京神往来・薊津往還

0.はじめに

大学院を修了して就職した白水社という出版社で、私は中国語辞典の担当になった。より正確に言えば、当時大学院で講義を受けていた中野達先生の推薦により、中国語辞典の編集担当者として採用されたのであるが、その辞典の編著者が元大阪外国語大学学長・伊地智善継先生である。

入社して最初に大阪枚方市のお宅を訪ねたのが5月のことで、それ以来ほぼ毎月一回、先生のお宅に通い続けて既に十年になる。

先生は五四運動の年に生まれ、大学卒業後は商社に就職され、その駐在員として昭和十年代に2年ほど天津で生活されていた。数年ずれるが、ほぼ同じ頃やはり天津に住んでいた中下正治先生の昔語りとつながる話題も多く、二人の老師の間を往き来して、古き良き中国のことを伺うのが私の日課ならぬ月課となった。

1.松濤自述

伊地智先生の大阪外国語大学(当時は大学ではなく専門学校)入学と入れ替わるように、中国語辞典で有名な井上翠先生がちょうど退官された。そこで先生が入学後に初めて手伝った仕事(行事)は井上先生の送別会の準備であったと聞く。このように井上先生から直接授業を受けたということではないけれど、こういった縁で井上先生との交流が始まったらしい。その後、伊地智先生をはじめとする学生たちが井上先生の口述自伝をまとめることになり、伊地智先生ご自身が何度となく井上先生のお宅へ足を運ばれたと伺った。この記録を私家版的に作った小冊子が『松濤自述』で、伊地智先生のお宅へ通うようになって程なく、私もそれを借りてコピーさせていただいた。

井上先生の半生は清末の激動の時代に当たり、ちょうど中国留学中に西太后の葬儀があったりもして、歴史の教科書さながらの内容である。淡々とした語り口ながら、一読して面白いと感じた私は伊地智先生の許可を得て、この小冊子を更にコピーして春秋繁露研究会の例会に持参した。井上翠と聞いてすぐに反応する学生は少ないだろうが、当時まだ繁露研究会の指導をしてくださっていた中下正治先生は「あの井上さんの自伝か…」と興味深げにコピー本を手に取り眺めていらっしゃった。

その場はそれで終わったが、一週間もたたずに研究会のメンバーからは面白かったという感想が寄せられた。また会員に配った残りの冊子は「ご自由にお持ちください」というつもりで研究室のテーブルに置いておいたのであるが、あっという間に先生方や学生によって持ち出され、もうないのかと私への問い合わせが少なからずあった。今思うと、その頃の中哲文科研究室の隠れたベストセラーではなかっただろうか。

2.馬小屋

私が伊地智先生の話をおもしろく聞くだけでなく、中下先生から伺ったことを今度は伊地智先生に質問するようになると、先生はますますいろいろなことを話してくださった。

ある時、どんな話題の流れからかは思い出せないが、先生の知り合いに父親が東亜同文書院の一期生だという方がいらっしゃると伺った。その方のことを例によって春秋繁露研究会で中下先生に話すと、先生はその人の父親、つまり書院一期生の方のことをよく覚えていらっしゃり、北京でその人の家の裏にあった馬小屋に住んでいたとおっしゃった。馬小屋というのは中下先生一流の冗句であるが、その人の住まいは東交民巷にあり、北京日本人会の会長とかでお宅もそれなりに広かったらしく、確かに馬小屋もあったそうである。ただ、中下先生はその方の息子さん、つまり伊地智先生のお知り合いの方までは記憶にないとおっしゃっていた。

天津在住ということで伊地智先生、中下先生ともに北京はしばしば訪れていたらしく、このように北京のこともしばしば話題に上った。中下先生に伺った、天津から汽車で北京に向かうと沼沢の中に天壇が見えてきて「ああ、北京に着いたか…」と思ったという同じ光景・感想を伊地智先生も話してくださった。

建国門外は今でこそ大使館街であるが、当時は原っぱで、はっきり言えば死体捨て場のような所であったらしく、よく日本軍が演習を行なっていたということもお二人に共通した思い出であった。

研究会でそんな北京の話を伺っていて、当時は景山の上から北京大学の紅楼が見えたと伺い、いくら高層建築のない当時でも海淀区にある北京大学が見えるわけないだろうと思って質問すると中下先生が「お前は何も知らんのお、そのころの北京大学は景山のすぐ北にあったんだ」と教えてくださった。大阪で伊地智先生にそんな話をすると、やはり先生も鮮明に紅楼のことを覚えていらっしゃった。

その他にも、北京駅は前門のすぐ東側にあったとか、整備される前の天安門広場のこととか、路面電車の走っていた北京の様子など、私の知っている北京とは全く異なる北京(=北平)について教えていただいた。

3.旧天津租界図

ある時、伊地智先生のお宅を伺うと、誰かにもらったという天津と北京の古い地図を見せてくださった。多少大判で最近はこういった戦前・戦中の地図も売られているが、先生のお持ちの地図も当時のものではなく、そのリプリントのようであった。

天津を訪れたことのない私に伊地智先生は地図を指し示しながらいろいろと楽しい話をしてくださった。北京は何度か訪れているが、よく知った場所が当時はこうだったのかと、こちらも新鮮な驚きであった。

例によって私は先生にこの地図をコピーしたいから貸してもらえないでしょうかとお願いし、先生は快く貸してくださった。勤務先のコピー機で複写を何部か取った私はいつものように繁露研究会に持参した。リプリントのためか、もともとが不鮮明な上にコピーしたからますます不鮮明になった街路の名前などを追いながら、それでもある程度文字は読みとれるので、それを頼りに中下先生はほぼ2時間半近くこの地図を肴に薊津机上旅行を繰り広げてくださった。当然、その日の例会はそれがすべてになってしまったが、みな時間の経つのも忘れて先生の話に聞き入った。私はとにかくワクワクしながら聞いていたのであるが、会員の中には地図の上に先生の話されたことを細かくメモしている者もいた。

いつかこの地図を持って北京と天津の町を散策する、それが私の夢になった。ただ、既に北京は古い地図を持ってちょっと歩いてみたが、天津は未だに訪れてすらいない。

4.むすび

去る4月13日、その伊地智善継先生が亡くなられた。81歳と聞けば大往生と言えようが、やりたいことがまだまだたくさん残っていたのではないかと思う。その一つが中国語辞典の完成である。伊地智先生の後半生を知る人は誰しも伊地智先生と聞けば中国語辞典を思い浮かべるほど、まさにライフワークであった。辞典は先生の学問を継いだ方々の協力を得て、なんとか先生の一周忌までには刊行したいと現在奮闘中である。

生前、伊地智先生は私が戦前や戦中の中国のことに詳しいのを不思議がられ、私はその時中下先生のことをお話しした。中下先生がほぼ同じ時期に天津にいらしたことを知った伊地智先生は、東京に来た折りに機会があれば是非中下先生にお会いしたいとおっしゃっていたが、それももはや叶わぬ夢となった。個人的なことを述べれば、いつか中下先生、伊地智先生と中国の大地を歩きたいという夢も叶えられなかった。

中下先生のお陰で中国近現代の歴史にも興味を持つようになったが、それがこれまで伊地智先生との仕事をスムーズに進めてくることができた非常に重要な鍵であったと思う。その中下先生は生前我々を前にしばしば「お前たちは決して中国と戦争はするな」と口癖のようにおっしゃっていた。また伊地智先生はある講演の席で「歴史上、先の戦争まで、日本と中国は直接戦争することもないほど疎遠な関係だった」と非常に逆説的な表現で語られていた。両老師がいみじくも共に戦争を話柄として教えてくださった大切な言葉である。残された私は、中国とそこに暮らす人々をこよなく愛された両老師の言葉を心に刻み、これからも中国とつきあっていきたいと思う。

[補記]

晩年病床で中下先生が好んで読まれていたのは司馬遼太郎氏の著作であった。司馬氏は大阪外語で伊地智先生の後輩に当たり、数十年来の友人でもあり、なおかつ伊地智先生の辞書の完成を心から待ち望んでいた方の一人である。今ごろは彼岸で鼎談でもされているのなら、是非とも陪席したい限りである。