物流崩壊?

出版界に限らず、今年は物流・配送が限界に来ているというニュースをしばしば耳にしました。

そのせいなのかどうなのか、詳しい事情は知りませんが、この数ヶ月、あたしの住んでいる地区の市報が、新聞の折り込みではなく、別途配達に切り替わりました。それまでは日曜日だったと思いますが、時々新聞と一緒に折り畳んで配達されていたのですが、最近は市報だけがポストに入っています。

新聞折り込みにするということは、たぶん新聞配送所に規定の料金を払って挟み込んでもらっているのでしょう。これを個別配達にすると、その料金を節約できるのでしょうか? しかし、市職員が配達しているとは思えませんので、近所のおじいちゃんやおばあちゃんが暇に任せて配って歩いているのだと思われます。ボランティアなのでしょうか? 少しは、お小遣い程度は市から出ていますよね? それでも新聞折り込みよりは安いのでしょうか?

費用だけでなく、新聞折り込みよりも個別配達の方が目立つので、しっかり読んでもらえる、という効果も期待されているのかも知れません。確かに、ポストを覗いて「あっ、市報が入ってる」と気づきますから。ただ、じっくり読むのかと問われると……(汗)。時々大事なお知らせも載っていたりするのですけどね。

で、その市報なのですが、この時季ですと、例年、元旦の分厚い新聞の中に、やはり折り込みで市長の挨拶や市議会議長の挨拶が掲載された市報が配布されていましたが、今年は昨日、その市報が配布されていました。

あらあら、正月の挨拶が載っているのに年内に配達されちゃったけど、いいのかしら?

年賀状が年末に配達されてしまうようなものです。市役所には苦情の電話や問い合わせが殺到しているのでしょうか? いや、もう仕事納めだから電話をしても誰も出ませんかね?

それにしても、たぶんあたしの住んでいる地区を担当しているおじいちゃんかおばあちゃんが、元旦に配達すべき市報をうっかりと、さっさと配ってしまったのではないかと思われます。そんなおじいちゃん、おばあちゃんを責める気は毛頭ありませんが、もしかして、あたしの住んでいる市全域で昨日配布するように市役所から指示が来ていたのでしょうか?

自分でも理由はわかりませんが

さて、今日から年末年始の休暇です。

毎年のことですが、どこにも出かけることなく、自宅でのんびりと過ごすつもりです。

いや、妹家族が来ているので、のんびりと、というわけにはいきませんが……

そんな年末年始、東京以外ではどうなのかわかりませんが、テレビの情報番組などを見ていますと、この時季、必ず上野のアメ横からの中継があります。師走の賑わいをリアルに伝えようということなのでしょう。ほとんどどの局、どの番組もアメ横から中継しています。

あたし、小さい頃から、あのアメ横の中継、嫌いでした。

小さい頃、必ずだったのかは覚えていませんが、暮れになると新巻鮭を買いにアメ横へ家族で出かけていた記憶があります。買った鮭をどうしていたのか覚えていませんが、たぶんどっかへお歳暮として持って行ったりしていたのだろうと思います。

幼心に、あたしはアメ横の喧騒、人の多さ、子供には不愉快なダミ声の呼び込み、すべてが嫌いでした。こんなところに来たくない、早く家に帰りたい、そればかりを考えていた記憶があります。

たぶん、テレビのアメ横中継を見ると、そんな小さい頃の悪夢が蘇ってくるのでしょう。

家族でアメ横へ出かけなくなったのはいつの頃からでしょうか? そんなことも覚えていませんが、とにかく混雑しそうなところへは出かけない、というのが小さい頃からのポリシーのようなものになっています。

韓国人にとって鯨はどういう意味を持つのだろう?

先日、チョン・ミョングァン『』を読みました。

主人公クムボクの人生に鮮烈なイメージを残した生物としての鯨や鯨のような建築物が小説中に登場します。また直接的な表現こそないものの、クムボクの夫となったシンパイやクムボクの娘の巨大さには鯨のイメージが投影されているようにも感じられます。

韓国人にとって(この場合は「朝鮮人にとって」と表現した方がよいでしょうか?)、鯨というのは何かしら共通するイメージと言いますか、象徴的な意味を持つ動物なのでしょうか?

そう考えますと、韓国映画には「鯨とり」という作品がありましたね。

鯨とり 対訳シナリオで学ぶ韓国語』という、シナリオを通して韓国語を学ぶ参考書を、あたしの勤務先でも出しています。

この映画は別に鯨とりを生業とする漁師の話というわけではありません。それなのにタイトルは「鯨とり」です。

作品を見たわけではないので詳しいことはわかりませんが、やはり鯨に何かしらの意味があると考えるのが普通だと思いますが、その何かしらの意味がわかりません。

韓国人も日本人と同様、鯨を食べると聞きますが……

さすがに空いてきた

今週に入って、朝の通勤電車の混雑がいくぶん緩和されたような気がします。大学生や高校生などが休みに入ったからでしょうか?

そうなると、今度は逆に大きな荷物を持った母親と子供、一足早く旦那を残して帰省する親子連れなどが増えてきたりするのですが、今年に関してはまだほとんど見かけません。もちろん、友達同士、恋人同士で旅行に行くような大きな荷物を抱えた人も見かけません。

明日は金曜ですし、ほとんどの起業で仕事納でしょうから、明日は勤務先からそのまま旅行へ向かう人も多いのでしょうか?

朝の通勤電車だけでなく、今日の午前中は見本出しだったのですが、街を歩く人の数も、道路を走る車の数もグッと少なくなっているように感じました。やはり、徐々に休みに入っているのでしょうか?

さて、明日はどうしましょ?

天然なのか計算なのか?

女の子がやると可愛く見える仕草というものがあります。

たぶん、見る人によって可愛く見えるのか否か、評価は分かれるところでしょうし、可愛い子なら何をしても可愛く見える、という面はあるかと思います。

左の写真は、乃木坂46の三期生、大園桃子が少し前に、とあるテレビ番組に出演した時の画面キャプチャです。司会者から質問されて「えーと、えーと」という感じで答えを必死に絞り出そうとしている場面です。

ネットでは「自然とこのポーズができるなんて可愛い」という意見があふれていましたが、いかがでしょうか? あたしは可愛らしく見えましたけど……

そんな場面があったと思っていた矢先、二枚目の写真です。こちらは、けやき坂46の二期生、丹生明里です。こちらもテレビ番組のワンシーン。いみじくも、同じポーズをとっています。こちらも、ネットではファンの間で可愛いと大絶賛が巻き起こったシーンです。

こういうポーズをする女の子を見て、「カワイ子ぶっている」と非難する女性も少なからずいるようですし、男性の中にも推しではなかったりアンチだったりすると文句を言う輩がおります。実のところどうなのでしょう? 番組を見た限り、二人とも狙ってやっているという感じではなく、ごくごく自然に手が行ってしまっているように見えますが。

もちろん、二人とも現役のアイドルですから、テレビに出ている時や人前では「自分はアイドルなんだ」というモードになっているでしょうし、いわゆるオンの状態だと思うので、そういう意識がなせる業なのかも知れません。

ただ、まあ、桃子の場合、いまだに鹿児島の訛りが抜けきっていませんし、そもそも加入するまで乃木坂46を知らなかったという逸材ですので、このくらいの天然さは備えていたのではないかと思われます。

中世とはいつからいつまでか?

来年、ちくま新書で『中世史講義 院政期から戦国時代まで』という新刊が刊行されるようです。ちょっと気になります。刊行されたら読んでみたいと思っています。

ところで書名は「中世史講義」となっていますので、日本の中世を扱った通史のようなものだろうと予想できますが、副題が「院政期から戦国時代まで」とあります。扱っている時代を具体的に書いてくれているわけですね。ありがたいです。

あたしは、細かな日本史の時代区分について学界の見解がどうなっているのか知りませんが、漠然と平安までが古代、鎌倉・室町が中世、戦国から江戸が近世、明治大正昭和初期が近代、戦後が現代と意識しています。若干の相違はあっても多くの日本人もこんな感覚では無いでしょうか。

で、疑問が一つ。

この中世とか近世、近代っていつまで使われ続ける概念なのでしょう? 戦後が既に70年を超え、若い人の感覚では昭和時代が「現代」とは思えないのではないでしょうか? となりますと、平成以後が「現代」ということになるのでしょうか? では、そうなると戦後の昭和はどうなるのでしょう? 「現代」から「近代」に変更になりますか? そうなると明治大正昭和初期が「近世」になってしまうのでしょうか?

古代や中世、近世が数百年単位で数えられていることから考えれば、戦後が70年程度で「現代」ではなくなるのは言いすぎかも知れません。でも、今はともかく、50年や100年たっても現代の時代区分は変わっていないのでしょうか?

商売柄、書店店頭で人文の世界史のコーナーと社会の海外事情のコーナーをしょっちゅう行ったり来たりしているので、ふと、そんなことを考えてしまいました。

鯨はあまりにも大きかった

』読了。ちなみに、この作品で晶文社の《韓国文学のオクリモノ》シリーズはコンプリートです。

それにしても、最後の最後に超弩級の作品が待ち構えていましたが、長さを感じさせない物語でした。そして「二組の母娘の物語」と気軽に紹介してしまうにはあまりにも壮大かつ悲しすぎました。

物語の中で流れる時間は100年にも満たないでしょう。ラストの時間はほぼ現代、現在です。つまりは韓国の現代史なわけです。伝統的な韓国に生きる女性の悲哀、しかし、それでも強く生きる女性たちの生き様、そんな風にまとめてよいものか、ちょっと躊躇ってしまいます。それほど一筋縄では言い表わせない作品でした。

母娘が二組出てくるとはいえ、よりスポットが当たっているのはクムボクとチュニの母娘ですが、成功物語でもなければ、ハッピーエンドでもありません。あえて言えば「盛者必衰」とでも言えましょうか。ただそれも、それなりの成功を収めたクムボクには当てはまると言えますが、チュニには当てはまりそうにありません。

著者はこの不幸な娘たちに安易なハッピーエンドを与えず、孤独の中で死に至らせる。それどころか生まれて間もない生命さえ死んでしまうのだが、悲惨さだけが残る感じがしないのは、チュニや一つ目を語る際にあふれ出る著者の優しさのためだろうか。

とは「訳者あとがき」にある言葉です。確かに悲惨さだけが残るわけではありませんが、だからといって希望が持てるような書きぶりかと問われれば、頷くことはできません。彼女たちの生き様は悲しすぎます。

せめてもの救いは、チュニは苦痛を感じることはできても、不幸を感じることはできなかったのではないかと思われる点でしょうか。母のクムボクは社会的な成功を収め、使い切れないほどの大金も手にし、自分の欲望に正直に生きた女性ですが、どこか幸せになりきれない影を引きずっています。

それに対して、いわゆる知的障害のあるチュニは、そういった世間の評価基準の外に生きているわけで、その人生は筆舌に尽くしがたい苦痛に何度も見舞われるのですが、幸不幸という判断基準を持っていない、理解できないことがささやかな幸せなのかも知れません。でもそれではあまりにも悲しいです。

ところで、最後にチュニは、恐らく彼女の人生で唯一の理解者であり友達だった象のジャンボの背中に乗って天高く昇っていきます。その場面は、テレビアニメ「フランダーズの犬」の最終回、ネロがパトラッシュと共に天使に導かれて昇天していく場面を彷彿とさせるものでした。そんな風に感じたのはあたしだけでしょうか?

安くならない理由の一つ?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

何でもかんでもろくに議論せず強引に通してしまう自民党・安倍政権。その弊害がこんなところにも現われているようです。

著作権の保護期間が延びることによって、原作者の子孫に金銭的なものが残せる、と言われますが、それなりの金額の著作権が、死後何十年にもわたって毎年発生するほどの原作者がどの程度いるのか、実際にはほとんどいないと聞きます。

その是非はともかく、あたしの勤務先のような出版社からすると海外の作品を翻訳出版する時にどうしても価格が高くなってしまう理由の一つになります。このと十数年目につく「古典・名作の新訳」も著作権が切れていればこそ各社が競って刊行できるわけで、なおかつそれほど高い価格にならずに作ることもできます。

それが延長されてしまうと、「来年には著作権が切れるから新訳を出そう」と考えていた出版社としては尻込みしてしまいますよね。寿命が延びているからというのも、延長の理由としてそれほど有効なのか、あたしは疑問を感じます。

光り輝く少女たち

前のダイアリーでは『トラペジウム』のタイトルの意味に着いてまでは筆が進みませんでしたので改めて……(汗)

ググっても構いませんが、「トラペジウム」の意味は、①不等辺四辺形、②オリオン星雲の中にある四つの重星、です。

主人公を含めた四人の少女たちを四辺形のそれぞれになぞらえつつ、光り輝く星たちというのが、キラキラ輝いている(ように見える)アイドルに重ねられているのでしょう。

ところで、主人公たちが最後に4人で見る写真のタイトルが「トラペジウム」で、そこには高校時代の4人が写っているのですが、もう一人、ボランティアで知り合った足の悪い少女も写っているはずです。そうなると4つの角を持つ四辺形ではなく五角形になってしまいます。

もしかして足の悪い少女のが写っていない、四人だけの写真だったのでしょうか? しかしストーリーを追う限り、5人で写真を撮ってもらっていたと思うのですが、あたしの勘違いでしょうか?

『トラペジウム』に5人目はいるのか?

乃木坂46の高山一実のデビュー作品『トラペジウム』読了。

主人公は高山自身を多少ダブらせているところはあるのかな、という気もします。その主人公が、自分の住む町の東西南北の美少女を集め、アイドルとしてデビューしようとする物語です。

房総半島突端の田舎町に、そうそう都合よく美少女が東西南北にいるものだろうか、という疑問はさておき、見事に見つけて仲良くなった主人公はあの手この手でアイドルになるべく、世間に認知してもらうべく奮闘します。

このあたりのプロセス、アイドルを夢見る中高生には共感を持って読まれるのでしょうか? ただかなり稚拙で杜撰な計画です。とはいえ、そこは小説なので、トントン拍子とは言えないまでも、そこそこ主人公の予定どおりに事は運び、見事に歌手デビューのチャンスをつかむ主人公たち4人組。

が、どうなのでしょう? ここまで主人公のアイドルになりたいという夢のため、そんなことはまるで予想もしていない他の3人が利用されているわけです。主人公は最後まで自分の夢のために仲間を引きずり込んだ、利用したということを打ち明けません。その邪さが、もしかするとよりリアルで本作の魅力になっているのかも知れません。

結局、さあデビューだ、これからアイドル人生が始まる、という土壇場で仲間三人はアイドルになることを望まず、主人公から離れていきます。このあたりからの展開がちょっと速くて、主人公は結局一人で再びアイドルへの夢を追いかけ、それを手に入れたようです。ちょうど作者・高山一実と同い年くらいになっている十年後、四人が再び集まります。そして友人の写真を見に行き、「トラペジウム」というタイトルの作品を眺めて終わります。

なんか、食い足りない気分の残る作品です。いや、よくかけていると思うし、ありがちな仲良し四人組のサクセスストーリーをひとひねりしているところは巧いと思います。

でも、上述したようにアイドルデビューのところからの展開がちょっと速く、そこをもう少し掘り下げてもよかったのかな、主人公はその後どうやってアイドルになれたのか、アイドルへの道を降りた三人がその後どういう人生を歩んだのか、もっと知りたいと思いました。まあ、ここで四者四様の生き様を作品にするのは作者の経験や現在の忙しさからすると無理かも知れません。いい加減連載が長くなってきて、編集部からそろそろまとめてくれと急かされて強引にエンディングに持っていたような印象を受けます。