池袋のリブロの想い出

今日で池袋のリブロが閉店なんですよね。暑い中、業界関係者がたくさんお店を訪れているのではないでしょうか? もちろんリブロを長年利用してきたお客さんも。

ところで、リブロが特徴ある書店として一世を風靡したということは、あたしの場合、この仕事に入ってから知りました。いわゆる「今泉棚」と称される人文書コーナーも、社会人になって以降に知ったことです。

言うまでもなく、あたしが非常に若くて、リアルタイムでそういう時代のリブロを知らなかったと言いたいのではありません。むしろ逆です。

あたしが大学に入学したのが1986年4月ですから、まさしくリブロが輝いていた時代(←決して、いまのリブロが輝いていないと言うつもりはありません)にあたります。そしてその当時のあたしは朝霞台にある東洋大学の朝霞校舎(当時は文系の1年生、2年生が利用)に通うため毎日池袋を通っていたのです。ですから、その当時のリブロにどっぷりつかることはできたはずなのです。にもかかわらず、当時の通学の、行きはともかく、帰りにリブロに立ち寄ったという記憶はありません。帰りにリブロに寄っていこう、という感覚すら持ち合わせていなかったというのが正直なところです。

いま振り返ってみて、なんでリブロに寄ることがなかったのか、自分でもよくわかりませんが、あえて理由を考えてみると、その当時流行していたという「ニューアカ」などにまるで興味を持っていなかったから、というのが一つの理由ではないかと思います。リブロが話題になるときに(当時のあたしはほとんど蚊帳の外にいたので付け焼き刃的な知識ですが)、しばしばニューアカなどの潮流が言及されます。ですから、そういうものに関心のあった人たちにとって池袋のリブロは聖地だったのでしょうし、日参が欠かせない書店だったのか知れません。

しかし、やはりいま考えてみると、そういうところに興味があった人というのもごくごく一部の人でしかなく、もちろん大学のレジャーランド化が言われて久しい当時、あたしの周囲に「帰りにリブロに寄っていこう」と声をかけてくるクラスメートは皆無で、一部の人にとっての聖地でしかなかったのだろうなあ、と思います。とはいえ、そういう状況、「諸学の基礎は哲学にあり」をモットーにしている東洋大学生としては寂しい現実でもあります。本来、哲学を学ぶ東洋大学生であれば、もっと関心を持ち、リブロに行っていてもよさそうなものを。いや、あたしが知らないだけで、リブロに日参していた学生はたくさんいたのでしょうね。なにせ朝霞台から20分ほどで池袋に着けたわけですから。

じゃあ、お前は勉強もせず、書店にも行かない、典型的な遊んでる大学生だったのかと問われれば、否と答えます。当時のあたしは中国哲学を専攻していたので、日参とまでは言わなくとも週参、あるいは月に二度か三度通っていたのが神保町にある中国書籍専門店、東方書店内山書店亜東書店、中華書店、燎原書店などでした。その他、漢籍の古書店も神保町には揃っていて、そういうところへ行っては中国から輸入された原書などを買っていたのです。失礼な言い方ですが、そういう本はたとえ当時のリブロ池袋本店でも置いていなかったでしょう。

つまり、あたしの場合、既に自分で自分の買うべき本がわかっていて、それがどこで手に入るのかも知っていて、そこへ行っていたというわけであり、それはそれで正しいのだと思います。ただ、そうは言っても、やはりもう少し広くアンテナを張って、専門以外の分野にも興味を持ち、リブロにも立ち寄ればよかったかなとは思います。

ちなみに、その当時のあたしは新宿の紀伊國屋書店にもほとんど行っていませんでした。むしろ神保町に行くことが多かったので、新刊書店としては三省堂書店の神保町本店(当時はの呼称は神田本店)や東京堂書店、書泉グランデに行くことが多く、とりあえずはこのくらいを押さえておけば十分でした。

結局、タイトルに「池袋のリブロの想い出」と書きましたが、「想い出が全くない」というのがあたしの結論です。ですから、出版社の営業として池袋のリブロが店を閉めることに対する感慨はいろいろありますが、青春の一ページ的な、感傷的な意味での感慨はまるでないのです。

小説だけでなく……そして、全集とかシリーズとかコレクションとか

今朝の朝日新聞読書欄で蜂飼耳さんが『歩道橋の魔術師』を紹介してくれました。

 

ちょうど増刷が出来上がるタイミングなので絶妙なタイミングとなりました。

さて、この蜂飼さんの評を読んでどのような感想を持たれたでしょうか? あたしが既に本書を読んでいるからかも知れませんが、この作品は小説というよりも詩のような、あるいはポートレートのような作品ではないか、という印象を受けました。

でもこのあたしの感想は、多分に先入観が入っていると思います。まずは蜂飼さんが詩人だということ、少し前に読んだボラーニョの『アメリカ大陸のナチ文学』以来、小説家と詩との関係を、なんとなく薄ぼんやりと考えているからです。そして、何よりも著者の呉明益さんが小説家の枠には収まらない活動をしていることを知ったからだと思います。

上のイラストは『歩道橋の魔術師』のカバーにも使っている中華商場のイラストです。先日行なわれた、呉明益さんの来日トークイベントの会場で配布されたもので、なんと呉さんみずから描いたものです。はい、そうなんです。呉さんは、イラストも巧みなんです。これは素人が描けるレベルではないと思います。

そして呉さんは写真家でもあります。呉さんの活動についてはこちらのページをご覧いただくとして、台湾では写真集も出している方なのです。上述のイベント会場で写真集(原書)が会場で紹介、回覧されましたが、なかなか味わいのある、静謐な写真でした。呉さんのフェイスブックもありますが、こちらも文字だけでなく、写真がよく登場しています。

そんなこんな周辺情報があったので、今日の書評を読んで、小説以外のことにまで連想が広がったのではないかと思います。

さて、そんな本日の朝日新聞に載っていた記事がこちら(↓)です。

いま文学全集がブームになりつつあるとか。本当でしょうか? 確かに記事にあるように、河出書房の「日本文学全集」がそれなりに売れている、否、この出版不況と言われている状況下では異例の大ヒットと言ってもよい売れ方をしているのは認めます。河出書房はこの前にも「世界文学全集」をヒットさせていますから、ある程度このような全集に対する需要をつかんでいたのでしょう。

記事にある中公の「谷崎潤一郎全集」がどのくらい売れているのかはまだわかりませんが、書店ではかなり大きく展開しているのが目につきますから、それなりに関心は持たれているのでしょうし、売れもしているのでしょう。

しかし、まだブームと呼ぶには時期尚早ではあるでしょう。ただ、かつての全集ブームから時代が一回りして、たとえば図書館などでも新しいものに買い換えたい、当時の全集を買えなかった、買いそびれた世代が改めて買いたくなっている、という時代背景があるのではないか、そう思います。「大部なものは手軽な電子で」という動きもあるものの、一方で装丁にも凝った書籍は、そのもの自体として手元に置いておきたいという欲求を生むものです。電子ではできないところをうまく掬えれば、まだまだ紙の本の優位は揺るがないのではないでしょう?

ところで、これを全集と呼んでよいのかどうかわかりませんが、考えてみれば、新潮社の「クレスト・ブックス」もシリーズとして海外文学ファンにしっかりと根付いていますし、それなりに売れていると思います。単行本ではありませんが、光文社の「古典新訳文庫」も大ヒットシリーズで、昨今の新訳ブーム、それこそ上述の河出の「全集」の魁となったものではないでしょうか?

そして、手前味噌ですが、あたしの勤務先の「エクス・リブリス」も海外文学のシリーズとして、「クレスト」とはまた異なるテイストで多くのファンを捕まえることができたと自負しております。最初に戻るようですが、特に『歩道橋の魔術師』などでそれを感じます。そして「ボラーニョ・コレクション」も、こちらはシリーズと呼ぶのも憚られる、まだ4冊しか刊行されていないコレクションですが、これもお陰様でヒットしているので、出版不況とは言え、まだまだやりようはあるのかな、という気がします。

あとは、どうなのでしょう? こういう風に全集とかシリーズと銘打たれると、コンプリートしたくなる欲求が生まれてしまうのでしょうか? だから一冊買うと次も次もとなってしまうような……。それは虫がよすぎる考えでしょうかね?

いつまで越え続けるのか?

今朝の朝日新聞に「歴史の傷、文学で越える 日中韓の作家がフォーラム」という記事が載っていました。

少し改善の兆しが見えてきましたが、相変わらずギクシャクしている東アジア三か国の政治情勢。欧米各国、特にアメリカから見たら「お前ら、いつまでそんな幼稚なケンカを続けているんだ、もっと大人になれ!」という感じなのでしょうが、感情的にこじれている感もあるので、そう簡単には三か国とも譲れないところではないでしょうか。

で、6月に北京で開かれたこのシンポ。文学の力で、そんな三か国のわだかまりをなんとかしようという取り組みなわけですね。

そういった文学者の行動はすばらしいと思うものの、このところお陰様で『歩道橋の魔術師』の売れ行きがよい状況を見るにつけ、ちょっと違うのかな、という感じもします。

別に、こういったシンポジウムを否定的に見ているわけではありません。これからも大いにやるべきだと思うのです。ただ、もっと若い世代を取り込もうと思ったときに、いつまでも「歴史の傷を越える」といったお題目を唱えているのはどうなのか、という気もするのです。

もちろん、東アジアの近現代史をきちんと知っておかなければならないのは当然です。でも、そこに囚われすぎてばかりいるというのもどうなのだろうか、という思いもあるのです。

いや、『歩道橋の魔術師』が売れていると言っても台湾の作品でしょ? 台湾は親日的だから……といった短絡的な言説に組みするつもりはありません。台湾の人の微笑みの下に日本人に対する複雑な思いがあるのはあたしなりに理解しているつもりです。ただ、『歩道橋の魔術師』や韓国の『カステラ』などを読むと、そこには苦難の歴史も、日本軍の蛮行も一切出てこないのです。そんな東アジアの歴史を知らなくても楽しめるし味わえる作品なんです。だからこそ売れたんだし、支持されたんだのではないかと思うのです。

そういう流れも、出版社として作っていかなければならないのかな、そんな大それたことできるのかという不安はありますが、少しでも楽しんでもらえる作品を翻訳して紹介できれば、とは思います。

ものすごい光景

とある書店で営業中の時のこと。

馴染みの書店員さんと立ち話をしていると、ごくごくフツーの中年男性がフラッとやってきて、『マルセル・シュオッブ全集』を手に取りレジへ。

と思う間もなく、こんどはもっと若い、大学生くらいの男子3人がやってきて、そのうちの一人が「ああ、これだ、これだ」と言って、やはり『マルセル・シュオッブ全集』を手に取って買おうか買うまいか思案中。見届けませんでしたけど、あの様子ではかなりの高確率で購入したと思われます。少なくとも、その時買わなかったとしても近いうちに買ったでしょう。

この間、わずか10分から15分。

ちょっと待ってください。

本体で15000円もする海外文学が、あれよあれよという間に二冊も売れてしまうって……

ちなみに、あたしも買おうかどうか、悩んでおります。国書刊行会さんも罪作りです。ついでに言えば、「ウィリアム・トレヴァー・コレクション」の『恋と夏』も欲しいんですよね。

「恋と夏」なんて、あたしには縁がないですが、でもこのタイトルだけもキュンキュンしちゃうじゃないですか!

ライフスタイル提案型って、つまり何?

少し前に、このところの書店のスタイルについて書きました

最近全国的に増えている蔦屋とか、有隣堂が新宿の小田急百貨店に作ったストーリーストーリーとか、そのはしりは京都の恵文社なんじゃないかと思いますが、とにかくこの手の書店が増えています。

時間を潰すための場所としては愉しいし、「へえー、こんな本が出ていたんだ」という発見もありますが、こういう書店を一括りに言ってしまうと「提案型」の書店と言うようです。何を提案するのかと言えば、各店にコンセプトなどはあるのでしょうが、これも平たく言ってしまえば「生活スタイル」「ライフスタイル」です。

「こんな雑貨や家具、観葉植物に囲まれて、そこでくつろぐあ・た・し。そんなとき、手にするのはこんな本がオススメ」という感じなのでしょうか?

それ自体を否定するつもりはないのですが、なにか居心地の悪さを感じるのも事実です。それについて時々考えています。

たぶん、日常的に本を読む人、本を読む習慣のある人、本屋によく行く人は、こんな風に提案されなくても自分の欲しい本、読みたい本がわかっているわけで、そういう人には探している本が見つけやすい書店が「よい本屋」なのであって、別にお店や、ましてやコンシェルジュに提案なんてしてもらう必要なんてありません。だから、こういう提案型の書店、セレクトショップ的な書店にはあまり足を向けないのかも知れません。

でも、世の中、本を読むと言える人の方が極端に少ないのが、たぶん現実。そもそも何を探しているかもわかっていない人には、のけぞりそうなほど高い高い書架が図書館のように聳え、整然と本が数え切れないほど並んでいる(ジュンク堂のような)書店は、足を踏み入れただけでめまいを起こしてしまうのかも知れません。

そうではなく、カワイイ雑貨を見ながら、ふとそのそばに置いてあった、可愛らしい装丁の本を手に取って、パラパラとめくってみる。文字も少ないし(←これ、重要)、薄いし(←これも重要)、すぐ読めそうだから買ってみようかな、そんな購書スタイルが一般的になっているのかもしれません。だから、そういう人には提案型の書店が受けるのだと思います。

薄っぺらいと言われるかも知れませんが、そこまでは理解しているのですが、それでもまだ居心地の悪さ、なんとなくしっくりこない気分を感じるのは何故でしょう? やっぱり提案されること、それ自体なのかな、と思うのです。

だって、音楽を聴く、テレビを視る、という行為に比べ、娯楽としての読書にはこれらとは比較にならないくらい、能動的なかかわりが必要になるじゃないですか? 音楽は「聴きながら」別のことができます。テレビも「視ながら」他のことができますし、多くの人はしていると思います。でも、読書はどうでしょう? ながら読書って出来るものなのでしょうか?

読書は「提案された」なんていう受け身で始めても身につかない、いや、そもそも読み始められないものだと思います。それなりの覚悟と体調、これは肉体的にも精神的にもですが、そういったものが必要になります。なおかつ多少の知識も必要ですが、これは読書体験が増えれば自然と積み重なってくるものです。

そんな風に、能動的に取り組まなければいけない読書と、提案されるという受動的な空間が、あたしには居心地の悪さの元凶なのではないか、そんな風に現時点では考えています。

ABC的な?

ABCと聞いて何をイメージするのでしょうか?

「いろは」みたいなもの? 確かに「○○のABC」といったタイトルの書籍もあるように、そういう場合「○○入門」といった意味で使われているのでしょうから、「いろは」とほぼ同じですね。

でも、あたしの属する業界では、特に東京では、ABCと言えば青山ブックセンターになります。いま「特に東京では」と断わったのは、関西などへ行くと「ABC?、何それ?」という反応が少なからず返ってくるので、やはり東京ローカルな略称なのかも知れません。

それはさておき、本日は青山ブックセンター本店でトークイベントでした。その件については別に書きますが、イベントが始まる前にお店の中をぶらぶら見ていると、『ユニヴァーサル野球協会』の隣に『守備の極意(上)』『守備の極意(下)』が並んでいました。

 

はい、わかりやすいですね。野球つながりです。また新刊『ミニチュア作家』の隣にカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』が置かれているなんてのは、ミニチュアと巨人というタイトルの対比の妙ではないでしょうか? えっ、それはうがちすぎ?

そんなことはないでしょう。だって青山ブックセンターですから。こういう洒落た並べ方をして見せてくれるのが、ABCのABCらしさだと思うのですよ、あたしは。

「楽しい」という言葉の意味

二子玉川の蔦屋家電に行ってきました。

「どんな感じだった?」と聞かれれば、出版社の営業的に答えるなら「意外と本が多かった」となります。「蔦屋家電」という名称から、家電や生活雑貨が中心で、書籍は申し訳程度に並んでいるのかな、と予想していたのですが、入ってみれば「ああ、本屋だ」と思えるほどの書籍の数です。

「じゃあ、どんな本屋なの?」と聞かれると、ちょっと答えにくいです。ですので、思いつくままに、たぶんまとまりもなく書いていくとこんな感じです。

まずはブックカフェのようなたたずまいがあります。ただし、1階と2階とで1000坪以上はありますので広々としていて、「本が読める喫茶店」というイメージのこじんまりとしたものとはまるで異なります。雰囲気としてシティ・ホテルのロビーやラウンジに書棚を設けて本を並べている感じでしょうか? いや、シティ・ホテルと言うより、観葉植物なども配置されているのでリゾートホテルと呼んだ方がよいかも知れません。そんな感じです。

家電とあるから電気屋なのか、という感じでもなく、もう少しオシャレな、雑貨とまで言ってしまうとちょっと違いますが、それでもオシャレな雑貨屋的な感じで、いわゆるビックカメラやヨドバシカメラ、ましてやヤマダ電機といった家電量販店的な雰囲気は欠片もありません。書籍と家電の融合による新しいライフスタイルの提案、といったところが狙いなのでしょう。

「では、本屋としてはどうなの?」と言われると、たぶん「昨日の書評に載っていた本」とか、「新聞の下の方(広告のこと)に載っていた本」を探しに来た、というお客には、きっと使いづらい本屋だと思います。たぶん目的の本を自力で見つけることは不可能ではないでしょうか?

ここは、そうでなく、特に決まった本を買いに来るのではなく、ふらっと立ち寄って、特にこれという目的もなく棚を眺め、ふと目についた本に手を伸ばす。お茶を買って飲みながら、椅子に座ってその本のページをめくる、気に入ったから買って帰る。そんな感じだと思います。もちろん本と家電との関連性もそれなりに持たせてあって、シームレスに誘導するようになっているわけです。

と、ここまで書いてきて、蔦屋は家電を標榜しているわけですが、そうではない書店、つまりお店の担当者が独自の好みで書籍を仕入れ、並べているような書店はこの数年、いや十数年でしょうが、非常に増えてきていると感じます。その嚆矢と言っていいのかわかりませんが、京都の恵文社などはかなり早い例ではないでしょうか? 京都ではマルイにあるFUTABA+もこの種の書店に数えられると思います。東京ではマルノウチリーディングスタイルORION PAPYRUSなどを挙げることができると思います。そして、つい先日オープンした新宿の小田急百貨店の中のSTORY STORYもそういった提案型の、書籍や雑貨混在の本屋です。

さてさて、この手の本屋さん、本当に流行っていますが、実際のところ評判とかはどうなのでしょう? 特に何か耳に入ってくるわけではありませんが、評判云々はおくとして、これまでのような本屋では先行き厳しいという現状認識があるのではないでしょうか? 本屋プラスアルファ、ということです。

これまでの本屋と言えば、新刊を仕入れオーソドックスな棚の配置で並べる、というスタイルで、本屋の規模こそ違え、だいたい目当ての本がどこにあるかは店内マップなどを見れば想像できるような書店です。しかし、ここに挙げたような本屋では、「人文」とか「文芸」とか「学参」とか、そういったこれまで本屋で慣れ親しんできた分類やジャンルを一度取り払って、その店独自のゾーニングをしているわけで、慣れないとまるで本を探せないことになります。

で、思うのです。

本が好きな人は「本屋に来ると楽しい」とよく言います。あたしもそう思います。でも、ここまで書いてきたように、これまでの本屋と最近流行りの本屋では本の並べ方(見せ方)がまるで違いますから、同じ「楽しい」という言葉で括ってしまうことはできないと思います。現に、そういう書店に行ってみたあたしが、たとえば新宿の紀伊国屋書店とか池袋のジュンク堂書店で味わう楽しさを、これらの書店で味わうことはできません。

だからといって、こういう本屋がつまらないのかと聞かれれば、確かにつまらないと感じる人はいると思います。でも、あたしは、こういった本屋についても楽しいと感じます、感じられます。逆に、カフェや雑貨が併設された本屋は楽しいけど、新宿の紀伊國屋は楽しくない、と感じる人もいるのではないでしょうか? 本屋のというか、本の楽しみ方も人それぞれなわけで、そういう楽しみ方に合った、そういうさまざまな楽しみ方を提案できる本屋が増えたのだと考えれば、なんら不思議はないので、今後ももっと予想を超えた本屋が生まれてくるのではないか、そんな風に思います。

本屋とカフェ、本屋と雑貨、そして本屋と家電。あと、どんな組み合わせが考えられるでしょうか? いや組み合わせるという発想からしてダメなのかも知れませんね。コンビニと酒屋と薬局が一体となっているように、もっともっと異業種が組み合わさるのでしょうか? 少なくとも、ネットショップではなく、実際にその場で体感できるからこそのメリットを活かしたものになるのでしょうが。

つまりは本屋の楽しみ方なのか、楽しいことの一つに本屋が参加するのか……

新業態が続々

昼前に、新宿の小田急百貨店にオープンする「STORY STORY」の内覧会へ行って来ました。

えっ、それって何ですか?

と思う方もいるかと思いますが、これは有隣堂の新しいお店です。今日が内覧会、明日が正式オープンです。あえて有隣堂を名乗らなかったのは、行ってみればすぐにわかります。これまでの有隣堂とはひと味もふた味も異なる店舗です。最近はやりのセレクトショップ的な本屋さん、と言ってしまえば身も蓋もありませんが、そこにカフェも併設し、ライフスタイル全般を自分なりにプロデュースするための手助けをする、そんなコンセプトなんでしょうか?

はっきり言ってしまうと、同じ場所に春先まであった三省堂書店とはまるっきり違います。什器が変わったとか、棚の配置が変わったとか、そういったレベルの変化ではありません。「前の本屋さんがなくなって、また新しい本屋さんができたのね。改装していただけかしら?」といった感覚で三省堂時代のお客様がこのお店に来たら驚くでしょう。もしかすると、「あれ、本屋さんはどこへ行っちゃったの?」と思うかも知れません。それくらいの違いがあります。

もちろん基本は本屋ですから、本もたくさん置いてありますが、品揃えはまるで変わってしまっています。ターゲットとしている客層が三省堂とは異なっているのでしょう。これが吉と出るのか凶と出るのか? 恐らく三省堂時代のお客さんの何割かは離れて行ってしまうでしょう。その代わり、三省堂時代には取り込めなかったお客さんを取り込めるのではないかと思います。その差し引きがプラスになるのかマイナスになるのかは、にわかにはわかりませんし、これからの運営でプラスにもマイナスにもできるのだと思います。出版社としては少しでもプラスにできるように応援するのが役割だと思います。

さて、明日オープンと言えば二子玉川もそうですね。「二子玉川ライズ」です。

えっ、あそこに本屋なんかオープンするの?

という印象をお持ちの方も多いかと思います。蔦屋家電というのがちょっと遅れて5月3日にオープンするのです。こちらは店舗名が家電となっていますが、やはりあのツタヤですから書籍も取り扱う予定だそうです。二子玉川には紀伊國屋書店、文教堂書店が既にありますが、これだけ大きなショッピングモールができると、さて人の流れが変わるのでしょうか? 紀伊国屋と言うよりも、玉川高島屋も戦々恐々なのでしょうか? それとも二子玉川という街の集客力が上がることによる効果を期待しているのでしょうか?

しかし、有隣堂といい、ツタヤといい、どちらもフツーの本屋ではないところが、この業界の厳しさを象徴しているのでしょうか? あっ、そうだ、国立のPAPER WALLにも行ってこないと!

翻訳文学について考えたこと

昨夜の日本翻訳大賞授賞式に参加して、まずは選考委員の方が指摘していたように、最終選考に残ったノミネート作品に英語圏の作品が半分ほどしかなかったことに驚きました。それは裏を返せば、英語圏に偏らない、日本の翻訳文学界の広がりを示すものだと思います。海外文学を刊行している出版社の一員として、そんなことに少しは関わりを持てているのかな、と思うと少しは嬉しくなります。

英語圏以外の作品がどんどん日本語に翻訳されているだけでなく、この数年、いや十年くらいのことでしょうか、既にかなり前に一度訳された作品が新訳として再び刊行される、いわゆる新訳ブームも続いているように感じられます。いまの読者に合わせて文体も変えて読みやすく、というのは翻訳文学をさらに広めるのに大切なことだと思います。どんなに名作と言われようと、日本が古めかしく、既に古文のように感じられる翻訳では、やはり今の読者は読んでくれないでしょう。

ところで、昨晩の授賞式会場はほぼ満席という盛況ぶりでしたが、書店における海外文学の売り上げはあまり芳しいものではありません。いや、全く売れていないといえば嘘になります。それなりには売れています。昨夜会場に参集した面々は、日常的に海外文学を買っているし読んでいるし接している人たちだと思いますので、そういう中で語らうぶんには「海外文学、盛り上がっているよね」となりがちですが、そんな世界から一歩外へ出るとちょっぴり寒々とした現実が待っています。

でも面白い作品だったら、本好きの人は読んでくれるはず。たぶん海外文学を読まない人の多くは食わず嫌いならぬ、読まず嫌いなんだと思います。だったら、「海外文学ってこんなに美味しい、否、面白いんだよ」ということを少しでも広める活動が肝心なわけで、昨夜のような試みが更に盛り上がって、海外文学に関心を持ってくれる人が一人でも増えれば、と思います。

  

そういう意味でも、自分の勤務先の本が選ばれたから言うのではありませんが、まずは『エウロペアナ』でも『カステラ』でも『ストーナー』でもいいです、一流の翻訳家の方、そして読者によって選ばれた今回のノミネート作品はどれをとっても外れのない作品ばかりですから、まずは一冊手に取ってもらいたいと思います。ジャケ買いで構いません。

幸い、少なくともうちの本に関しては書店からの注文が殺到しています。たぶん、こういう機会に少しでも海外文学に関心を持ってくれる人を増やしたいと思っている書店員さんが多いことの表われでしょう。嬉しいことです。来年以降にも期待したいところです。そして翻訳部門があるとはいえ、日本の作品の賞というイメージの強い本屋大賞と並ぶような大きな賞に育っていったら嬉しいなあ、と思います。

カバーとオビの関係?

「週刊文春」とか「女性セブン」とか、そういった雑誌は真ん中をホチキスで綴じたかたちのものがほとんどです。「少年ジャンプ」とか「別冊マーガレット」といったコミック誌は、やはり大きなホチキスでガシャッと綴じていますよね。これらはどちらもカバーなんてなく、ましてや函に入っているわけでもありません。しかし単行本ですと、ほぼ必ずカバーとオビが付いています。カバーを取り外してしまうと、意外とあっさりとした表紙だったりすることも多いものです。昔の図書館の蔵書はカバーや箱を取った状態になっていることが多く、書店で売っているカバーの付いた本と見た目がかなり異なるので驚いたものです。

このカバーとオビというのは日本独特のものなのでしょうか? 洋書はほとんどがペーパーバックと呼ばれるかたちで、カバーなんて付いていない、というのが常識のような感覚があります。日本の書籍は、表紙があっさりしているぶん、カバーはかなり凝ったものになっていて、これぞデザイナー、装丁家の腕の見せどころ、という感じですね。

なんでカバーとオビが日本独特なのか、詳しいことは知りません。書店から返品されてきた本も、カバーを新しいものに取り替えればまた使える、というのが大きな理由だと思います。海外は、すべてとは言いませんが、本は買い切りが普通で出版社に返品されてくるというのは乱丁本、落丁本などくらい。だから返品されてきた本のカバーを掛け替えて再び出荷するなんてことはない。だからカバーなんて必要ない、ということなのではないかと個人的には想像しています。

まあ、こういう流通の仕組みはおくとして、とにかく日本の書籍のカバーは独自の発達を遂げたという気がします。もちろん、海外でも自分で好きな装丁に仕立て直すという伝統がありますが、これはカバーと言うよりは表紙そのものの話ですから、やはりちょっと異なりますよね。

話がだいぶ横道に逸れたような気がしますが、ここで話題にしたいのはカバーとオビです。最近ちょっと気になる現象があります。それは新書に目立つのですが、オビがカバーと見紛うほど大きい本が目に付くようになったのです。

わかっていると思いますが、オビとはカバーの更に外側にかかっている、宣伝惹句やその本の特徴、あるいは識者の推薦コメントなどを載せた、簡単に言ってしまえば宣伝チラシみたいなものです。だいたい本の下、4分の1から3分の1くらいの太さ(高さ)で作られています。本との位置関係で言えば、オビと言うよりもズボンとか袴と言った方がよいのではないかと思いますが、伝統的にオビと呼ばれています。帯ですよね。

カバーとオビは装丁家が一緒にデザインするときもありますが、装丁家はカバーだけをデザインし、オビは出版社で作るということもあるのではないかと思いますが、オビが太すぎるとせっかくのカバーがほとんど隠れてしまい、素敵なイラストなどが見えない、という本もしばしば見かけます。もちろん、カバーとオビが一体となってデザインされているものも多いので、それなりのバランスは取れている書籍がほとんどですが。

そんなカバーとオビの関係なのですが、大きすぎるオビに気づいたのは『だから日本はズレている』を見たときでした。

上の写真でもわかるように新潮新書の一冊です。新潮新書ですからカバーは濃いベージュというのでしょうか、薄い茶色というのでしょうか、とにかくそんな地色に著者名と書名が印刷されている殺風景なものです。これではライバルひしめく新書の世界では勝てませんから上のような著者のカラー写真をあしらったオビが巻かれています。このオビは本全体のほぼ半分の高さに達していますよね。かつてであれば十分「太い、大きい」オビと呼んでおかしくないものです。

ところがこの本が売れに売れ出したころ、この写真がほぼ全面を覆うような本を見つけたのです。あたしがこの本を持っていないのでどんな感じかお目にかけられませんが、同じく新潮新書の『「自分」の壁』でも同じようなものを見かけ、こちらはネットに画像があったのでそちらをご紹介します。

まずはデフォルトのオビです。これも一昔前なら大きいと呼べる、ほぼ半分のオビです。ところがしばらくするとこちらのサイトに掲載されている写真のように全面オビになっています。このほぼカバーのようなオビを取り外すと、本来の新潮新書のカバーである、ベージュのような茶色のようなカバーが現われます。見た目にはカバーが二枚かかっているようなものです。

本が売れたとき、帯を換えて更に売り上げを伸ばすというのは出版社がよくやる手です。あたしの勤務先もやります。でも、それは「○○万部突破」といったものだったり、新聞書評のコメントを引用したり、そういうオビへの変更であって、オビの大きさをまるっきり変えてしまうなんてことは、かつてはなかったことだと思います。

ところで、ここで一つ問題があります。読者には関係ないのですが書店現場、流通現場でかなり重要なことです。

カバーには表(表1)にタイトルや惹句などが書いてあったり、イラストなどがあしらわれたりしていますが、裏(表4)には定価が書かれています。誰もが本を手に取って気に入ったとき裏返して値段を確認しますよね? カバーの裏には値段が書いてあり、その値段の近くにはISBNコードとバーコードが印刷されています。書店現場や流通現場ではこのバーコードを機械で読み取って管理しています。本屋で本を買ったときレジでピッと読み取っていますよね。あれはこのバーコードを読み取っているのです。

ところで、それはカバーのことであって、オビには普通は値段とかバーコードなんて書いてありません。試しに手近の本を見てみてください。値段は書いてあるかもしれませんが、バーコードが印刷されているオビなんてほとんどないはずです。そりゃそうでしょう。カバーに印刷されているのですから、オビにまで付ける必要はありません。

しかし、上に述べたような全面オビになったらどうでしょう? 本来カバーに印刷されていた定価やISBNコード、そしてバーコードが全目オビで隠れてしまいます。そうなると流通現場や書店のレジでは毎回オビをずらしてカバーのバーコードを読み取るという、実に面倒な作業になります。そこで、新潮新書の全面オビには、表1こそ写真を全面に使ったものになっていますが、表4は本来のカバーとほとんど同じようになっているのです。定価とかバーコードが印刷されているのです。これならバーコードの読み取りも簡単にできます。袖には著者略歴とか入っていて、もうオビではなく完全なカバーです。

だったら、カバーを二枚かけるようなことはしないで、その全面オビとやらをカバーにしちゃえばいいんじゃないの(?)と思いますが、なぜかそうはなっていませんね。どうしてなのでしょう? たぶんカバーを換えるというのは流通上面倒な事情があるのではないかと思います。帯はいくら変わってもあくまで付属物なので構わないけれど、カバーは本の一部なので、それが変わってしまうと別の本として扱わざる得なくなる、そうすると管理など面倒なことばかりが生じてします。だったら「あくまでオビです」というていで行った方が都合がよい、ということなのではないか、そんな風に想像しています。