11月 2013のアーカイブ
神戸なのか三宮なのか?
関西出張は大阪をベースに京都と神戸にも通います。
当初は京都大阪が担当地区で、神戸は中四国担当者がカバーしていたのですが、数年前から京阪担当者が神戸まで担当するようになりました。月曜から金曜までの五日間で京阪神を回るのはなかなか大変で、各担当の方に逢えたり逢えなかったりしますが、こればっかりは仕方ありません。書店の方は得てして決まった曜日に休日を取るので、回る曜日を適宜変えたりしながら回るようにしています。
で、関西地区では京都と大阪に比べ神戸というのが一番まだ慣れていない土地で、もちろん書店や担当の方はかなり覚えましたし、三宮の街の様子もわかってきましたが、いまだにしっくりこないのは、「なんで神戸の中心は神戸ではなくて三宮なのか」ということです。神戸という駅がないのであればわかりますが、大阪から行けば三宮の二つ先に神戸という駅はあります。東京の人間にとって兵庫県の県庁所在地は神戸だから、神戸が最もにぎやかで中心となる場所であり、駅であると思っていたのですが、そうではなく、実は中心地は三宮なのですよね。不思議なものです。
ちなみに、神戸駅はまだ降りたことがありません(汗)。
略称
寒くなる?
そんな趣味はないはずですけど……
別の本を読み始めたりしていて、しばらく「積ん読」になっていた『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』をまた読み始めました。
その中で「ネクロフィリア」について述べたところがあります。
ネクロフィリア愛好者の知的レベルは標準であることが多く、精神障害者でもサディスティックでもない。むしろ、一貫して最もよくみられる性格的特徴は、きわめて自己評価が低いことだ。ネクロフィリアについてのフロイト派の説明によると、自己評価の低さが原因となるのはどうやら、「大切な他者(自分に重要な影響を与える人物)」がいないことのほかに、性的に拒否されるのではないかという恐怖心といった他の問題や、さらには自分の死を恐れるがゆえの「反動形成」とされる場合もある。(P.246)
自己評価が低くて、大切な人がいないなんて、まるっきりあたしのことを言われているみたいです。でも、あたしは決してネクロフィリアには興味ありませんし、願望もありませんので、念のため。
ただ、生きている人は苦手だから死んでいる人へ興味が向かうという感覚自体は理解できます。時に「人間は嫌いだけど動物は裏切らないから好き」という人がいますが、それと似た感じでしょうか? いや、完全に誤った理解でしょうか?
とにかく、自己評価が低いのは事実なんですが、あたしにはこういう異常性愛の趣味はまるっきりありませんのでご安心くださいませ。
とはいえ、存在がそもそも異常だと言われることもしばしばなんですが……(汗)
それにしても、こういうことをした人が「生き返らせるための儀式」だと主張しているのは興味深いですね。自分の生命のエネルギーを死体に注ぐことによって死者にもう一度生命を与えようという発想、古代にあってはそういう発想がごく普通に唱えられても不思議だとは思いません。中国の房中術なども、男性の陽の気だけではだめなので、女性と交わることによって女性の陰の気を取り込もうという思想が根底にありますから(則天武后のように陰陽が逆の発想ももちろんあります)。
しかし、自分の生命のエネルギーって他人を蘇らせられるほど旺盛なものなのかどうか、そこが問題ではないでしょうか? 自分がどうにかこうにか生きている人間には、とても他人の生命の面倒まで見ようという元気はないはずだと思います。
こんなセリフ!
「あまちゃん」で大ブレイクした能年玲奈が主演するという「ホットロード」の実写映画。あたしもコミックを読んでいました。暴走族という設定があまり馴染めなかったという印象、感想を持っているのですが、実写映画はどういう感じに出来上がってくるのでしょう?
ネットでは、同作を読んでいた大人たちがいまさら実写化された映画を見に行くのか、今の若者にはあの時代の不良文化は受け入れられない、などなど実写化に否定的な意見も多々書き込まれています。あたしもそんな危惧を抱く一人ではありますが、少なくとも「能年玲奈は、所詮、あまちゃんだけの女優」と言われないように頑張って欲しいと思います。
で、その「ホットロード」ですが、個人的に今も記憶に残っているのが下のコマ、というかシーン。
「オレがいなきゃなんにもできねーよーな女んなるな」と春山が和希に言うセリフ、あたしもこんな言葉吐いてみたいものです。これって相手が自分を頼りにしているからこそ言える一言ですよね。それだけ誰かから思われているなんて羨ましい限りです。あたしも人生で一度くらいはそういう思いをしてみたいと思います。
が、そもそも世の中にあたしを必要としている人がいるのか。そこのところからして問題です。あたしがいなくても、世間の人はみんなちゃんとやっているでしょう。こんなセリフを吐こうものなら、「うん、大丈夫だよ。気にしないでいなくなって!」とみんなから言われそうです。
嗚呼。
そう言えば、この本はまだ売っているのでしょうか?
何年か前に、京都の恵文社一乗寺店で見つけて購入したものです。
今日の配本(13/11/08)
偽装 or 誤表示?
こんな女性に逢ってみたい、か?
『夢みる人びと』収録の「夢みる人びと」から、こんな一節。
語り手の一人が自分の若い頃の恋物語を語るところです。旅の途中で出逢った女性と恋に落ちてしまった部分です。
君のような詩人たちが使う、涙、心、あこがれ、星々¥などという言葉の意味を私が理解できるようになったのも、こうしていまだに憶えていられるのも、その女のひとのおかげなのだ。そうだ、殊に星々という言葉についてはそう言えるな。ミラ、その女のひとには、星を思わせる風情があったのだよ。そのひととほかの女たちをくらべると、ごみと星空ほどのちがいなのだ。ミラ、君もたぶん、これまで生きてきたあいだに、そういうたぐいの女に出遇ったことがあるだろう。内部から光を放ち、暗闇のなかで輝き、松明のあかりのようにゆらめく女を。(P.107)
すごいべた褒めですね。こんな女性いるのでしょうか? いるならあたしも会ってみたいものです。さらにこの女性との会話を思い出して語るシーンです。
とうとうオララが言った。「いいえ、心はありますわ。でも、それはミラノの小さな白い別荘の庭に埋めてあるの。」
「永久に埋めておくの?」と、私はきいた。
「そう、永久によ。そこはどこよりも美しい場所だから。」
私は嫉妬にかられて、さらにたずねた。「そのミラノの白い別荘には、君の心を永久に引きとめておくようなものがあるというわけ?」
「さあ、わからないわ。もう今はそれほどでもないかもしれない。庭の草取りをする人もいないし、ピアノの調律をする人もいないのだから。誰か知らない人が住んでいるかもね。でも、月が昇れば、月光はあるでしょう。それに、死んだ人たちの魂もあるはず。」(P.111)
いかにも男を手玉に取る女性特有の物言いという感じがしますね。上の引用でご理解いただけると思いますが、主人公が恋した女性の名前がオララ、そしてオララとの恋物語を主人公はミラという人に語って聞かせている、という長い、長いシーンです。
こういう女性って、たぶん男性から見たら、深入りしてはいけないとわかっていながら、どんどんのめり込んでしまい、気づいたときには戻れないところまで来てしまっているのでしょうね。
エルシノーアの一夜
作品が三つ収録されているUブックスの『夢みる人びと』の一つめ、「エルシノーアの一夜」読了。
今回も『ピサへの道』に負けず劣らず、読み応えのある作品です。その中から印象深かった箇所を……
もうひとつおかしなことがある。自分たちの人生にはこれという出来ごともなかった二人が、夫や子供や孫のいる既婚の女友達のことを話すとき、あわれみと軽蔑のそぶりを見せる。あの臆病な連中は、気の毒に、退屈で平板な人生を生きているのね、という調子である。自分たちには夫も子供も恋人もいないけれど、だからといって、私たちこそロマンチックで冒険にみちた人生を選んだのだと思うさまたげにはならない。つまり、二人にとっては、可能性のみが関心をそそるのだ。現実にはなんの意味も認めない。あらゆる可能性をわが手におさめ、決して手ばなさない。一定の選択をして、限られた現実に堕落するよりも、そのほうがましなのだ。今でもなお、ことの成りゆき次第では、縄ばしごをつたって駆けおちもできるし、秘密結婚をするかもしれない。誰も止めることはできない。したがって、二人が心をゆるす親友といえば、同類の老嬢とか、不幸な結婚をした女たち、つまり可能性に生きる円卓の仲間たちなのだった。しあわせな結婚をし、現実に満足しきった女友達に対しては、可能性に生きる女たちは心やさしくも別の言語を使って話すのだ。そういう相手はいくらか低い階級に属する者たちで、言葉をかわすには通訳が必要だとでもいうように。(同書、P.43)
以上は、この物語の主人公でもある姉妹のことを述べた箇所です。若いころから美しく、社交界の中心にいた二人ですが、なぜかどちらも結婚をせずにきてしまったのです。もちろん求愛者には事欠かなかった二人ですが、ここにあるように結婚することによって未来の可能性を捨ててしまうことを潔しとせず、結婚もできるし、しないこともできる、恋人を作ることもできるし、作らないでいることもできるという自由な人生、つまり可能性にあふれた人生を選んだ結果、老境にさしかかろうという年齢になってしまったのです。
あたしはこんな高貴な考えを持っているわけではありませんが、なぜかとてもシンパシーを感じてしまいました(汗)。
