ヤルタはウクライナにあった

このところのウクライナ情勢が気になります。

別に知り合いが住んでいるとか、ウクライナにあたし自身が行ったことがあるとか、そういうわかりやすい理由があるからではありません。あえて言えば、何も知らない、たぶん、今回の騒動が起きるまでは、白地図を出されて「ウクライナってどこ?」と聞かれても正しく指し示すことはできなかったでしょう。

もちろん、ウクライナという国があることは知っていますし、あたしの勤務先ではウクライナ語の参考書を出していますから、まるっきり縁がないというわけではありませんが、逆に言えば、そのくらいの縁しかないとも言えます。

黒海に面している国なんですよね。日本人にとってはヤルタ会談が一番有名ではないでしょうか? もちろん日本史が苦手な人はヤルタが地名だとすらわからないのかもしれませんが(汗)。そして、ちょっと前にテレビでやっていたドキュメンタリーで見たのですが、オデッサという街がとても美しいところだと思いました。歴史もあって魅力的な街だと感じました。

そもそも黒海がロシア帝国とオスマン帝国に挟まれ、世界史の舞台となってきた場所ですから、日本人はどうしてもロシアや東欧というと馴染みが薄いですが、世界史という目で眺めれば実に興味深い土地なのだと思います。機会があれば行ってみたいところです。

そんなウクライナ、西側がウクライナ語を使う親ヨーロッパな地域、東側がロシア語を話す親ロシアな地域という、なかなか根深い対立を抱えて混んでいるようです。どんな風に決着するのかわかりませんが、しばらく興味深く眺めたいと思います。

賛否両論?

寒いので自宅に籠もって映画鑑賞。

いや、寒くなくても引き籠もっているわね、あたし。

それはともかく、市川由衣主演のホラー「サイレン」です。

映画の雰囲気としてはホラーなんでしょうけど、怖いところはないですね。心理サスペンスとして見るべきなのかもしれません。ホラーゲームが原作と言うことですが、ゲームをやらないのでそちらは知りませんが、ネットのレビューを見るとオリジナルのゲームファンから数々の苦情が寄せられていますね。堤監督なんですが、こういうのは不得手なのでしょうか?

最後のオチは、まあこの十数年の映画を振り返ればありきたりな真相です。だとしても不可解な点、謎のまま残っているところなどがあるのは、これまた多くのネットのレビューにあるとおりです。

おどろおどろしい、ホラーならではの映像美、というか恐怖もほとんど感じられず、ヒタヒタと迫り来る恐怖が感じられません。島民のけだるさも怖いのかと問われれば、不気味なだけとしか答えようがないです。

で、肝心の市川由衣です。

これまたレビューでは散々な言われようですが、そんなにヒドかったでしょうか? あたしは由衣ちゃん好きなので、ひたすらカワイイなあと思ってみていたのですが、確かにホラーもののヒロインとしては芯の強さを感じるわけでもなければ、鬼気迫るものも感じられず、レビューの意見もごもっともなのですが、これは彼女の演技力なのか、そもそもの企画自体のミスなのか、という問題なのではないかという気がします。

市川由衣ちゃん自身は「呪怨」など、これまでホラー作品にはよく出ていたので、脚本と演出さえしっかりしていれば、ホラーとか影のある役、ちょっと狂気を帯びたような役は似合うと思うのですが……。本作でも、あたしの理解が正しければ、この後、市川由衣は島民全員を血祭りに上げるわけですよね。

 

LOVE LETTER

もうじき読み終わる『危険な関係』には歯の浮くような台詞が満載です。ただ、ヴァルモンの言葉には心がなく、白々しいものを感じますが、ダンスニーの言葉は本当に読んでいるこちらが身悶えしてしまうようなものが多々あります。そんな中から一つ。

お目にかかれる幸福なときを待ちわびながら、このお手紙をつづる楽しさに浸りきっています。あなたのことを考えて、あなたから遠く離れている悲しみを和らげているのです。あなたに僕の気持ちを書き記し、あなたの気持ちを思い返してみるのは、この心にとって真の喜びなのです。そしてそのおかげで、こんな会えない時間でさえもが僕の恋に対し、無数の貴重な宝物を与えてくれるのです。(第百五十の手紙)

思い出します。

「会えない時間が、愛、育てるのさ。目をつぶれば、君がいる」とは郷ひろみ「よろしく哀愁」の歌詞の一節ですが、これは永遠の真実なのですね。

ソチよりも寒い

東京が雪に弱いのは今に始まったことではありませんが、今年の雪は例年以上の記録的なものですから、ちょっと郊外のニュース映像だけを見ていると東北や北陸の豪雪地帯の映像ではないかと思えるほどの量になっています。決して東京だけでなく、山梨など首都圏全体がかなりの被害に遭っています。既に物流が寸断され、スーパーやコンビニには商品が入ってこない、宅配便が届かないといったことも起こっています。

こうなると、事態は東京は首都圏だけの問題ではなく、日本全体に関わってくるというもの。それなのに、テレビのトップニュースはソチ五輪。特にここへ来てようやく日本人選手がメダルを取るようになってきたので、どの局も争うようにソチ五輪のニュースを伝えています。

巨額のスポンサー料を払ったわけですから、視聴率を稼がないと元が取れないということなのでしょうか? それでももう少し雪害のニュースに時間を割いてもよいのではないか、そんな気がします。確かにメダルを取ったというニュースも日本人に元気を与え、世の中を明るくしてくれますから、これはこれで大事なニュースでしょう。でも、メダルの期待がかかっているのはわかりますが、浅田真央の公式練習のニュースまで時間を割いて流す必要性ってあるのでしょうか? あくまで練習ですよ!

日本のマスコミって、こういうことに限らず、物事の優先順位の付け方がかなりずれているような気がします。

誤植でしょ?

柴田元幸さん編集の雑誌「MONKEY Vol.2」に、翻訳家・岸本佐知子さんのエッセイが載っています。今回のテーマは上海。かつて友人と上海を訪れたときの想い出が語られています。

上海と聞いては読まずにはいられませんので、店頭で立ち読み!(←買えよ!)

ただ、ちょっと気になった点が二つ。

まずは「友誼商店」。

かつての中国は外国人用の紙幣と中国人用の紙幣というのがあって、額面は同じで買い物をするときも同じ値段で使われるのですが、闇市場ではその価値にかなりの差が開いているという時代がありました。まだまだ自由な外国人旅行者が少なかった時代、外国人は外国人向けの商店、デパートで買い物をするというのが通り相場で、それがこの「友誼商店」でした。確かに、中国人向けの商店の粗悪でみすぼらしい商品に比べ、それなりの商品が揃っていた記憶があります。当時、北京では大使館街に、上海では南京路からちょっと入ったところに位置していました。

で、岸本さんのエッセイにも上海の友誼商店へいった話が出てくるのですが、「誼」の字が「さんずい」に「宜」という、いかにもパソコンで作字したようなおかしな形の漢字が使われていました。きっと岸本さんの手書きのメモか、当時撮った写真の文字を再現したのでしょう。でもこれ間違っています。「さんずい」に見えたのは中国語簡体字の「ごんべん」です。実際の文字は「谊」という形だったはずです。中国語を習ったことのない日本人が「ごんべん」の簡体字を「さんずい」と見間違えるのはよくあることです。

次にパンダのこと。

「パンダ」でもなく「大熊猫」でもなく「シェンマオ」だったと書いてありますが、「シェンマオ」とは「熊猫」の部分の中国語発音です。もう少し正確に(?)カタカナ表記するとすれば「シオンマオ」でしょうが、「シェンマオ」でも構いません。いずれのせよパンダのことです。ですから、パンダのことで間違いないのです。あえて「大熊猫」と言いたければ「ターシェンマオ」です。

それにしても、岸本さんのエッセイに出てくる上海、いまの上海とはまるっきり異なる、あたしの感覚としては「古き良き」が残っていた最後の時期ではなかったかと思います。この当時、いまで言う「浦東」地区へ渡っても何もなかったはずです。岸本さんは黄浦江遊覧フェアリーに載ったようですが、あたしは黄浦江を渡る渡し船に乗ったことがあります。上海には明治以来多くの日本人が渡っていますが、たいていは日本から船で渡航し、この上海のバンドにたどり着いたと思われます。(大型船の場合、もう少し河口に近いところに停泊したこともあったようですが……) そんな当時の日本時の大陸雄飛のロマンを感じるには黄浦江の上からバンドを眺めるに限ります。あの街並みはなんとも言えないものです。

 

月に代わってお仕置きよ!

帰京しました。

関西はそれほどの雪にはならなかったのですが、それでも大阪の人は「こんなに降るなんて」と語り、京都の人は「今回はあまり降らなかったね」と言っていました。いずれにせよ、東京を初めとする首都圏が桁違いだったことはホテルのニュース映像で知ってはおりましたが……

で帰りの足。

今日は降っていないので新幹線は大丈夫だろうと思っていましたが、案の定、問題なかったです。新大阪に5分ほど遅れて到着したのは途中の駅で急病人が出たためだとか、新横浜に着く頃には取り返していましたので東京にも定刻の到着でした。中央線は間引き運転のようでしたが、特に遅れることもなく順調。ここまで来れば大丈夫と思った矢先、落とし穴が。

なんと中央線の駅からのバスがないのです。雪道が危険のため本日は全便運休していますという貼り紙がバス停のポールに貼ってあるではないですか! えーっ、ふつう電車は止まってもバスは動いてるでしょ? というのが常識だと思っていたあたしがバカだったのか……

仕方なく最寄り駅から徒歩です。

タクシーは既に20人以上が並んでいるような乗り場に一台も止まっていません。続けざまに来そうな気配もないです。この雪ではタクシーの運転手も運転が怖いでしょう。歩くしかないと覚悟を決め、自宅までの約30分間、夜道を歩きました。十六夜の月が皓々と、空からあたしを笑っていました。

チクショー! 気王バスのバカヤロー!

 

ガイブン蟻地獄

今日から出張です。土曜の晩に帰京予定です。その行きの新幹線で手持ちの本を読み終えてしまったので、大阪に着いてまずは書籍の調達。

何を選びましょうか?

ところで、このところ寝しなに毎晩『危険な関係』を読んでいます。たぶんそれが影響したのでしょう。現代新書の『フランス文学と愛』を買いました。

移動の車中で読み始めましたが、ダメです。野崎さんが紹介する文学作品、片っ端から読みたくなります。これでは時間とお金がいくらあっても足りません。

まさしく蟻地獄。抜け出せません。読みたいと思った本を全部読み終われば、蟻地獄から抜け出せるのでしょうか? いや、たぶん読み終わったと思った時には、また次の読みたい本が壁として立ちはだかっているのでしょう。

でも、いま「壁」と言いましたが、そんなに嫌な壁ではありません。心地のよい囲われ方です。それにこの蟻地獄の底には虫は棲んでいないはずですし!

売れるから……

Facebookにも書きましたが、朝日新聞に、嫌中憎韓本が書店店頭を席巻しているような記事が載っていました。こういう本ばかり並べるのはどうかと思うが売れるから、という書店員のコメントも載っていましたが、「売れるから」という理由だけで本を並べていてもいいのでしょうか?

いや、資本主義社会なのだからそれでよいわけで、それが正しいのでしょう。

だったら、出版は文化だ、みたいな言説は即刻やめるべきだと思うのですが、そういう態度を選択するわけでもなく、一方で知的営為のような顔をしつつ、しっかり儲けに奔っている、そんな底の浅さが見え隠れしています。

別に書店だけを非難するつもりはありません。そもそも本を出している出版社があるわけで、それだって「売れる」というからには「読者のニーズ」というものが前提になっているはずですから、巡り巡って、結局一番悪いのは読者ということになるのでしょうか?

確かにそうでしょう。でも、やはり書店が地域の文化的な核であると言うのであれば、入荷した本をただ並べるのではなく、そこに文化の核としてのフィルターをかけてやるくらいのことはしてもよいのではないか、そう思います。ですから、思いっきり「嫌中憎韓」に偏った本ばかりを並べるというのも、その書店としての主義、主張、信条に基づくのであれば致し方ありませんが、もう少しバランスを取るような書店が増えてもよいのではないかと……

でも、フィルターをかけようにも、勝手に取次から入ってくるから、という側面もあるのでしょうね、いまの出版界には。それでは書店としては、入ってきた以上並べるしかない、ということになるでしょう。出版社もいたずらに嫌中憎韓本ばかり出していて、文化の一端を担っているという矜持はないのでしょうか、と出版社の人間として天に唾するようなことを言っているわけですが(汗)。

しかし、安倍自民党政権の右傾化などと言われますが、出版社も嫌中憎韓本ばかり出し、それらばかりを並べる書店があり、そういう本を好んで買っていく読者がいる。つまりは国民全体が右傾化しているんですよね。先日の国際会議で安倍総理が現在の日中両国を第一次大戦前の英独両国にたとえたりしていましたが、気づいたら戦前のような社会になっていた、ということになりかねない、そんな気がします。

少なくとも昨今の選挙などで示された民意を見ると翼賛化していることは紛れもない事実のような気がします。

司馬遷と百田尚樹

違和感のあるタイトルですが、最近の百田尚樹に関するいろいろな人の発言を見ていると、作品と作者の関係について考えさせられます。大ヒットしているらしい映画「永遠の0」についても、あたしは見ていなし、原作も読んでいないので意見を言えるような立場ではありませんが、それでも岡田准一、井上真央といった人気訳者二人が主演で特攻隊の映画であるとくれば、作者がどんなに戦争反対、平和が大事と主張しても、あの時代を美化しているように思われてしまうのも仕方ないのではないかと思います。

今回の映画に限らず、安倍と仲が良いという時点で、あたしは虫が好かないのですが、個人的な主義・主張や信条と作品は切り離して考えるべきなのか、それとも一体と見なすべきなのか、難しいところです。どんなに作者が嫌いでも、素晴らしい作品なら、それはそれで評価しようという意見にも一理あると思いますし、作品には作者の人柄がにじみ出るものだから決して切り離せないという意見にも大きくうなずいてしまいます。

そんなことを考えていて思い出したのは司馬遷の言葉です。

司馬遷と言えば中国の古典中の古典、『史記』の作者です。紀元前100年くらいのころに生きていた人です。時の皇帝・武帝の怒りを買って宮刑に処せられ、それでも生き恥さらして(←泰淳を思い出しますね)『史記』を完成させた歴史家です。『史記』が歴史書なのか、はたまた司馬遷の小説なのか、この「小説」というのは現代の小説と意味ではなく、歴史書が客観的で公正なものであるという建前に対し、『史記』が司馬遷の歴史観を色濃く反映している作品であるという意味でやむなく使った単語です。

その司馬遷には「任安に報ずるの書」という文章があります。「任安」とは人の名前で「ジンアン」と読みます。有名なエピソードなので知っている方も多いと思いますが、当時の漢帝国(世界史で習ったところの前漢)は北の異民族・匈奴(きょうど)との死闘を繰り返していました。長らく漢の方が劣勢だったのですが、武帝の時代になり、漢の国力がついてくると有能な将軍も輩出し匈奴を打ち破るようになってきました。そんな漢側の大将の一人・李陵が匈奴の大軍に囲まれ降伏するという事件が起き、武帝が烈火の如く怒ります。君側の重臣たちは武帝におもねり李陵を非難するのですが、司馬遷だけは李陵は立派に闘いやむを得ず降伏したのだと弁明したため死刑を宣告されるのです。

本来ならこのまま死刑になるところ、司馬遷には父親の遺言によって古代から現代までの歴史書を仕上げるという一族の使命があり死ぬわけにはいきません。そこで死刑をあがなう手段として宮刑に処せられるという方法を選んだのです。男子にとって求刑とは男子でなくなることですから屈辱的な刑罰です。それでも歴史書を完成させるためには他人からなんと言われようと生きながらえなければならない、というのが司馬遷の思いだったわけです。

その後、時間をおいて、そんな気持ちを友人の任安に伝えた手紙が「任安に報ずるの書」です。『文選』(←「もんぜん」と読みます)に収録されていますので古代から日本人にもかなり知られている文章です。ここで、ようやく百田尚樹の話からつながるわけですが、この手紙の中に作品と作者の関係について有名な一節が載っているのです。大意だけを紹介しますと、

「周の文王は囚われの身となって『周易』に説明を付し、孔子は災厄に遭って『春秋』を作り、屈原は放逐されて『離騒』を賦した。また左丘明は視力をなくして『国語』を編み、孫子は脚を斬られて『兵法』を整えた。呂不韋は蜀に左遷させられて世間に『呂覽』が伝わり、韓非は秦に囚えられて「説難」「孤憤」という文章を作った。『詩経』三百篇はおおむね聖人や賢者が発憤して作ったものであり、すべて人の思いがそこに凝縮されているのである」

中国古典に不案内な人にはちんぷんかんぷんな文章かもしれませんが、古典作品はどれも個人の熱い思いによって作られているのだと言うことを述べ、自分の歴史書も司馬遷一族が受け継いできた歴史的な使命がそこに宿されているのだという表明です。こういう文章を学生時代に読んできた人間には、やはり作者が嫌いだと作品も嫌いだし評価もしないという結論に行き着いてしまうのです。

あたし、身悶えてます

毎日少しずつ『危険な関係』を読んでいます。

映画こそまだ見ていないのですが、コミックの方は既に読んでいるので、おおよそのストーリーはわかっております。なので、比較的スムーズに読んでいけます。

 

放蕩者であるヴァルモンの手紙は、嘘偽りで塗り固められているとはいえ、それでもよくもまああんなセリフが次から次へと出てくるものだと敬服してしまいます。あんな言葉を囁かれたら、たいていの女性は堕ちるのではないか、そんな気がします。一方のダンスニーはうぶです。本当にまだるっこしい感じがして、あと一歩を踏み込めないでいます。

でも、そんな恥じらい、勇気のなさ、それでも一途な気持ち、すべてが共感できます。しばしば本書を読みながら、わが身に置き換えて悶々としております。あたしのセシルは誰? いまどこにいるの? そんな気持ちです。

結末がどうなるのか、コミックで知っているわけですが、それでもさすがの文章力です。そんなことを感じさせずに、ぐいぐいと引き込まれてしまいます。ただ、上流階級がこんなことばかりにうつつを抜かしているからフランス革命が起きてしまうんだろうなあ、とも思うのです。