2014年のアーカイブ
今日の配本(14/03/24)
いつになく冗舌?
現代の作家たちは、ペル・ジムフェレールが指摘したように、もはや社会的地位というものを叩きのめそうとするお坊っちゃんではないし、ましてや社会不適合者の群れですらなく、むしろ社会的地位のエベレストに登ろうとする、社会的地位に飢えた中流階級や労働者階級出身の人々のことだ。マドリード生まれの金髪やブルネットの子供たち、人生を中の上で終えたいと願っている、中の下の人々。彼らは社会的地位を拒まない。必死になってそれを求める。それを得るためには大量の汗をかかなければならない。本にサインする、微笑む、見知らぬ土地を旅する、微笑む、ワイドショーで道化を演じる、大いに微笑む、お世話になっている人には絶対に歯向かわない、ブックフェアに出席する、どんな間抜けな質問にも愛想よく答える、最悪の状況でも微笑む、賢そうな顔をする、人口の増加を抑制する、いつもお礼を言う。(P.155、「クトゥルフ神話」より)
出版社の特権、刊行前の新刊を手に入れることができる! ということを別に自慢したいわけではありませんが、最新刊『鼻持ちならないガウチョ』、読了しました。
今回も、先の『売女の人殺し』同様、短編集ではありますが、かなり感じが異なります。『売女』はボラーニョ自身とおぼしき主人公が登場する作品も含まれていて、小説というよりは自伝といった趣を濃厚に感じさせる作品集でありましたが(ただし、あたしはそういう自伝的な作品よりも、純粋にフィクションの作品の方が面白く読めましたが)、今回は最後の二篇が講演原稿であり、その他の作品も、それほど濃厚に自伝的な感じを漂わせているわけではありませんでした。むしろ、もう少し大きく広く、ボラーニョが生きたチリ、そして南米の社会を描いているような作品集と言ったらよいのかな、と思いました。(そういう意味では「ジム」は『売女』に収録されていても違和感がないような気がします。)
秀逸なのは、やはり表題作である「鼻持ちならないガウチョ」、そして「鼠警察」の二篇です。「ガウチョ」は解説などを読めばわかるように「ドン・キホーテ」を彷彿とさせる滑稽さなのでしょうが、「ドン・キホーテ」を読んでいなくても、知らなくても主人公の滑稽さ、田舎暮らしをすることになった都会人のズレ、何とも言えない淋しさをたたえた笑いがこぼれます。
「鼠警察」はカフカの作品へのオマージュと言うことですが、こちらもそれを知らなくとも何の問題もなく読めます(現にあたしがそうです)。むしろ『2666』を読んだ人には、ネズミの世界を借りた「2666」なのではないかとすら思えるのではないでしょうか? あちこちでネズミが無残にも殺される凄惨なシーンの連続にもかかわらず、どこかユーモラスに感じるのは、読みながら頭の中で小太りなネズミの姿を思い浮かべながら読んでいたからでしょうか? このネズミ連続殺人事件(いや、殺鼠事件)も「2666」同様、犯人とおぼしきネズミが捕まりますが、これまた「2666」同様、すべての殺人の犯人(いや、殺鼠の犯鼠)がそのネズミ一匹ではないのでしょう。そして、逮捕後も殺戮は続くのだと思われます。
最後の講演の部分に至るまで、あたしは『2666』と『売女の人殺し
』しか読んだことはないのですが、今回のボラーニョはとても冗舌に感じました。もちろん過日、セルバンテス文化センターでのイベントで、ボラーニョ生前のドキュメンタリーを見て、決して寡黙な人ではないという印象は持っていましたが、今回の作品集ではさらにボラーニョの声が聞こえる気がしました。
これだけの大長編を書いているボラーニョですから、体の中から言葉があふれ出してくるのだとは思うのですが、これまでの作品では決して冗舌であるという印象は受けませんでした。しかし、今回の作品ではボラーニョがやけにおしゃべりになった、そういう印象を受けました。これは、今後の<ボラーニョ・コレクション>も楽しみですし、まだ未読の『野生の探偵たち』を読むのがますます愉しみになりました。
あのトラはすべてCG!
少し前にやっていたので録画しておいた「ライフ・オブ・パイ」を視聴。
副題は「トラと漂流した227日」とありましたが、映画を見る限り、200日以上も漂流していたようには感じられませんでした。トラと少年が小さな救命ボートで漂流するということで、たぶん予告編などを見る限り、トラに食われてしまうのだろうか、それともトラを殺してしまうのか、あるいはトラと友情が芽生えるのか、といったところに興味が沸きますが、割と早い段階で「同じ動物として、自分はトラよりも強いことをトラにたたき込む」という方針になっていることがわかります。途中の食人島(人喰い族が住んでいるのではなく、夜になると島が酸性化して生き物をすべて溶かしてしまう島)のエピソードは科学的にあり得るのか、ちょっと疑問を持ちながら読みました。そんな島に生えている海藻を食べて主人公は大丈夫だったのか?
結局、太平洋を渡り、メキシコの海岸に打ち上げられたようですが、トラはさっさと森へ消え、何の余韻も残しません。主人公がその後調査に来た保険会社の人に話す漂流譚は信じてもらえず、主人公は助かった少数の人間が殺し合うサバイバルゲーム的な話を語って聞かせます。映画で描かれた動物たちが、それぞれ人間に置き換わった内容で、どちらが本当に起きたことなのか、結末は観客に委ねられているのでしょうか。
それにしても、最後まで見終わってみて、食人島のエピソードは中途半端、前半の主人公がさまざまな宗教と出会うエピソードも、あまり漂流譚に活かされているとは言えません。親子(特に父と)の葛藤を描いているにしても、こちらもやや消化不良。母親の愛情にしても、なんか薄っぺらい。
映画としての出来は微妙でしょうかね? でもって、あのトラはまるっきり、最初から最後までCGらしいですね。よくできていますが、そういうのをわかった目で見ると、やはりCGだなあと見えてしまいます。
チェーン店
昔からある街の本屋が次々に姿を消し、気づくと本屋と言えば、全国かローカルかの違いはあるものの、チェーン店ばかりになってしまいました。そう言えば、街の電気屋さんもほとんど姿を消し、ヤマダ電機やビックカメラ、ヨドバシカメラと言ったチェーンばかりですよね。どの業界も同じ道を歩むのでしょうか?
さて、この書店のチェーンですが、チェーンによってはどのお店も同じような規模で、特に差がないというチェーンももちろんありますが、たいていのチェーンは本店ともう一つくらい大きな店舗があるものです。他は比較的小規模な店舗だけっど、一つ二つは中型店、大型店があるという感じです。もちろん、ジュンク堂書店のように、ほとんどの店が大型店問いチェーンもありますが……
で、こういうチェーンの書店の場合、新入社員ってどこの店舗に配属になることが多いのでしょうか? 最初から大型店は大変だから、小規模な書店に配属になることが多いのでしょうか? それともまずは本店に配属させるのでしょうか? このあたりはその時々の人員構成、配置と上の人の考え方次第なのだと思いますから、とやかく言う筋合いではありません。
ただ、出版社の側から言えば、まずは大型店や中心となるお店に配属させた方がよいのではないかな、と思います。非常に勝手な言い分ですが、営業で回る立場からすると、本店や大型店、中型店には顔を出しても、なかなか小さいお店までは手が回らないという事情があります。ですから、なかなかそういうお店の人と知り合うチャンスが生まれません。出版社も人員削減の折、小さいお店まで訪問できないのが実情なんです。
どんなにネットが普及しても、やはりこの世界、実際に顔を合わせて話をして初めて物事が始まる、動き出すことが多いです。出版社の営業マンも小さいお店に行きたくないわけではありませんし、時間が許すのであれば訪問したいという気持ちは多くの人が持っているはずです。それができないのが、言い訳に聞こえるかもしれませんが現実です。
書店の人からすれば、「うちみたいな小さいところには版元の人は全然来ないよ」という愚痴になるのだと思います。知り合う機会がないから、何かフェアをやりたくても相談する出版社の営業マンに心当たりがない、ということになりがちです。それでも、本店などでそれなりに出版社の人と関係を築いていた人であれば、チェーン内の小規模店に遷っても、それまでの人脈を活かして、棚作り、店作りをやれるのではないでしょうか。出版社側も「某某さんがいるから、あのお店に、こんど顔を出してみよう」という気持ちになります。同じ小規模店でも、知っている人、お世話になった人がいるかどうかで、行ってみようという気持ちに格段の差が生まれます。
これを書店の側から言えば、まずは本店などでいろいろは出版社の人と顔なじみになる、毎日たくさんの荷物に触れることでどんな本が出ているのか、そして売れているのかを知るよい機会になるのではないでしょうか? なまじ小さいお店に配属になると、そういうところは社員の人数も少ないですから、本屋としての仕事以外の業務に忙殺される可能性も高いと思います。
というような話を、少し前に書店に営業に行った折、そこの馴染みの書店員さんと話しておりました。書店も人減らしが進んでいますから、わかっているけど理想的な人員配置を考えている余裕がないし、出版社もそうなのですが、若手を育てている余裕もない、育てられるスキルを持った先輩もいない、という状況なのではないでしょうか?
体罰? 先生、それは違います!
少し前にFacebookで卒業について書いたので、ちょっと学生時代のことを思い出しました。
いじめだ、体罰だと嫌な時代になりましたが、あたしが子供の頃、学生の頃は親や先生が子供を殴るというのは、それほど非難されることではありませんでした。確かに自分の感情のままに怒鳴り散らす先生がいなかったわけではありませんが、やはり先生や大人の言うことは正しいという漠然とした意識、子供なりの「自分が悪かった」という罪の意識もあったのでしょう。少なくとも現在のように体罰が問題になることはほぼなかったと思います。
が、あたしの中学時代はちょうどテレビの「金八先生」の放送が始まった頃で、全国的に中学が荒れていると言われていた時期でした。ご多分に漏れず、あたしの中学も、たぶん世間で言われていたほどの荒れ方ではなかったにせよ、それなりに不良やツッパリはいて、そういった時代の影響は受けていたと思います。
しかし、上述のように先生がそれなりに尊敬をされていたことも確かで、不良性とに対してビシビシ叱り飛ばしている先生が何人もいましたし、そういう先生に対してはそれなりにツッパリ生徒もおとなしくしたがっていたような気がします。この頃の先生というと、まだ軍隊上がりの先生がいた時代です。もう何年かするとそういう先生方も定年を迎えて現場からいなくなったのだと思いますが、あたしが中学の頃は旧日本軍出身の先生というのは何人かいたものです。
戦場での生き死にをくぐり抜けてきた先生というのは、やはり違うものがあります。生半可なツッパリ生徒には太刀打ちできない威厳というか、何かを持っていました。そういう先生の一人が、ツッパリ生徒が騒いでいるときに言い放った一言が、かなりの衝撃でした。
お前ら人を殺したこともないくせに、偉そうな態度とるんじゃねぇ!
すごいです。今どきの教師にはとても口にできないセリフです。しかし、一般生徒としては「ちょっと待ってください、先生! いくらなんでもそのセリフは間違っているのではないでしょうか?」という疑問がわいたことも事実です。ちなみに、その先生は欧米人について、風呂はシャワーだけで湯船につかることをしないのと肉食の生活だから体臭が強い、そのため香水という文化が発達したと述べた後、「それに引き替え日本人は無味無臭だ」と言いました。
欧米人の体臭についての発言も、今だったら人種差別で訴えられそうですし、そもそも事実の致命的な誤認があると思いますが、それよりも当時あたしたち生徒が衝撃を受けたのは後半部分です。「日本人は無味無臭?」って、無臭についてはなんとなく納得したものの、無味って何? 「先生、いったい、いつ、どこで日本人を食べたのですか?」という心の中で悲鳴が上がっておりました。