伊地智先生がすべてを注がれだ中国語辞典がもう間もなく完成しようとしている。私は白水社の担当編集者として、入社以来、2001年4月13日に先生が亡くなられるまでの十年間、香里園のお宅へほぼ毎月一回通っていた。最後に訪れたのは先生が入院後の3月9日で、場所こそ病室ではあったが、先生との話題はいつもと変わらないものであった。その時点では確かに、退院されても辞典の仕事を続けるのはもう難しいかも知れない、という気持ちを抱いたが、それでも暖かくなる頃には元気になられて退院されるだろうと漠然と考えていた。そのため、4月に入り先生の様態が予断を許さない状態であると聞くまでは、極めて楽観的に日を過ごしていた。
これほど長い年月をかけた辞典の編纂とはどのようなものか、実際に関わっていた人でないとわかりづらいところもあるかと思うので、具体的に伊地智先生が何をされてきたのかを少し紹介したい。
上にも述べたように、私は入社してまだ十年で、伊地智先生の辞典の企画が白水社で企画決定したのは、それから更に十年を溯る。当初は東京外国語大学の長谷川寛先生との共編として企画書が提出されていたが、後に社内で聞いた話では、長谷川先生はあくまで白水社と伊地智先生との橋渡しであったようで、伊地智先生からもそのようにうかがった。
既に膨大なカードを作られていた伊地智先生が、辞典の仕事を手伝ってくださる方々と分担して原稿を書かれ始めたのは1982年頃からである。実際の組み見本用の原稿の準備は、翌83年からである。この頃、数か月に一度会合を持ち、その席で担当者がそれぞれの分担分をどの程度終えたのか確認していたことが、記録に残っている。
本来ならば、それぞれの担当者が書いた原稿を伊地智先生がチェックして、必要があれば訂正を施した上で印刷所へ入稿すればよかったのであろうが、伊地智先生のチェックに相当な時間がかかりそうだとの判断で、伊地智先生のチェックを飛ばし、体裁だけ整えて印刷所に入稿していった。ゲラになれば伊地智先生の訂正も少しは減るであろうというのが当初の見込みだったようだが、その目論見はかなり早い段階で崩れてしまった。担当者が原稿を作り、それを入稿する。出てきた初校ゲラに伊地智先生が修正を加える、というスタイルが確立し、遅々としながらも進んでいた頃、諸般の事情から前任者に代わり、私が辞典担当者として入社した。92年のことである。
私が入社した時点で、未完成の原稿は「L」と「Z」が数ページ残っている状態であった。それらはその年の夏が終わる頃にはすべて仕上がり、あとは伊地智先生の初校の進捗だけが問題であった。伊地智先生は「A」から始められた初校を「G」のあたりまで進められていた。既に赤字の量は校正と呼べるようなレベルではなかったが、ちょうど少し前に小学館から『中日辞典』が刊行されたことがその直接の原因であった。これまでにない辞書を作るからには、当然小学館の辞典をも上回るものにしたい、と先生は思われたようだが、出版社としても二番煎じになるような辞典を作りたくはなかった。それに伊地智先生に作っていただく以上、安っぽいものは作りたくないという私個人の思いもあった。私が担当になってしばらくして、社内でもこの辞典の規模について検討が行なわれ、これまでの1000ページ程度の学習辞典から、小学館の『中日辞典』に比肩する中型辞典へと軌道修正された。ただ、実際には伊地智先生の初校を見れば、既に1000ページを超えるものになることははっきりしていたので、現状を追認しただけであり、改めて2000ページ、B6判という辞典の規模が確認された。
伊地智先生の初校は、最終的には2000年末までかかってしまった。その間、拠り所とした『現代漢語詞典』の修訂版が刊行され、日本では比較的大きなものとしては講談社から『講談社中日辞典』、角川書店から『中国語大辞典』が刊行された。その他にも、近年の文法研究の成果を踏まえた辞典類が大陸から陸続と出版されたため、それらを咀嚼吟味しつつ行なわれる伊地智先生の校正は、ますますその速度が遅くなってしまった。それでも99年頃からは、最後の「Z」に取りかかり、ようやく先が見えてきたと、先生も俄然意欲を燃やされていた。
先生は初校ゲラの余白に、もとの姿をとどめないほどの赤字を加え、余白が足らなければ紙を貼り足して原稿を書かれた。貼り足しは上下左右に伸び、特に下へ下へと貼り継いでいったその形が「やっこ凧」の足ようであった。そのような状態の初校ゲラが白水社へ送られてくる。先生の文字はずいぶん読みやすいものではあるが、やはりそのままでは印刷所へ戻せる状態ではない。そこで、私が予備のゲラに清書をしつつ、疑問点や明らかな誤りと思われるところをチェックするという作業を行なった。チェックしたゲラの量がある程度たまると、それを携えて香里園に向かい、直接伊地智先生に疑問点を尋ね、その上で再整理して印刷所へ戻すというのがパターンであった。これが、私が毎月香里園に通ってやっていたことである。
伊地智先生の校正が済んだ後の再校・三校は、この辞典の編者として名を連ねている先生方に送り、中国語・日本語のチェックや説明文の訂正・加筆などをしていただいた。こちらの方は比較的スムーズに進んでいたので、結局は伊地智先生の校正の速度次第という状況であった。
結局この作業が、私が入社してからだけでも十年、その前の段階から数えると二十年続いたことになる。最初の頃こそコンパクトな辞典を目指していたために、赤字の量もそれほどではなかったが、私が担当になり、上述の方針変更がなされてからは、赤字の量も増えていった。初校ゲラで30枚だったゲラが、伊地智先生の手を経て再校ゲラになると70枚になっていることはごく普通のことであった。
何故これほどの赤字の量になったのか。いくつも理由は挙げられるが、やはり方針変更が大きかったと思われる。最初の方針に従って書かれた編者の人たちの原稿は、語彙にしろ例文にしろ、方針変更後の辞典全体の規模から計算して、かなり控えめなものであった。途中でページ数がほぼ倍となる辞典に変わったのであるからやむをえなかったと言える。
また伊地智先生は、動詞や形容詞などにはできるだけバラエティーに富んだ例文を挙げようとされていたので、原稿では1つしか例文が挙がっていなくても、伊地智先生の手を経ると5つあるいは6つの例文が加えられていることもたびたびであった。
私が香里園に伺うのは、前の晩に大阪入りして朝から訪問する場合と、朝、東京を発って昼過ぎに到着する場合とがあった。どちらにせよ、到着後1時間くらいは、お茶をいただきながら、中国に関するニュースなどの話、最近先生が出席された中国関係の会合の話題で過ぎていった。出張というのは移動時間を持て余すので、私はいつも中国関係の文庫本や新書などを持っていたが、そういった本を先生に紹介することもあった。先生はぱらぱらとページをめくり、面白そうだと思われると、晩に食事に出た時などに本屋で購入されることもしばしばであった。とにかく、中国に関することであれば、どんな些細な事にも興味をお持ちであった。
そんな話をしばらくした後、辞典の校正作業に入る。こちらがあらかじめチェックしておいたゲラを取り出して、一つ一つ確認していくのである。冗長すぎるところを示して、もう少し簡便・簡潔にして欲しいと言うと、「岩野君にそう言われると思いながらこの前書いて送ったんです」と笑いながらおっしゃることもあった。通い始めて数年も経つと、お互いにどのあたりの書きぶりが気になるかわかるようになってきたので、こういった問答は減っていった。そして先生は、何冊もの辞典を引っぱり出して書いているので、とにかく書けるだけ書いておきますから、あとは岩野君が整理してください、と言われることもあった。追加する例文にしろ単語にしろ、伊地智先生はとにかくあらん限りをメモ用紙に書かれ、あとは私の方で整理して、正しい順番に並べ直して印刷所へ戻すということも多かった。
冗長な説明文を簡便に直すのはそれほど難しいことではなく、また先生も、冗長すぎて却ってわかりにくくなっては元も子もないので比較的あっさりと書き直してくださったが、品詞や解釈、文法事項に関わることになると、それこそあっちの辞書こっちの辞書という具合に、1時間近くもそれを調べていらっしゃることもあった。先生はしばしば、英語などの欧米語に倣った中国語の文法研究はまだ歴史が浅いので、理路整然とした体系にまとめられないところが多いとおっしゃられていた。そのために結局は、例文など実際に使われているものを出来る限り集め、それを可能な限り整理した形で積み重ねておくしかないとうかがったこともある。だからこそ、あの厖大な数の用例が、必要不可欠であったのだろう。例文や解釈については、文法研究が進んだり文法体系が整備されたりすれば使われなくなるものも出てくるだろうということは先生も重々承知されていて、いずれはこの辞書を叩き台に若い人たちが改訂していってくれればよいと話してくださった。品詞表示については、はっきりと「異論が出るものもあるでしょうね」とおっしゃっていたのを覚えている。
さて伊地智先生は、辞典の記述に関しては相当の拘りを持ち、そういう面については決して譲らない頑固な面もお持ちであったが、私の印象としては実に柔軟であるというイメージの方が強い。上述したように、現在確認できる事実を整理して並べるという執筆態度の一方で、編者の方々それぞれの文法研究などによって得られた知見は、どんどん辞典に反映して欲しいと希望されていた。編者の方々は、伊地智先生が既に徹底的に修正を加えたゲラであるから、必要最小限の訂正・加筆・修正で済ませようと思われていたのかも知れないが、先生はむしろそれぞれが得意とする分野を活かして、それを存分に辞典の記述に加えて欲しいと希望されていたのである。この点については、伊地智先生は編者の方々を完全に信頼し、また編者の方々の力量を非常に高く評価されていらっしゃった。私は伊地智先生が編者の方々を、日本はおろか世界でもトップレベルの中国語学者ですよ、と話してくださるのを何度も聞いている。
品詞にしても解釈にしても、上述したように、とりあえず現時点で言えること、わかっていることを書き並べているので、今後研究が進めばいくらでも覆されることがあるだろうということについてはあまり気にされていないようであったが、むしろ出来ることなら第三者ではなく、この辞典の編者の方々によって、よりよく覆して欲しいというのが本音ではなかったかと思う。なぜなら先生ご自身は、井上翠先生に始まる大阪外国語大学の「中国語辞典編纂の歴史」を非常に強く意識され、自分の後も大阪外国語大学の伝統として継いでいって欲しいと念願されていたからである。
ところで、これはかなり後になってから聞いた話であるが、当初私が担当編集者になった頃、伊地智先生はかなり不安を感じていらっしゃったらしい。理由ははっきりしている。まず、これだけの規模の辞典にも関わらず、私が入社したての全くの編集未経験者であったことである。そして、外国語大学とは言わなくとも、せめて外国語学部中国語学科の卒業生ならまだしも、私は大学時代には中国の古代哲学を専攻していた、いわゆる漢文専門の人間であったことである。しかし、伊地智先生はそんなことは全く感じさせずに、ド素人の私に根気よく付き合ってくださった。幸いだったのは、白水社ということもあり、前任者が全く中国語はおろか中国にも縁のない人だったことである。そのため、少なくとも私は「前任者よりは中国のことで話が通じる」と思っていただけたようであった。逆に言えば、担当になった頃の私には、それくらいのことしか出来なかったのである。
まじめに辞典の編集作業をこなすことと、先生が話してくださる中国のことを夢中になって聞くことで、徐々に先生との距離が縮まったのではないだろうか。先生が若い頃に教わった方々、つまり吉川幸次郎先生、倉石武四郎先生、貝塚茂樹先生といったお歴々は、中国哲学専攻の人間にも必須の名前である。学生時代に読んだ論文の著者について、伊地智先生から生き生きとしたエピソードを伺うことは何よりも楽しいことであり、先生もいろいろと話してくださった。
また、もう亡くなられてしまったが、私の学生時代の恩師が、戦前戦中に天津に住んでいて、よく中国のことを話してくださったので、私も当時の中国について興味を持つようになっていたが、伊地智先生からもその時代の北京や天津の様子をいろいろとうかがった。伊地智先生は私がどうして戦前の北京や天津のことに詳しいのか不思議がられながら、懐かしそうに、そして楽しそうに語ってくださった。伊地智先生の不思議の謎解きをしたところ、私の恩師と伊地智先生は、年齢こそ6歳ほど離れているが、ほとんど同じ時期に天津に暮らされていたということもわかり、共通するエピソードなどもあったりして、先生は、ますますいろいろな話を聞かせてくださった。
一方、肝心の私の中国語であるが、中国哲学専攻とはいえ、中国人の論文を読んだりするために現代中国語の能力は必須であり、母校では中国語が第一外国語であった。嫌いではなかったので楽しく学んでいたが、決して本気で学んだわけではなかった。ところが、社会人になって伊地智先生から十年間、結果的にはマンツーマンで中国語を教えていただいたようなことになった。それも授業料を払うどころか、逆に会社から給料をもらいながらである。中国語が得意であるとか、中国語が出来ますとか言えるようなレベルには今もって達していないが、それでも漢文専門の私に、現代中国語には現代中国語の面白さがあることを伊地智先生は教えてくださった。
学生時代に私を白水社に推薦してくださった恩師の一人・中野達先生は、「伊地智先生の中国語辞典の担当だから現代中国語専攻の方がいいのかもしれないが、あれだけの規模の辞典だからむしろ中途半端に現代語をかじっている人よりも、古典の素養のある人の方がきっと役に立つから」と私を励まして送り出してくださったが、この辞典の完成に少しでも役に立つところがあったのか誠に心許ない。
ご健在ならば、伊地智先生はまだまだ辞典のゲラに赤字を加えていらっしゃることと思われる。ただ、先生が作りたかった辞典と、ほぼ等しいものが出来上がったということは自信をもって言える。更に伊地智先生の逝去後、編者の方々がそれぞれが持っているすべてを、中国語の知識だけでなく日常生活の時間までをこの辞典に注いでくださったので、むしろよりすばらしいものに仕上がりましたと、先生の墓前に胸を張って報告できる。
生前、伊地智先生はこの辞典についていろいろ話してくださったが、「どこを開いても、中国のことが垣間見えるような辞典にしたい」とおっしゃられていたのが、一番鮮明に覚えている言葉である。それは間違いなく実現できたであろうが、私には、どのページを開いても、先生がにこやかに微笑まれた表情や、机に座りゲラに向かわれていた姿が髣髴とする辞典である。恐らくこの二十年近く、先生の頭の中のほとんどを占めていたのはこの辞典のことであり、心の中を占めていたのは中国のことであったと思う。辞書を持たずに彼岸に行ってしまわれた先生は、彼の地で奥様や司馬遼太郎先生、井上翠先生などに会わせる顔がなかったかも知れないが、1年たった今ようやく先生に届けることができる。
先生、ちょっと遅れましたけど、この辞典を皆様にご覧いただいてください。合掌。