出発まで時間に余裕があったので、ホテルから徒歩15分ほどの高松城へ行ってきました。
高松城よりも玉藻公園の方が呼び名としてはよいのかもしれませんが、城好きとしてはやはり高松城と呼びたいです。
写真などは帰京後改めてアップするとして、取り急ぎご報告まで。
研修旅行で広島から道後温泉へとやって来ました。もちろん羽田から飛行機で飛び立ち、広島市内の書店を訪問した後、高速船で松山へと渡ったわけです。広島はこの5、6年のうちに数回来ていますが、松山は本当に久しぶりです。
今を遡ること三十数年前、あたしが小学校6年の時のこと。当時、松山に住んでいた親戚を訪ねて家族4人で旅行に行ったのが、後にも先にも唯一のあたしの松山体験です。その旅行は、大晦日に当時大流行のブルートレインで東京を発ち、翌朝早く広島着、そのまま船に乗り換えて松山へ向かうという行程でした。ブルートレインの名称は忘れましたが、たぶんあさかぜだったと思います。船は今回ほど高速のものではなかったと思いますが、それほど時間がかかったような記憶もありません。
松山港には親戚のおじさんが迎えに出てくれていて、おじさんの車で家に向かいましたが、その家がどのあたりにあったのか、幼い記憶ですから全く覚えていません。数日の松山滞在で道後温泉や松山城、石手寺などを見て回り、砥部焼の色付け体験などもしたのを覚えています。あと、道後温泉街に「トルコ」というネオン看板が乱立していたのは鮮明に覚えていますが、当時のあたしは国の名前のトルコしか知らない状態でした。
そんな松山を久しぶりに再訪したわけですが、夕方についてホテルへ直行したので、どんな街なのか、まだわかりません。
講談社の学術文庫でこんな本が出ていました。
『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』です。内容紹介には
モンテーニュの生涯をたどりながら『エセー』の重要なくだりを引用しつつ考察し、またモンテーニュの生涯に戻っていく。
とありますので、『エセー』抄と言ったら失礼かも知れませんが、いわゆる「エセーを読む」「エセーから生きるヒントをもらう」といった類いの本でしょう。
だとすると思い出されるのがこの本です。
あたしの勤務先の『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』です。こちらはフランスでベストセラーになった「エセー」抄です。もともとは毎日一つずつエセーから文章を引いて解説を加えるという、フランスの人気ラジオ番組だったそうです。
さて、このモンテーニュ本、いや、エセー本。どちらも値段は手頃ですし、軽薄な自己啓発本では飽き足らない方、長く世の東西で読み継がれてきた古典から、生きるとはどういうことか、改めて見つめ直すためのヒントを探してみませんか?
下の写真は今朝の朝日新聞の紙面、火野葦平の記事です。
読んだことはありませんが、名前くらいはもちろん知っています。読んでみたいなあとも思っています。
そして、この記事を興味深く読んだ人はあたしだけではないでしょう。そんな人があたしと同様、「火野葦平、読んでみるか」と思ったとしても不思議ではないはずです。朝日新聞の影響力を考えると、日本全国、今日一日でどれくらいの人が「火野葦平を読んでみよう」と思ったことか。
しかし、この記事の情報欄「もっと学ぶ」によれば、彼の作品は全集しかないようです。すべて全集に入っているから全集を買えばよい、というのはバブルのころの発想で、今では図書館ですら全集の購入には二の足を踏むのではないでしょうか。
そもそも、火野葦平といったら『麦と兵隊』ではないかと思うのですが、こういった代表作が単行本で手に入らなくなっているとは、日本の出版界ってこれでよいのでしょうか? これは出版社の人間としてではなく、本好きな人間としての素朴な疑問です。
前にもこのダイアリーで書いたような記憶があるのですが、現代作家は別として、日本って昭和戦前以前の作家の作品、あるいは文学史に残る古典が単行本では手に入らない国ですよね。ある程度は岩波文庫や新潮文庫、角川文庫などの文庫本として残っていますが、単行本ではほぼ皆無です。
そりゃ出版社の事情というのもわかりますが、これってどうなのでしょう? 文庫本で手に入るだけマシ、という意見もわかりますが、単行本が手に入らないというのも寂しくはないでしょうか?
司修さんの『本の魔法』を読むまでもなく、作品と本の装丁とは切っても切れない仲です。そりゃあ、装丁に凝った文庫本もなくはないですが、基本的に文庫本はその文庫レーベルの装丁に倣うもの。単行本のように、その本ごとにこだわった装丁を施しているものは稀です。本当に好きな本だったら、文庫本ではなく単行本で所持したいものではないでしょうか?
また、こうも思います。夏目漱石を研究しているアメリカ人の大学生が念願叶って初めて日本を訪れたとき、喜び勇んで本屋へ行って「日本文学」の棚をいくら探しても、そこに夏目漱石の『坊っちゃん』も『草枕』も、『吾輩は猫である』も置いていないのを見て愕然とするのではないか、と。
彼がたどたどしい日本語で店員さんに漱石の本が欲しいと伝えても、案内されるのは岩波文庫の棚の前。「漱石はここにあります」と言われた彼はどう思うでしょう。「やったー、漱石の原書だ」と喜んで買ってくれるのでしょうか? 一概には言えませんが、彼は日本に来れば、日本的な装丁を施された漱石の本が買えると思って来日したのではないでしょうか?
そういう期待に応えられない日本の出版界、あたしは不甲斐ないと思うのです。
いや、それでもしっかり文庫本で残しているだけマシなのでしょうか? でも、話は最初に戻って火野葦平は? 全集があるだけマシなのでしょうか?