前漢郊祭考

一、はじめに
二、『春秋繁露』の郊祭
三、『史記』『漢書』の郊祭
四、郊祭の比較
五、むすび
  付録 前漢郊祭年表

一、はじめに

 本稿は東洋大学春秋繁露研究会による輪読における筆者担当部分の訳注に基づき、『春秋繁露』中で主張された郊祭が、前漢時代を通じて行なわれた郊祭と、如何なる点で一致し、如何なる点で異なるかを比較検討することを目的とするものである。前漢の祭祀の比較という、時代を区切ったものであれば、当然のことながら書物としての『春秋繁露』の成立時期についても考慮しなければならないが、その問題はひとまずおき、あくまで「『春秋繁露』という書物の中に表わされた郊祭」という視点から述べていきたい(注1)。ただ、これまで訳注を発表した経験から、『春秋繁露』の定義する郊祭は、その記述が数篇にまたがるとはいえ、おおよそそれらの篇の中では矛盾のない内容となっており、郊祭に関わる諸篇がほぼ同時期ないしは同じ立場の者によってまとめられたものと筆者自身は考えている。
 また本稿において『春秋繁露』と言った場合に、決して『春秋繁露』全体を指すのではなく、筆者がこの数年来、主に関わってきた郊祭に関する諸篇のみを指すものである。今仮にこれを『春秋繁露』の郊祭諸篇と呼ぶならば、それは通行本の巻十五、十六を中心に並んでいる(注2)。これら諸篇と『春秋繁露』の他の篇での郊祭の位置付けについては機会を改めて検討すべきであると考えているが、本稿においてはひとまずこの問題をおいて、上述の郊祭諸篇に絞って論を進めることにする(注3)。
 一方、『春秋繁露』と比較する前漢期の郊祭については『史記』『漢書』の各皇帝紀の記述を中心とした。その理由は、『春秋繁露』の定義に従えば、郊祭は帝王自らが行なう祭祀であるからである。更に必要に応じて郊祀志や、郊祭について皇帝と議論をした人々の伝を参照とした。

二、『春秋繁露』の郊祭

 まず初めに『春秋繁露』中で郊祭がどのように扱われているかを確認するために、その内容を幾つかの主題に分けて考えてみたい。その主題とは、本稿では「定義・性格」「時期」「天」「天と天子」としたが、もちろん『春秋繁露』中に明確に提起されている分類ではなく、あくまで筆者が郊祭に関する記述を整理するために独自につけたものである。
 そこでまず第一に、『春秋繁露』ではどのように郊祭が定義され、性格付けされているかについて見てみると、

 天子の禮、郊より重きは莫し。(郊事對)
 王者は歳に一たび天を郊に祭る。(郊義)
 天子は天を祭らざるべからず。(郊祭)
 今、郊は天に事ふるの義なり。(郊語)

などと述べられており、郊とは天をその対象とする祭祀であることが読み取れる(以上引用文の後のカッコ内は『春秋繁露』の篇名、以下同じ)。更に『春秋繁露』ではこの他にも

  その祭るにはみずからせざるべからず。(郊義)
  國に大喪有れば、宗廟の祭を止めるも、郊祭を止めず。(郊祭)
  敢へて父母の喪を以て天地に事ふるの禮を廃せず。(郊祭)
  三年の喪には、その先を祭らざるも、敢へて郊を廃せざるは、郊は宗廟より重ければなり。(郊事對)
  郊せずして山川を祭るに及びては、祭の叙を失し、禮に逆らふなり。(郊祀)

と述べ、数ある祭祀の中でも郊祭をその最上位に位置付けていることがわかる。特に父母の喪中をも顧みず、郊祭を行なうという点については後に引用する文にもあるように、天子は天の子であるから子として親に礼を尽くすのは当然であるという見解を持ち出して、その根拠としている。しかしこの場合、『春秋繁露』中では天子にとって現に目の前に存在する、あるいはかつて存在した実際の父母と、天子という立場から見た親である天との関係について、郊祭を除いた日常生活においてどちらを大切にすべきか、どう仕え分けるかなど、我々が素朴に疑問としそうなことについては一切触れられておらず、ただ父母の喪中であっても郊祭を中止しないと述べるのみである(注4)。
 次に、この郊祭を行なう時期についてであるが、この点についても『春秋繁露』では以下のように何度か言及がある。すなわち

  郊は新歳の初めに因る。(郊義)
  その初めを以て郊す。(郊義)
  郊は正月上辛を以てす。(郊義)
  天子は歳首に至る毎に、必ず先ず郊祭し以て天を享す。(郊祭)
  郊は常に正月上辛を以てす。(郊事對)
  始めて歳首に入れば、必ず正月上辛の日を以て先ず天を享す。(郊語)

などである。以上の説は大きく二つに分類することができる。一つは「新年最初」を強調するもので、もう一つは「上辛」の日を強調するものである。厳密に考えればこの両者の区分は、最初にも問題としたように『春秋繁露』の成立に関わる問題やその解決の手がかりと見なすこともできよう。しかし、そこまで深く立ち入らず、最後に挙げた「郊語」の文にもあるように、「新しい年になって一番初めの祭祀は最初の辛の日に行なう郊祭である」という折衷的な説が、強調すべき点の相異によってにこのような両者に表われたと見なすこともできよう。「上辛」も正月の上辛であることから、新年最初という説とそれほど大きな差異は生じない。
 ところでこの新年最初の祭祀というこだわりは、上述の天の定義付けと同様に天の至上性によるものであり、天が他の祭祀の対象、例えば地・祖先・父母・名山大川などに比べ優位にあることを示しており、この天の至上性に関しては『春秋繁露』中では繰り返し言及されるものである。
 なおここに何度か現われる「上辛」について、筆者はひとまず「辛は新なり」と解釈しているが(注5)、これについて『春秋繁露』には明確な説明を見つけることはできない。この言葉は『春秋穀梁伝』にも見えるが(注6)、当時の常識として説明不要、自明のものであったものかと推測している。
 ではこの天というものを『春秋繁露』はどのように捉えているのか、『春秋繁露』から拾い上げてみると次のようになる。

  天は百神の大君なり。(郊語)
  天は百神の君なり、王者の最も尊ぶところなり。(郊義)
  古の天を畏敬し天郊を重んじること、此の如く甚だし。(郊祭)
  天は萬物の祖なり。萬物は天に非ざれば生ぜず。(順命)
  天を祭らざれば、乃ち小神を祭るべからず。(郊祠)

 明らかに天は諸神の最上位にあり、あらゆる存在の基礎となっていることを述べている。こうした天の至上性を背景として、天子は自分を天の子であると位置付けることによって、自分自身の至上性の裏付けを獲得することになるのである。またこの天と天子との関係については更に

  天子は父母にするがごとく天に事へ、子孫にするがごとく萬民を畜ふ。(郊祭)
  人の子と為りて父に事へざれば、天下能く以て可と為す莫し。今天の子と為りて天に事へざるは何を以て是に異ならん。(郊祭)
  立ちて天子と為るは、天、是が家に予ふなり。(郊祀)
  皇天右けて之を子とし、号して天子と称す。(順命)
  天子とは、則ち天の子なり。身を以て天を度るに、独り何為ぞその子の子禮有るを欲せざらんや。(郊語)

と述べ、子が父に仕えるのと同様に、天の子である天子は父である天に仕えなければならないとしている。これは天子にその至上性を保証する代償でもあるが、その主導権はあくまで天が握っており、手放しで君主権の強化・絶対化を認めるようなものではない。むしろこれらの例からは、天子は天があって初めて立っていることができるような印象すら覚える。
 以上が『春秋繁露』中の郊祭およびその対象である天に対する基本的な立場である。論を進めるに当たって指摘した幾つかの疑問点は今後検討すべき課題として残ってはいるが、最初にも述べたように、これら『春秋繁露』の所説の中に大きな矛盾はないものと筆者は考えている。

三、『史記』『漢書』の郊祭

 次に『史記』『漢書』の本紀の記述を中心として、前漢一代の郊祭の実施について見てみるが、その詳細については、史書の記述を本稿の最後に付録として年表の形で掲げておくのでそれを参照いただきたい。ただし、あらかじめ断わるならば、『史記』『漢書』両書の記述では必ずしも『春秋繁露』で定義されているような郊祭はほとんど見あたらず、郊外で執り行なわれたと見なされる祭祀や、天及びそれに類する神を対象とした祭祀の記述を中心として採録したことを承知いただきたい。
 更に、この前漢一代についても時代によって祭祀の性格の変遷が見られるので、これも筆者が独自に時代分けを施した(注7)。
 まず第一期として高祖から景帝までを設定して見てみると、秦王朝の祭祀を受け継ぐと共に、各郡国に対し先帝の廟を作らせていることがわかる(注8)。これらは宗廟を受け継いで奉じることが重要視されていることを表わしており、その端的な例としては呂氏一族を滅ぼした後の次期皇帝選出に当たり、高祖の血を引いている者だけがその祭祀を継承することができるのであるという重臣たちの言に如実に表われている(注9)。
 一方で秦朝以来の四帝にもう一つ追加して五帝を祭るようになっていたが、これらの祭祀は雍で執り行なわれたようである(注10)。文帝の前一六五年に郊祭についての議論が起こるが、この議論の結果祭祀の対象となったのは今述べた五帝であり、『春秋繁露』で言うような唯一絶対の天とはまだ距離のあるものである。またこの時に有司の言として郊祭を夏に執り行なうものであると述べている点は注目される。
 次に第二期として武帝の時代を取り上げてみると、まず前一三三年に五畤の郊見を行ない、その後は三年に一度行なうことにしたとあるが(注11)、これも『春秋繁露』では先にも述べたように毎年必ず行なうとしていることと明らかに相異が見られる。一方でそれとは逆に若干『春秋繁露』の説に近いものとして、謬忌の主張する「泰一」の設定が見られる(注12)。この「泰一」は、これまでの横並びの五帝の上位にあるもので、この点だけを見れば『春秋繁露』の天に一歩近づいたものと言える。しかしこれもすぐ後に述べられているように「天一」「地一」「泰一」という「三一」の一つであるという点では、『春秋繁露』の天とは異なるものである。
 また郊祭の時期については、前一一二年の太史令らの言として、二年ごとに行なうべきであるとの説が見られる。事実、これ以後の年表を眺めてみると、全くこの通りとはいかないまでも、ほぼ二年ごとに郊における祭祀が執り行なわれており、記録が抜けている年も実際には行なわれていたであろうことが予想されるのである(注13)。
 第三期として宣帝・元帝の時期を考えてみると、今述べた武帝後半期からの二年ごとの甘泉での泰畤への郊祭と、その間の年に雍への行幸というスタイルが確立しており、格別の議論も変化も見られない。
 第四期として考える成帝から前漢末までの時期は、にわかに郊祭に関する議論が活発になる。まず時の丞相・匡衡らによって首都長安の南北郊が提唱され、更にその言の中に「帝王の事、天の序を承けるより大なるはなし。天の序を承けるは郊祀より重きはなし」という『春秋繁露』を思わせるような言葉が見られる。しかしこの長安南北郊はいったんは採用されるが、肝心の匡衡の失脚とそれに伴う反対派の運動により宣帝・元帝時代の祭祀のやり方に戻されてしまう。以後成帝の末年までこの旧来のやり方が続くのであるが、それは一方で成帝に子が出来ないのは先祖以来の祭祀のやり方をみだりに変えてしまったからであるという意見が根強かったからでもある(注14)。しかし元に戻したにもかかわらず、結局は何の効果もなかったと言うことで、成帝の崩御後に再び先帝の遺志として長安南北郊が復活する(注15)。成帝の次は哀帝であるが、彼自身が病気がちであり、その病気が先祖以来の祭祀を変えた報いと見なされ、再び長安南北郊は廃止される(注16)。
 短い哀帝の後に平帝が即位するが、即位後間もなく王莽が長安南北郊の復活を進言する。この王莽の言には「王者は父として天に事ふ」「正月上辛に郊す」「歳ごとに天に事へざるは、皆古制に応ぜず」などとあり、これもまた『春秋繁露』を彷彿とさせるものである。

四、郊祭の比較

 以上見てきた『春秋繁露』の郊祭と前漢一代の祭祀との間には明らかに大きな隔たりがある。そして『史記』『漢書』などの所々に『春秋繁露』と類似する言説が見られるが、それはあくまで類似であり、ほぼ完全な一致という点からすれば、前漢末の匡衡や王莽を待たなければならない。確かに厳密に検討すれば前漢末の彼らの所説にも『春秋繁露』との相異は見れるものの、前漢一代の祭祀を追ってきた場合、この前漢末にきて突如『春秋繁露』を読み返すような錯覚に陥る議論が現われてくるというも筆者の偽らざる感想である。
 ここで具体的な異同について改めてまとめてみると、まず『春秋繁露』がしきりに強調する「天」は成帝の時期までは現われない。代わって前漢前半では「泰一」がそれに近い立場を占めている。
 祭祀の時期では、毎年まず最初に必ず天子自らが行なうことを述べていた『春秋繁露』に対し、実際には有司を派遣して執り行なわさせることが多く、中期以降定例化した甘泉への行幸も、正月に行なうという点では『春秋繁露』に近いと言えるが、実施は二年に一度である。
 『春秋繁露』では父母の死をも厭わずに行なうべきであるとされるほど重要視された郊祭であるが、甘泉での祭祀が正月に行なわれるものの二年に一度であることからすれば、数ある祭祀の一つという位置づけでしかなかったようであり、父母の喪との関係は不明である。
 更に天と天子との関係を親子関係に比定するに至っては、王莽が『春秋繁露』と全く同じと言ってよいような説を打ち出すまでは全く言及がされていない。
 また『春秋繁露』では「郊」と言うだけでほとんど方位について言及することがないのに対し、前漢の祭祀に対する議論の過程では、特に長安南北郊が打ち出された頃から、陽は南であり、天は南であるといった説が見られるようになり、祭祀の場所についてもかなりやりとりが行なわれている。
 更に長安の南北郊と言った場合、それは天への祭祀と地への祭祀を合わせて考えられているようであるが、『春秋繁露』ではほとんど全くと言っていいほど地に対する祭祀は言及されていない。

五、むすび

 以上見てきたように、そして比較の初めにも述べたように、『春秋繁露』の郊祭と前漢一代で実際に行なわれた郊祭との間には、あまりにも共通点が少ないと言える。特に『春秋繁露』を董仲舒自身の著作とし見なした場合、彼の生きた時代とそのネームバリュー、さらには朝廷に重要問題があればしばしば張湯を遣わして意見を尋ねたと言われるその影響力から考えて(注17)、武帝期以降もう少し『春秋繁露』に準拠した郊祭が行なわれたとしても不思議ではない。にもかかわらずそのような様子はなく、上述したように前漢末の王莽を待って初めて『春秋繁露』を参考にしたと思われる意見が起こるのである。
 これをまとめるならば、『春秋繁露』の郊祭に関する説が武帝の時代に既に董仲舒の意見として朝廷に知れ渡っていたとは考えにくく、せいぜい彼の弟子たちの間で語られていたにすぎないのではないだろうか。書物あるいはまとまっ意見としての『春秋繁露』が成立するのには、筆者にはどうしても王莽が関わっているように思われる。少なくとも今回問題とした『春秋繁露』の郊祭諸篇については、今一度王莽の思想と比較検討しなければならない、というのが本論を通じて明らかになった次の課題である。
 もちろん『春秋繁露』に述べられるように郊祭を毎年行なうのは国家財政上かなり大きな負担であるという現実的な理由から、武帝の頃には既に『春秋繁露』の説があったにもかかわらず、それを実行に移せなかったということも考えられる。それについての検討は、さらに『史記』『漢書』の記録を広く当たり、王莽だけではなく後漢の郊祭についても踏まえなければ軽々しく結論を出すことはできないので、ここではひとまず課題として提示するにとどめたい。
 最後に、本論は一九九五年十一月十二日に行なわれた無窮会八十周年記念東洋文化談話会発表大会で筆者が発表した内容をまとめたものであるが、その席上出された質問事項について改めてここに採録したい。
 当日の質疑応答は何件かあったが今ここに取り上げるのは、まず封禅との関係についてである。筆者も『春秋繁露』の郊祭諸篇を読み始めてから、武帝期の最大の行事である封禅とのかかわりについて関心を持っており、董仲舒の生きた時代から考えて何らかの言及があるものと予想していたが、『春秋繁露』郊祭諸篇中には封禅という言葉は一度も登場しない。さらに筆者の調べた限りでは『春秋繁露』全編を通じても封禅という言葉は出てこない。これは先に問題にした『春秋繁露』の成立時期を考える上で極めて大きな問題をはらんでいると思われる。今のところ筆者は『春秋繁露』には封禅に関して何ら言及がないということ指摘することができるだけであるが、『史記』には「封禅書」とあるものが、『漢書』では「郊祀志」に変わることと合わせ、更に今後考えていきたいと思っている。
 次に席上「郊祀志」だけでなく、「五行志」の記述をもう少し参照すべきであるとの指摘を受けたが、『春秋繁露』郊祭諸篇では、その中に紛れ込んでいる「求雨」篇に五行の考え方がはっきりと出ている以外は(注18)、特に郊祭について問題としている篇においては我々が普通に五行といって予想するような言説は全く現われてこない。筆者が当日の発表に当たってほとんど「五行志」を参照しなかったのは、このような理由による。もちろん『春秋繁露』を扱う上で「五行志」は当然のことながら参考にすべきであり、それらを取り込んだ上で改めて本論の内容を検証しなければならないと考えている(注19)。
 また前漢の甘泉における祭祀にはその地名からして「水」との関わりがあるのではないかとの意見も出されたが、筆者の発表が『春秋繁露』と実際の郊祭との比較に重点を置き、なおかつ『春秋繁露』を中心としたため、実際の祭祀については深く検討することを怠っており、実際の祭祀の詳細についても今後の課題として残っている。
 終わりに、この場を借り、上記発表大会で、懇親会の席も含め、筆者に様々なご教示を下された諸先生・先輩方、また本発表のもととなった東洋大学春秋繁露研究会会員の方々に改めて感謝するとともに、さらなるご教示・ご批判をお願いしたい。なお本論で引用した『春秋繁露』に関する詳細は、注釈稿としてここ数年の東洋大学大学院紀要および東洋大学中国哲学文学科紀要に発表しているので(注20)、あわせてご参照いただきたい。

付録 前漢郊祭年表
(主として『漢書』各紀・郊祀志に基づいて作成した)
皇帝 西暦年      記   事
高祖 高祖乃立爲沛公。祀黄帝。祭蚩尤於沛廷。
二〇五 (二月)令民除秦社稷。立漢社稷。
(六月)令祠官祀天地四方上帝山川。以時祠之。
一九七 (八月)令諸侯王皆立太上皇廟于國郡。
一九五 (十一月)過魯。以大牢祠孔子。
恵帝 令郡諸侯王立高廟。
高后 一八四 (夏)今皇帝疾久不已。乃失惑昏亂。不能繼嗣奉宗廟。守祭祀。不可屬天下。
文帝 奉高帝宗廟。重事也。
一七九 (十月)皇帝見于高廟。
(正月)豫建太子。所以重宗廟社稷。不忘天下也。
一七八 (十一月)朕聞之。天生民。爲之置君以養治之。人主不徳。布政不均。則天示之災以戒不治。
一六六 (春)朕獲執犧牲珪幣以事上帝宗廟。十四年于今。
一六五 (春)上乃下詔議郊祀。
有司皆曰。古者天子夏親郊祀上帝於郊。故曰郊。
(四月)上幸雍。始郊見五帝。修名山大川嘗祀而絶者。有司以歳時致禮。
趙人新垣平……宜立祠上帝。……於是作渭陽五帝廟。
一六四 (四月)上郊祀五帝于渭陽。
其明年。……人有上書告平所言皆詐也。下吏治。誅夷平。是後。文帝怠於改正服鬼神之事。而渭陽長門五帝使祠官領。以時致禮。不往焉。
景帝 一四四 (十月)行幸雍。郊五畤。
祠官各歳時祠如故。無有所興。
武帝 尤敬鬼神之祀。
一三三 (十月)行幸雍。祠五畤。
上初至雍。郊見五畤。後常三歳一郊。
亳人謬忌奏祠泰一方。曰。天神貴者泰一。泰一佐曰五帝。古者天子以春秋祭泰一東南郊。……天子令太祝立其祠長安城東南郊。……人上書言。古者天子三年一用太牢祠三一。天一地一泰一。……後人復有言。古天子常以春解祠。
一二二 (十月)行幸雍。祠五畤。
有司曰。陛下肅祗郊祀。上帝報享。
一二一 (十月)行幸雍。祠五畤。
齊人少翁以方見上。……又作甘泉宮。中爲臺室。畫天地泰一諸鬼神。而置祭具以致天神。
一一三 (十月)行幸雍。祠五畤。
天子郊雍。曰。今上帝朕親郊。而后土無祀。則禮不答也。
天子曰。間者河溢。歳數不登。故巡祭后土。祈爲百姓育穀。
(十一月)立后土祠于汾陰上。
或曰。五帝。泰一之佐也。宜立泰一而上親郊之。上疑未定。
一一二 (十月)行幸雍。祠五畤。
令祠官寛恕等具泰一祠壇。
(十一月)辛巳朔旦。冬至。立泰畤于甘泉。天子親郊見。
天子始郊拜泰一。……太史令談。祠官寛恕等曰。……二歳天子壹郊見。
一一〇 (十月)祠黄帝於橋山。
一〇九 (十月)行幸雍。祠五畤。
一〇七 (十月)行幸雍。祠五畤。
(三月)祠后土。
一〇六 (冬)至于盛唐。望祀虞舜于九嶷。……所過祠禮其名山大川。
(三月)甲子。祠高祖于明堂。以配上帝。
(四月)還幸河東。祠后土。
一〇四 (十一月)冬至。祀上帝于明堂。
一〇三 (三月)行幸河東。祠后土。
一〇〇 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
九五 (三月)往者朕郊見上帝。
九三 (三月)壬午。祀高祖于明堂。以配上帝。
(十二月)行幸雍。祠五畤。
八八 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(二月)朕郊見上帝。
甘泉泰一汾陰后土。三年親郊祠。
宣帝 六一 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
五七 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
五六 (三月)行幸雍。祠五畤。
五五 (三月)行幸河東。祠后土。詔曰。……朕飭躬齊戒。郊上帝。祠后土。
五三 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
五一 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
四九 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
元帝 四七 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
四五 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
四四 (三月)行幸雍。祠五祠。
四三 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
四〇 (三月)行幸雍。祠五祠。
三九 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)幸河東。祠后土。
三八 (三月)上幸雍。祠五畤。
三七 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
成帝 三二 (十二月)作長安南北郊。罷甘泉汾陰祠。
丞相(匡)衡。御史大夫(張)譚奏言。帝王之事莫大乎承天之序。承天之序莫重於郊祀。……祭天於南郊。就陽之義也。……甘泉泰畤河東后土之祠宜可徙置長安。合於古帝王。
王者各以其禮制事天地。非因異世所立而繼之。……今既稽古。建定天地之大禮。郊見上帝。
三一 (正月)罷五畤。辛巳。上始郊長安南郊。詔曰。乃者徙泰畤后土于南郊北郊。朕親飭躬。郊祀上帝。
(三月)辛丑。上始祠后土于北郊。
匡衡坐事免官爵。……天子異之。以問劉向。對曰。家人尚不欲絶種祠。……祖宗所立神祗舊位。誠未易動。……古今異制。經無明文。
一五 (十一月)行幸雍。祠五畤。
一四 (十月)(皇太后)復甘泉泰畤汾陰后土雍五畤陳倉陳寶祠。
一三 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
一二 (三月)行幸雍。祠五畤。
一一 (正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
一〇 (三月)行幸雍。祠五畤。
(正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
(三月)行幸雍。祠五畤。
(正月)行幸甘泉。郊泰畤。
(三月)行幸河東。祠后土。
帝崩……皇太后詔有司復長安南北郊。
杜 説(王)商曰。……今甘泉河東天地郊祀。咸失方位。違陰陽之宜。……復還長安南北郊。
成帝崩。皇太后詔有司曰。……其復南北郊長安如故。以順皇帝之意也。
哀帝 太皇太后詔有司曰。其復甘泉泰畤汾陰后土如故。上亦不能親至。
(十一月)復甘泉泰畤汾陰后土祠。罷南北郊。
平帝 (正月)郊祀高祖以配天。宗祀孝文以配上帝。
(正月) 祭明堂。
王莽奏言。王者父事天。故爵稱天子。……春秋穀梁傳以十二月下辛卜。正月上辛郊。高皇帝受命。因雍四畤起北畤。而備五帝。未共天地之祀。孝文十六年用新垣平。初起渭陽五帝廟。祭泰一地祇。以太祖高皇帝配。日冬至祠泰一。夏至祠地祇。皆并祠五帝。而共一牲。上親郊拜。後平伏誅。乃不復自親。而使有司行事。孝武皇帝祠雍。曰。今上帝朕親郊。而后土無祠。則禮不答也。於是元鼎四年十一月甲子始立后土祠於汾陰。或曰。五帝。泰一之佐。宜立泰一。五年十一月癸未始立泰一祠於甘泉。二歳一郊。與雍更祠。亦以高祖配。不歳事天。皆未應古制。建始元年。徙甘泉泰畤河東后土於長安南北郊。永始元年三月。以未有皇孫。復甘泉河東祠。綏和二年。以卒不獲祐。復長安南北郊。建平三年。懼孝哀皇帝之疾未*。復甘泉汾陰祠。竟復無福。…皆曰宜如建始時丞相衡等議。復長安南北郊如故。

[注]
『春秋繁露』の成立については、これまで偽書説を中心に様々な議論があるが、それはそれ自身で一個の独立したテーマとなるものなので、本稿では触れない。ただし筆者としては、『春秋繁露』の成立について検討する場合、本稿で試みたような作業を通じてかなり有力な手がかりが得られるものと考えている。
筆者の定義する『春秋繁露』の郊祭諸篇は以下の通りである。

   巻十四 郊語第六十五
   巻十五 郊義第六十六 郊祭第六十七 四祭第六十八
       郊祀第六十九 順命第七十 郊事對第七十一
   巻十六 祭義第七十六

なおこ巻十四はこの「郊語」以前には五行関係の篇が並んでおり、むしろこの「郊語」で巻を分けた方がいいくらいである。巻十六は上記の他に「執贄第七十二」「山川頌第七十三」「求雨第七十四」「止雨第七十五」「循天之道第七十七」が含まれる。
『春秋繁露』ではこの郊祭諸篇以外では郊祭についてまとまった記述をしているところはないが、「王道」に「郊天祀地」、立元神に「郊祀致敬」、三代改制質文に「郊牲」「然後郊告天地及群臣」「夫妻昭穆郊祭別位」という言い回しがある。
筆者が調べた範囲では、この郊祭諸篇以外では郊祭と父母の喪を合わせ論じているところは他にはない。
 『漢書』礼楽志の顔師古注では「辛は、斉戒自新の義を取るなり」とあり、また『釈名』釈天にも「辛は新なり」とある。
『春秋穀梁伝』哀公元年「我、十二月の下辛を以て正月の上辛を卜す」
時代分けは以下の通りである。
   一、高祖から景帝まで
   二、武帝
   三、宣帝・元帝
   四、成帝以後
年表の前二〇五年・一九七年の条を参照。
『漢書』文帝紀「子弘らは皆孝恵皇帝の子にあらず、まさに宗廟を奉じるべからず。……大王は高皇帝の子なり、宜しく嗣たるべし」
10 『漢書』郊祀志では本来は秦以来の「雍四畤」があり、更に高祖の時になって「乃ち黒帝の祠を立て、名づけて北畤と曰ふ」とあるように五つとなったとある。この五つは同じく郊祀志の文帝時代の記述では「文帝始めて雍に幸し、五畤を郊見す」とある。
11 年表の武帝一三三年の条の二項目を参照。
12 年表の武帝一三三年の条の三項目を参照。
13 例えば年表にはない一〇五年にも「行幸雍。祠五畤」が行なわれたものと思われる。
14 『漢書』郊祀志「後、上、継嗣無きの故を以て、皇太后に令し有司に詔して曰く、……今皇帝は寛仁孝順、奉循聖緒にして、大愆有るなきも、久しく継嗣無し。その咎職を思はば、殆ど南北郊に徙し、先帝の制に違ひ、神祇の舊位を改め、天地の心を失ひ、以て継嗣の福を妨ぐるに在らん」
15 年表の成帝の最後の条を参照。
16 年表の哀帝の最初の条を参照。
17 今回対象とした『春秋繁露』郊祭諸篇のうち「郊事對」の一篇は皇帝から遣わされた張湯が董仲舒に郊祭について意見を求めるというスタイルを取った対話篇になっている。
18 『春秋繁露』巻十六に「求雨第七十四」及び「止雨第七十五」があり、この篇では各季節ごとに雨乞いの祭祀のやり方が説かれているが、その衣装の色、方角などすべて一般に言われている五行の配当に因っている。
19 『春秋繁露』あるいは董仲舒と五行との関係はこれまでかなり議論なされたが、ここではあえてそれに立ち入らない。もちろん『春秋繁露』全体で考えてみた場合に、その中には五行を扱った篇も数多く含まれており、今回問題とした郊祭諸篇に五行の思想がほとんど見えないのは、決して偶然ではないと思われる。ただし郊祭諸篇について言うならば、そこに五行を持ち出す必要性は感じられない。
20 東洋大学春秋繁露研究会ではここ数年来、毎年「大学院紀要」と「中国哲学文学科紀要」に成果を「注釈稿」として発表している。過去に発表したものは以下の通りである。
   注釈稿(一)  大学院紀要二八集(一九九二)
   注釈稿(二)  大学院紀要二九集(一九九三)
   注釈稿(三)  学科紀要創刊号(一九九三)
   注釈稿(四)  大学院紀要三十集(一九九四)
   注釈稿(五)  学科紀要第二号(一九九四)
   注釈稿(六)  大学院紀要三一集(一九九五)
   注釈稿(七)  学科紀要第三号(一九九五)
   注釈稿(八)  大学院紀要三二集(一九九六)
   注釈稿(九)  学科紀要第四号(一九九六)