2015年のアーカイブ
タイトルの勝利?
甲乙つけがたい?
休暇をとりました。そして東京国立博物館へ「インドの仏」展を見に行きました。
基本的には仏像ばかりが並んでいる展覧会です。多少なりとも混雑していたのは最初の部屋だけで、あとはゆっくり、ゆったりと鑑賞することができました。一口に仏像と言っても、こうして見るとかなりいろいろあるものです。まず目につくのは顔立ちです。以前から知っていたガンダーラなどの仏像は日本などの仏像とはかなり異なり、顔も欧米人的な作りです。頭部も螺髪ではなくウェーブのかかった長髪だったりしているものもあります。
サイトで紹介されているものにはありませんが、あたしが個人的に気に入ったのは実は仏像ではなくて「NO.86 銀鉢」です。これは実にきれいな逸品です。彫刻も精緻で見事なものです。「NO.87」と大小でセットになって展示されていましたが、どちらもすばらしいものでした。
あとは「NO.84 仏座像」が独特の顔立ちをした仏像なんですが、これがどう見てもあたしには仏像には見えません。むしろ仏教側から排斥された悪魔、邪神、異教の神なのではないかと思われます。こんなのが出土したら、たぶん仏像ではなく悪魔像だと思ってしまいそうですし、少なくとも仏教徒は何ら関係のない、異教の法具ではないかと思ってしまうでしょう。
ところで、この「インドの仏」展は東博の表慶館(正門を入って本館の左側にある小振りの建物)が会場だったので、一階と二階を合わせてもそれほど大きなスペースではありません。そしてすべてを見て終わった最後のコーナーが図録や記念グッズの販売ゾーンとなっていました。今回の展覧会に合わせて企画されたグッズがいろいろ並んでいて、あたしも買いたいものがあったのですが、本館のミュージアムショップではにわの靴下を買おうと思っていたので、ここでは買い物は我慢して本館へ向かいました。
ところが、本館のミュージアムショップは同展の図録こそ売っていたものの、他のグッズは扱っていないのです。絆創膏は要りませんが、一筆箋とかキャンディーは買いたかったなあ、と思いましたが後の祭り。もちろん、目と鼻の先の表慶館へ戻ればよいのでしょうが、一度本館に来てしまったら、また戻るのは面倒に感じてしまい、結局買わずじまいでした。
多くの展覧会では、展覧会グッズの他に関連書籍とかレプリカなどのショップも出店していたりします。そういうのまで本館のミュージアムショップで扱う必要はないと思いますが、展覧会グッズ、それも公式のものであれば本巻でも扱ってくれないかな、そんなことを思いました。
ちなみに、本館のショップで買いたかった靴下は子供用はともかく、大人用でも23~25センチなので、ちょっと小さいかなと考えて、いったん保留としました。こんなことならお土産は表慶館で買っておくべきでした(涙)。
さて表慶館は上にも書いたようにそれほど広くはないので、何時間も観覧に時間がかかるわけではありません。朝イチで入館したのでまだ今日の時間はたっぷりあります。ただ午後イチで別件、髪を切りに行く予約を入れてあったので、それまでの時間でこんどは六本木は東京ミッドタウンにあるサントリー美術館へ「若冲と蕪村」展を見に行きました。
伊藤若冲と与謝蕪村が同い年だなんて知りませんでしたが、非常に面白い展示でした。ちなみにこの展覧会は「きもの割」と言って着物(和服)を着ていくと入場料が100円安くなるサービスがあるようで、会場には着物姿の女性がとても多かったです。そして先の東博に比べ、平日の午前中だというのに、かなり混んでいました。まあ展示を見られないほどの混雑ではありませんでしたが。
さて、若冲と蕪村です。名前を伏せて、今回出品された作品をランダムに出された、それが若冲の作か蕪村の作か、半分くらいは誰にでも判定がつくほど二人の作品は対照的です。一見して感じるのは力強いく画面にグイグイ引き込まれそうになるのは若冲の作品です。それに比べると蕪村の作品はもう少し肩の力が抜けている感じです。画面に引き込まれると言うよりは、ちょっと画面から離れて、引き気味に鑑賞したくなる作品だと感じます。
とはいえ、そんな風に感じられる作品ばかりではなく、これは若冲だろうと思った作品が蕪村のだったり、逆にこのタッチは蕪村だなと思ったら若冲だったり、いくつもあたしの予想を裏切られるものがありました。別に当てっこクイズをしているわけではありませんが、そんな楽しみ方もできるな、と思います。
で、若冲と蕪村。あたしはやはり蕪村の方が好きだなと感じます。若冲も好きですし、すごいと思いますし、圧倒されますが、やはり蕪村のホッとできる感じに惹かれます。蕪村と言えば、今回は出ていませんが「奥の細道屏風」のイメージが強く(本展では「野ざらし紀行屏風」が出展)、飄々とした軽妙洒脱な感じを抱いていますが、やはり若冲の瞬きを許さないかのような力強さよりは、こういう感じのものが好きなんですよね。
しかし、どっちもどっち。甲乙つけがたい展覧会でした。混雑するのもわかります。
立川という街
今宵は紀伊國屋書店の新宿本店で、谷口功一さんと速水健朗さんのトークイベントでした。1時間半のトーク時間では物足りない内容で、たぶんお二人も話したりなかったのではないでしょうか? さて、今宵のイベントについてはご本人が、あるいは聴きに来ていたたくさんの方々が今夜以降、ブログやFacebool、TwitterなどのSNSでいろいろ報告されるでしょうから、あたしは、あたしなりに興味を引かれたところを記したいと思います。
それはスナックです。やや本論と脱線したような話題ではありますが、話をうかがうと実は今日の郊外論などとも密接なつながりがあるのではないかと思われます。そんな小難しい話は抜きにして、スナックの起源はまだ調べきっていないと断わった上で谷口さん曰く東京オリンピックのころが嚆矢だろうとのこと。都会への人口流入が増え、核家族化も進み、これまで地縁・血縁的なものから切り離された人が都会に増えたことを背景に、着物を着た美しい女性が取り仕切るスナックが増えていった、との分析。
そこまではっきりと話されたか忘れましたが、つまりは都会に出てきて仕事に疲れた男性たちが癒やしを求めると共に、母親に甘えたいという願望のはけ口としてスナックは誕生したのかな、と思いました。その証拠にとまでは言いませんが、スナックの経営者って「ママ」って呼ばれますよね? あれは疑似家族なわけでしょうから。
と、そういう学問的、社会学的な話はおくとして、谷口さんの話の中で立川には立川出身のママだけでやっているスナックばかりが入っているビルがある、とのこと。立川は、最近でこそ行く機会が減りましたが、かつては書店営業で毎週のように行っていた街ではありますが、いかんせん、立川で飲むという機会には恵まれず、そのようなスナックがあるということは知りませんでした。
立川出身の人ばかりの店なら、お客も立川の地元の人が多いのでしょう。スナックというと年配の疲れたおっさんが行くところというイメージでしょうが、そういう店では地元のもう少し若い層も来るのだとか。地方でも地元の飲み屋として、都会よりは比較的若い年齢層もスナックに来るという話も出てました。そんな話を自分の頭の中で再構成していくと、「立川って田舎なのかな?」という思いがわき起こってきました。
確かに、吉祥寺を抜いて、駅の乗降客数は新宿以西でナンバーワン、伊勢丹や高島屋、駅ビルも北と南に林立し、モノレールも通る一大ターミナルであり繁華街でもあります。ただ、どうしても「住みたい街」では上位にはなれず、どことなくうらぶれたイメージ、治安や風紀の悪いイメージがつきまとっているのも立川です。イケアが出来ても払拭できたとは言いがたいですね。
そして、どことなく田舎っぽい雰囲気。こう書くと怒られますが、八王子は「ややにぎやかな地方都市」という感じで、立川は「東京のターミナルの一つ」という感じがするのですが、それはあくまで八王子と比べての話で(八王子の方、ゴメンナサイ)、新宿から中央線に乗って西へ向かうと、やはり立川は田舎だよな、という感じを受けます。
田舎と言っても「地方」という意味ではなく、あくまでベッドタウンであって決して東京ではない、という意味です。その証拠にと言うわけではないのですが、かつて読んだ本(書名は忘れました)に、今どきの若い子、記憶する限り、立川あたりの女子高生のことを、その文章では指していましたが、そういう子たちは東京の中心部、例えば渋谷とか表参道、更にはお台場のあたりへ行くことを「旅行に行く」と言うのだと書いてありました。東京の子が東京の別の街へ行くのに、それを「旅行」と呼ぶとは!
その本によると、最近の若い子は地元好きで、地元からあまり離れたがらず、友達も小学校以来ずっと地元にいて、そういう仲間同士で連んですごし、進学も就職もだいたい地元で完結している子が多いのだそうです。もちろん友だちづきあいも。遊ぶところも地元、成人してから飲みに行くところも地元。ほとんど地元を離れない、という若者が増えているとその本には書いてありました。
都心の方へ行くのを旅行と呼ぶようでは、やはり立川は田舎であり、地方なのではないか、そんな風に思ってしまうのです。
ところで、立川は上に書いたようなデパートがデッキで結ばれていて、ある種の空中庭園な街です。そのデッキから下を見やると、バスロータリーはともかく、なんとなく薄暗く、人通りもまばらな感じ。デッキ上でデパートに吸い込まれていく華やいだ人々とのあまりの落差に呆然としたことがありました。
そんな印象をつい最近受けた街が他にもありました。町田です。ここもJRと小田急はデッキで結ばれていて、その下は別世界のような感じでした。デッキ上から見たときに「どこかで見たことがあるなあ、そうだ、立川に似ている」と思ったのでした。
いまさらの、3周年西武ドーム
乃木坂46のデビュー3周年、西武ドームコンサート。もちろん行きませんが、スカパー!の生中継は録画しておきました。とーたる8時間の長丁場。最後の方は生中継を見ていたのですが、前半どころか、4分の3ほどは未見だったので、休日や平日の帰宅後に少しずつ見ていて、ようやく視聴完了です。
さて、感想ですが、佳い楽曲が多いなと思う反面、正直に言ってしまうと、ライブパフォーマンスはまだまだだと感じました。「あんなんでお金取るの?」とまでは言いませんが、もう少しスキルアップ、レベルアップを期待したいです。
もちろん昨今の歌手のライブは演奏とか曲を味わうのではなく、その場にいて、大騒ぎに参加することに意味がある、と言われているようですので、そういう意味では観客も一体となったよいライブだったと思います。ジャニーズをはじめ、口パクが当たり前、歌手が盛んに「パフォーマンス」と言うように、決して歌だけを聞かせるのではなく、踊りや演奏(←これはカラオケですね)、舞台装置や照明、それらが一体となった総合芸術と言うべきなのかも知れません。であるからして、歌手が実際に歌っているのか歌っていないのかは、気にするだけ詮無いことなのでしょう。
という立場から見ると、乃木坂のライブは口パクで行くのか、生歌で行くのか、中途半端だったかな、と思います。どうしてもサビの部分を除けば、二人か三人ずつで代わる代わる歌唱するスタイルですから、あの大きな会場で、あれだけ踊りながらでは、相当声量のある歌い手でないと、声は通らないでしょう。
いっそエグザイル・グループのようにボーカルとパフォーマーと分けてしまうのも一つの手かも知れませんし、そこまではっきりとは分けられないとしても、かつてのモーニング娘。が基本はなっちとごっつぁんが歌っていたように、メインボーカルを固定した方が、歌を聴かせるという点ではよいのではないかと感じました。
またダンスですが、これも十数人がしっかり揃わないと、やはりちょっと情けなく感じてしまいますよね。完璧にピッタリ揃えるというのは難しいでしょうし、ライブならではのアドリブもありだと思います。それでもメインステージで並んで踊るとき、決めるところではしっかり決めて欲しい、そのツメがやや甘いところがまだ目立ちます。
かなり辛口な意見を書いてしまいましたが、乃木坂46がより飛躍するためには、さらなるレベルアップを期待するので、あえて。
今日の配本(15/03/24)
今日の配本(15/03/23)
お店のご厚意によって
テレビを見ているとしばしば「特別に許可をいただいて店内で試食させていただいております」とか、「撮影のためタオル着用で入浴しております」といった字幕が出てることがあります。前者はデパ地下とか町歩きでグルメレポート的なことをするシーン、後者は旅番組などで温泉リゾートへ立ち寄ったりしたシーンでよく見かけます。
今の若い人は何の違和感もなく、つまりそんな字幕を気にもせず、そういった番組を見ているのでしょうけど、あたしは気になってしまいます。なぜなら、あたしが子供のころ、いや学生時代くらいまでは、今ほどこういう字幕が出ていなかったと思えるからです。
別にテレビを見ていて、この字幕がうるさい、というわけではありません。そうではなく、こういう字幕が出なくても「テレビだから」というのは誰にでもわかることではないか、と思うのです。つまり、普通に常識のある人なら、デパ地下の店先で買った商品をいきなり食べるとかしないでしょ、ということ。試食コーナーな試供品なら別ですが、そうでなければ、買ったら自宅などしかるべきところへ持ち帰って食べるのは常識だと思うのです。
それなのに昨今のテレビ番組はくどいくらい、こういう字幕が出ます。これってテレビを見て、同じようなことを要求してくるお客(一般人)がいるから予防線を張っているのでしょうね。
でも、同じようなことを要求するお客って、たぶんあたしが子供のころにだっていたと思うのです。テレビで紹介されていた旅館に行ったけど、テレビとは全然料理屋部屋の設備が違ってた、なんてことはよくあって、それについて文句を言う人もいたと思うのです。
でも、当時のお客はほとんどの人が「あれはテレビ番組なので……」というお店や旅館の説明を聞けば「まあ、それもそうだよね」と納得していたし、ぶち切れて喚きちらす人も少なかったと思うのです(皆無だったとは言いません)。だとしたら、最近のお客さんは、そんな説明では納得せず、あくまで文句、クレームを付けて自分の言い分を押し通そうとする人が増えているのでしょうか?
もしそうだとしたら、日本人のモラルは低下している、という主張にも頷けるところもありますが、常識というのも時代によって変わるものだと思いますし、かつてがあまりにもルーズだったと言えるのかも知れません。ただ、現在において一番大きいのはインターネットの普及、特に個人が発信できるという環境の変化でしょうね。たったひとつの事例でも、それを針小棒大にネットに投稿すれば、すぐにそれが拡散してそのお店の評判を落とすことができます。だからお店側も過剰な防衛に走り、テレビ放映の時も上述のような字幕を入れてくれるようにテレビ局に要請しているのではないかと思います。
何とも世知辛い世の中だなあとは思いますが……
浮気とは?
先週から今週にかけてテレビドラマも最終回を迎えるものが多くなっています。あたしが今期見ていたのは「デート~恋とはどんなものかしら~」「残念な夫。」というフジテレビ系の2本です。今週どちらも最終回を迎えるようですが、最終回を前にしてここまで感想を軽く……
まずは「デート」から。
働きもせず母親に寄生しているニートの男性。彼は自分のことをニートではなく高等遊民と呼んでいるわけですが、そろそろ母親も歳だし、新たなる寄生先を見つけるべく、それはつまり結婚だ、自分を養ってくれる妻を探そうということで婚活を始めるというわけです。相手が女優の杏演じる数字にしか興味のない、理詰めの恋愛不感症のような女性であるという設定はともかく、そんな二人が果たして恋愛できるのか、というのが軸になっています。
どうもこのドラマ、最初は面白そうという評判だったのがだんだんと視聴率も落ちてきたと言われていますが、それもちょっとわかる気がします。恋愛未体験の主人公二人、どちらもドラマの設定ではかつて恋人がいたこともなく、だから異性経験は全くのゼロということになっています。社会人として働いている杏はともかく、ニートの長谷川博巳に至っては、ほとんど社会性ゼロ、対人関係を築けないタイプなのではないかと思われます。杏の方だって、会社の同僚こそいるものの友達がいるようには見えないし、現にドラマの中では彼女の交友関係は一切描かれません。
そんな二人が恋愛をするなんて絶対無理だと思うのですが、そこはお節介な長谷川博巳の幼なじみが世話を焼き、なんとなく事が進んでいくという、ドラマならではのストーリーです。ここがやはりちょっと都合よくできすぎているよな、と思ってしまった視聴者が多いのではないでしょうか? それに、どうやらそんなふうなエンディングに流れていきそうですが、杏の方にも彼女に心を寄せる男性がいるし、長谷川博巳の方にも小さいころから憧れている国仲涼子という存在(お節介な幼なじみの妹)がいるわけです。つまり、恋愛なんかしたこともなければ出来もしないような主人公二人なのに、その二人に密かに恋心を抱く人物がいるという都合のよさ! たぶん、ここが視聴者が離れた原因かも、なんて思ってしまい明日。
確かに、恋愛騒動を通じて杏も長谷川博巳も対人関係とはどういうものかを少しずつ学んでいくところはありますが、結局はそんなことよりも何よりも、とにかく「あなたが好きなの!」という相手が身近に存在しているということで、結局主人公二人はそれほど自分を変えることもないまま、めでたしめでたしの結論に行きそうな感じなのです。これでは、そういう存在が身近にいない、本当の恋愛ニートには何の処方箋にもなっていないのではないか、そう思います。
ついで「残念な夫。」です。
これは後半へ来て玉木宏の浮気騒動で、妻である倉科カナが離婚を切り出すという展開です。妻が子育てで大変なのに、毎日のようにサウナへ出かけ、飲みにも出かけ、大好きなバスケットにのめり込んでいる玉木宏のキャラ設定。いくらなんでも夫としてどうなのよ、と思います。まあ、そこまでは許したとしても、やはりバスケをネタに誘われたら、ホイホイとついて行ってしまう軽さ、これは致命的だと思います。
で、肝心の浮気です。ドラマの中では玉木宏が笛木優子に誘われてスポーツバーでバスケを観戦、飲み過ぎて気づいたら(朝目が覚めたら)ホテルのベッドの中、自分はパンツ一丁で隣には下着姿の笛木優子が寝ている、という状況。実際にはエッチはおろかキスもしていないと思われます。さあ、果たしてこれは浮気と呼べるのでしょうか?
ドラマの中で玉木宏はエッチをしてしまったのか、それともしていないのか(自分には一切記憶がない!)ということにこだわり、挙げ句の果てに「たった一回」とまで言いだすのですが、浮気ってそういう問題なのでしょうか?
雑誌でも本でもネットでも「どこからが浮気?」といったアンケートや記事を目にすることがあります。自分の恋人が異性と話をするのも許せないという意見の人もいれば、意外とおおらかな人もいるようです。今回の玉木宏の立場に近いところで言えば、自分の恋人なり配偶者が異性と二人きりで食事をするのは浮気なのか否か、ということでもあると思います。ランチならOKだけど、ディナーはバツ、特にお酒が入るような食事に二人きりで行くのは許せない、という声が案外多いようでした。社会人になると仕事の打ち上げ的な感覚で食事に行く、飲みに行くということはありがちなシチュエーションですが、これも仕事ならOKという人もいれば、やはり異性と二人ではちょっと許せないという人がいるみたいですね。
恋人がいたこともなく、ましてや結婚すらまだ(「まだ」という表現には今後する予定があるというニュアンスが含まれますが、希望としてそうは思うものの現実を冷静に見つめると、たぶんこのまま独身で一生を終える可能性が限りなく大だと思われます)のあたしには、そういったことについてネットや雑誌などの記事を読んで世間の人の規準なりリアクションなりを学ぶことは出来ても、それが果たしてどうなのか、自分だったらどう思うのか、どう振る舞うのか、全く想像できません。
そもそも恋人がいない人間に「もし恋人が浮気したら?」という質問自体がナンセンスではないでしょうか?
カバーとオビの関係?
「週刊文春」とか「女性セブン」とか、そういった雑誌は真ん中をホチキスで綴じたかたちのものがほとんどです。「少年ジャンプ」とか「別冊マーガレット」といったコミック誌は、やはり大きなホチキスでガシャッと綴じていますよね。これらはどちらもカバーなんてなく、ましてや函に入っているわけでもありません。しかし単行本ですと、ほぼ必ずカバーとオビが付いています。カバーを取り外してしまうと、意外とあっさりとした表紙だったりすることも多いものです。昔の図書館の蔵書はカバーや箱を取った状態になっていることが多く、書店で売っているカバーの付いた本と見た目がかなり異なるので驚いたものです。
このカバーとオビというのは日本独特のものなのでしょうか? 洋書はほとんどがペーパーバックと呼ばれるかたちで、カバーなんて付いていない、というのが常識のような感覚があります。日本の書籍は、表紙があっさりしているぶん、カバーはかなり凝ったものになっていて、これぞデザイナー、装丁家の腕の見せどころ、という感じですね。
なんでカバーとオビが日本独特なのか、詳しいことは知りません。書店から返品されてきた本も、カバーを新しいものに取り替えればまた使える、というのが大きな理由だと思います。海外は、すべてとは言いませんが、本は買い切りが普通で出版社に返品されてくるというのは乱丁本、落丁本などくらい。だから返品されてきた本のカバーを掛け替えて再び出荷するなんてことはない。だからカバーなんて必要ない、ということなのではないかと個人的には想像しています。
まあ、こういう流通の仕組みはおくとして、とにかく日本の書籍のカバーは独自の発達を遂げたという気がします。もちろん、海外でも自分で好きな装丁に仕立て直すという伝統がありますが、これはカバーと言うよりは表紙そのものの話ですから、やはりちょっと異なりますよね。
話がだいぶ横道に逸れたような気がしますが、ここで話題にしたいのはカバーとオビです。最近ちょっと気になる現象があります。それは新書に目立つのですが、オビがカバーと見紛うほど大きい本が目に付くようになったのです。
わかっていると思いますが、オビとはカバーの更に外側にかかっている、宣伝惹句やその本の特徴、あるいは識者の推薦コメントなどを載せた、簡単に言ってしまえば宣伝チラシみたいなものです。だいたい本の下、4分の1から3分の1くらいの太さ(高さ)で作られています。本との位置関係で言えば、オビと言うよりもズボンとか袴と言った方がよいのではないかと思いますが、伝統的にオビと呼ばれています。帯ですよね。
カバーとオビは装丁家が一緒にデザインするときもありますが、装丁家はカバーだけをデザインし、オビは出版社で作るということもあるのではないかと思いますが、オビが太すぎるとせっかくのカバーがほとんど隠れてしまい、素敵なイラストなどが見えない、という本もしばしば見かけます。もちろん、カバーとオビが一体となってデザインされているものも多いので、それなりのバランスは取れている書籍がほとんどですが。
そんなカバーとオビの関係なのですが、大きすぎるオビに気づいたのは『だから日本はズレている』を見たときでした。
上の写真でもわかるように新潮新書の一冊です。新潮新書ですからカバーは濃いベージュというのでしょうか、薄い茶色というのでしょうか、とにかくそんな地色に著者名と書名が印刷されている殺風景なものです。これではライバルひしめく新書の世界では勝てませんから上のような著者のカラー写真をあしらったオビが巻かれています。このオビは本全体のほぼ半分の高さに達していますよね。かつてであれば十分「太い、大きい」オビと呼んでおかしくないものです。
ところがこの本が売れに売れ出したころ、この写真がほぼ全面を覆うような本を見つけたのです。あたしがこの本を持っていないのでどんな感じかお目にかけられませんが、同じく新潮新書の『「自分」の壁』でも同じようなものを見かけ、こちらはネットに画像があったのでそちらをご紹介します。
まずはデフォルトのオビです。これも一昔前なら大きいと呼べる、ほぼ半分のオビです。ところがしばらくするとこちらのサイトに掲載されている写真のように全面オビになっています。このほぼカバーのようなオビを取り外すと、本来の新潮新書のカバーである、ベージュのような茶色のようなカバーが現われます。見た目にはカバーが二枚かかっているようなものです。
本が売れたとき、帯を換えて更に売り上げを伸ばすというのは出版社がよくやる手です。あたしの勤務先もやります。でも、それは「○○万部突破」といったものだったり、新聞書評のコメントを引用したり、そういうオビへの変更であって、オビの大きさをまるっきり変えてしまうなんてことは、かつてはなかったことだと思います。
ところで、ここで一つ問題があります。読者には関係ないのですが書店現場、流通現場でかなり重要なことです。
カバーには表(表1)にタイトルや惹句などが書いてあったり、イラストなどがあしらわれたりしていますが、裏(表4)には定価が書かれています。誰もが本を手に取って気に入ったとき裏返して値段を確認しますよね? カバーの裏には値段が書いてあり、その値段の近くにはISBNコードとバーコードが印刷されています。書店現場や流通現場ではこのバーコードを機械で読み取って管理しています。本屋で本を買ったときレジでピッと読み取っていますよね。あれはこのバーコードを読み取っているのです。
ところで、それはカバーのことであって、オビには普通は値段とかバーコードなんて書いてありません。試しに手近の本を見てみてください。値段は書いてあるかもしれませんが、バーコードが印刷されているオビなんてほとんどないはずです。そりゃそうでしょう。カバーに印刷されているのですから、オビにまで付ける必要はありません。
しかし、上に述べたような全面オビになったらどうでしょう? 本来カバーに印刷されていた定価やISBNコード、そしてバーコードが全目オビで隠れてしまいます。そうなると流通現場や書店のレジでは毎回オビをずらしてカバーのバーコードを読み取るという、実に面倒な作業になります。そこで、新潮新書の全面オビには、表1こそ写真を全面に使ったものになっていますが、表4は本来のカバーとほとんど同じようになっているのです。定価とかバーコードが印刷されているのです。これならバーコードの読み取りも簡単にできます。袖には著者略歴とか入っていて、もうオビではなく完全なカバーです。
だったら、カバーを二枚かけるようなことはしないで、その全面オビとやらをカバーにしちゃえばいいんじゃないの(?)と思いますが、なぜかそうはなっていませんね。どうしてなのでしょう? たぶんカバーを換えるというのは流通上面倒な事情があるのではないかと思います。帯はいくら変わってもあくまで付属物なので構わないけれど、カバーは本の一部なので、それが変わってしまうと別の本として扱わざる得なくなる、そうすると管理など面倒なことばかりが生じてします。だったら「あくまでオビです」というていで行った方が都合がよい、ということなのではないか、そんな風に想像しています。