『春秋繁露』事始

中下正治先生が亡くなられて一年が過ぎようとしている。先生は私にとって卒論の主査というわけでもなく、また当時(今も?)酒の強い方ではなかった私にとって決して親しく話をするような存在ではなかった。しかし大学院に入って『春秋繁露』を読むようになり、その授業には大学院生が私しかいなかったので、必然的に先生に面と向かうようになったわけである。

当時の私は卒論の延長で、秦漢時代の思想史を研究しようと考えていたので、西漢の大儒・董仲舒の『春秋繁露』は願ってもない教材であった。後に人づてに聞いた話では、私が大学院に入る前、来年の授業は何を読むかという話が出た時、来年は岩野が入ってくるから漢代の文献がよいのではないかという先輩方の推薦があったらしい。要するに私は待ちかまえられていたのかも知れない。

が、その時点で先生は恐らく私のことなど海のものとも山のものともわからず、ただ漢代思想をやっているやつ、くらいにしか思われていなかったと思う。最初の授業では私もいったいどんな授業になるのかわからず、教材の指定もされていなかったので、ノート代わりのルーズリーフくらいしか持参していなかったと記憶している。 そして臨んだ最初の授業で先生は、数年前まで先輩方が読み続けてきた『春秋繁露』訳註のコピーを私に渡し、お前もこういう感じで、好きな篇を選んで原稿を作ってこいと言われた。『春秋繁露』がどんな本なのかすらわからない私は、とにかく先生から同じく指示された『春秋繁露』の原書を手に、一番短そうなところから手を着けることにしてみた。が、すべては翌週からの話である。

そこで先生は更に、その頃ちょうど大陸から輸入され店頭に並んでいた孫詒譲の『札い』のコピーを配られた。この本は孫詒譲の読書筆記みたいなもので、その中に『春秋繁露』を扱った部分があったのである。そしてこの本の前書きと『春秋繁露』の部分のコピーを私に渡して、いきなり読めと言われたのである。中哲文科入るくらいなので高校時代から漢文は好きで得意としてきたし、大学4年間さらに学んで訓読には多少の自信はあったとはいえ、初見でしかも先生と一対一で読むというのはさすがに緊張した。それによくよく見ると前書きは、やはり孫詒譲が清の人だからなのか、半分現代中国語交じりの漢文であった。こりゃちょっと厄介だなと思いつつ読み始めた。じっと聞いている先生の表情を上目遣いに観察しながら、目の前の漢字を追っかけた。幸いだったのはそれが基本的には論説的な文章であったことである。これが小説だったら全くお手上げであったろう。

全くわからない単語も出てくるので、途中で辞書を引きながらなんとか前書きを読み切った。先生は全く変わらず同じようにコピーを目で追っておられたが、こっちはほとんどさっぱり内容なんて覚えていない。いったい何が書いてあったのか理解できていない状態である。緊張感も解けていないでいると、「お前、けっこう読めるな」と先生がボソリとつぶやかれた。

この一言がそれ以後途中で投げ出すことなく『春秋繁露』を読み続けていくことになるきっかけだったように思う。一昔前の言い方をするならば、私は中下先生に入門を許可されたと言えようか。いや、勝手に許可されたと思い込んでしまったのかも知れない。

とにかくその後の中下先生との交流の中で何度となく注意されたり、稀に褒められたりすることもあったが、この最初の先生の一言が全ての始まりであり、私自身にとって忘れられない一言になった。ただ不甲斐ない私には「まだその程度しか読めないのか」という先生の嘆きの声がしばしばどこからか聞こえてくる。