨駅側から地蔵通りに入ってすぐのあたりの炉端でアコーディオンを弾いているおじいさんがいました。大帝は片足がなく、骨組みだけの義足を付けていました。いまだからこそ「傷痍軍人」だとわかるのですが、当時は四肢が揃ってなく、悲しげにメロディーを奏でるあのおじいさんたちが怖くて仕方ありませんでした。「あの人たちはだあれ?」と親に聞くこともできず、一人心の中で震えていたわけです。

縁日というと片足のない怖い人が現われる日、という印象というか、刷り込みが出来上がってしまったのではないかと思います。