残念

映画監督のミロス・フォアマンが亡くなったそうです。あたしは映画監督の名前とか脚本家の名前とか、そういう方面には疎いのですが、「アマデウス」という作品は知っていますし、確かテレビの地上波で放送されたときに見た記憶があります。

訃報を伝える紙面ではその「アマデウス」共に名前が挙がっている作品が「カッコーの巣の上で」です。

こちらはまだ未見ですが、Uブックス版の小説は読みました。しかし、残念ながらこのUブックス版、現在品切れなんですよね。

ちなみに、「松岡正剛の千夜千冊」では『ライ麦畑でつかまえて』『キャッチ=22』そしてこの『カッコーの巣の上で』の三つを取り上げて

1960年代のアメリカで若者たちのバイブルになりかかっていた文芸作品が3つある。精神病院を舞台にしたケン・キージーの『カッコーの巣の上で』、戦争状態という管理と論理の悪夢を描いたジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』、そして、J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。

と述べています。あたし自身はこの三作品の『カッコー』しか読んだことがないので当否の判断はできませんが、『カッコーの巣の上で』は間違いなく名作だと思いました。後世も読まれ続ける作品であると感じました。

  

この機会にUブックス版『カッコーの巣の上で』の重版は……難しいかしら?

一極集中の縮図か?

昨日の土曜日、昼過ぎにちょっと武蔵小金井と国分寺まで出かけてきました。

あたしの自宅からですとバスに乗って行くわけですが、まあいつもながらの土曜の午後というわが家の周囲に比べ、武蔵小金井はどこから人が集まってきたのだろうというくらいの賑わいでした。それもそのはず、武蔵小金井の駅ビル、というほどのビルではありませんが、駅の商業施設nonowaの新館がオープンしたのでした。

あたし自身はnonowaに用事があったのではなく、その向かいのドンキホーテの中にある百均へ行ったのです。テレビなどのリモコンカバーが破れてしまい、新しいのを買いに行ったのですが、あいにくとSサイズとMサイズしかなく、Lサイズがなかったので空振りでした。その後、こんどは駅の南側にあるイトーヨーカドーへ向かいました。

その中のおもちゃ屋でシルバニアファミリーのヘアピンを買いに行ったのです。もちろん、自分用ではなく姪っ子へ買ってあげるつもりでした。一応、武蔵小金井のイトーヨーカドーにはシルバニア商品が置いてあると事前に調べておいたのですが、扱っているのは本当にシルバニアの人形やハウスなどで、あたしが探しているヘアピンなどのアクセサリーは一切売っていませんでした。こちらも空振りでした。

さて、シルバニアはまた都心の方のデパートで見ることにして、定期券があるのでJR中央線に乗って一駅、お隣の国分寺に向かいました。国分寺も長年の懸案、駅北口の再開発が一段落し、ミーツという商業施設が先週オープンしました。その影響もあって、国分寺もかなりの人でした。

で、国分寺にもある百均へ行ったところ、こんどはリモコンカバーのLサイズがありましたので購入。その次に駅南側の商業施設丸井へ向かいました。その地下食品売り場で鰻を購入です。

どうして鰻? と思われるかも知れませんが、月曜16日が母の誕生日なので、数日早いですが、ちょっとしたお祝いです。「鰻が食べたい」という母のリクエストです。

どこかへ食べに行ってもよいのでしょうし、その方がアツアツで美味しい鰻が食べられるのでしょうが、近所にはこれといったうなぎ屋がなく、バスや電車に乗ってまで食べに行くのは面倒ですから、鰻を食べようとなると買ってきたものを自宅で温め直して食べることになります。丸井の地下にはての字というお店が出店していて、専門店ですのでそれなりの鰻が買えます。ただ、日曜や月曜だと市場からの入荷がないかも知れないと思い、土曜日である昨日買いに行ったというわけです。

と、武蔵小金井と国分寺を巡るちょっとしたお買い物でした。それにしても家の近所のやや閑散とした様子と武蔵小金井や国分寺の賑わい、地方は過疎が進み東京だけに人口が集中する日本の縮図を見ている気分でした。

名著を新訳で

土曜日に移った朝日新聞の読書欄。先週の『聖書の成り立ちを語る都市』(出口治明さん評)に続いて、今週は桜庭一樹さんが『ゴドーを待ちながら』を取り上げてくださいました。

紙面に載っている書影は先日から刊行がスタートした『新訳ベケット戯曲全集』の第一巻で、収録作品が「ゴドーを待ちながら/エンドゲーム」になります。岡室美奈子さんによる新訳です。

 

ただ、多くの方が『ゴドーを待ちながら』と言ったら、Uブックス版を思い浮かべるのではないでしょうか? 大丈夫です、Uブックス版も健在です。この機会に読み比べも是非どうぞ。

『独り舞』の「ジーホイ」について

独り舞』の主人公の名は「趙紀恵」です。小説の中で本人は「ちょう・のりえ」と名乗っています。台湾で暮らしていた頃は「趙迎梅」という名だったのですが、すべてを捨てて日本へやって来て、人生をやり直そうとしたときに、自分で日本風の名前を付けたということになっています。

「紀恵」は中国で読むと「ジーホイ」、ピンインで書くと「jihui」です。台湾の人だから注音字母で表記したいところですが、あいにくあたしはピンインしか知らないので申し訳ない。

さて、本文中で主人公が改名をするシーンにも、そして本文中のどこにも書いてはいないのですが、あたしにはこの名前にいろいろな意味がこめられているのではないかと思えます。

「jihui」で中国語辞典を検索すればいくつか見つかりますが、「擊毀」は「破壊する」という意味ですから、「これまでの自分を破壊する」のか、「旧態依然とした社会を破壊する」のか、いずれかなのはわかりませんが、そんな意味がこめられているのではないかと思います。

主人公自身は、たぶんこんな意識を持って名前を変え、文字を選んだのではないかと思います。

しかし、その他にも「jihui」にはいくつかの漢字を当てることができます。

「機會」は「機会、チャンス」という意味。主人公の来日が「これまでの自分を変える機会」であるという含意だと思います。

「集會」ならば、そのまま「集会」です。ゲイやレズビアンなどのパーティーが作品中にはしばしば描かれています。そんなシーンが思い出されます。

「忌諱」だと「忌み憚る」となり、同性愛者である自分の存在に対する周囲の人間や社会からの視線、偏見が主人公にはこのように感じられたのではないでしょうか?

そして「際會」は「巡り会う」です。主人公は台湾で日本で、そして旅した土地でさまざまな出会いをします。その時には気づいていないようですが、主人公にとってその一つ一つが大切なものになっていたはずです。

中途半端に中国語を囓っただけですが、主人公の改名には上掲のような意味が託されていたのではないかと感じました。

いまだに引きずっている?

書店店頭に置いてありました。

 

地下鉄道』の小冊子と言いますか、チラシ、つまりは販促グッズ、拡材と呼ばれるものです。折り畳んだ一枚モノですので、広げると下のような感じになります。

本書につきましては、以前『ネバーホーム』『地図になかった世界』と一緒に並べてみませんかと書いたことがありますので言いたいことはそちらに譲りますが、3冊のうち2さつがピュリツァー賞を受賞している作品です。やはりアメリカでは奴隷問題というのは関心が高い証拠ではないでしょうか?

先日もキング牧師を称えるパレードが全米各地でありました。白人警官が黒人に暴力を振るって死に至らしめたというニュースも時々目にします。トランプ大統領がメキシコからの移民に対して厳しい措置を執ると明言していたりします。なんだかんだと言って人種差別問題、アメリカという国はいまだにそれを引きずっているのでしょう。

友達って必要なのでしょうか?

今日の朝日新聞夕刊に、「共通点は彼女いない、東北出身…大学が友達づくり手助け」という記事がありました。

大学生にもなって、大学に指導してもらわないと友達も作れないの? というのが多くの人の感想ではないでしょうか? 小学一年生ならこの手の話はしばしば聞きますが、まさか大学でもあるとは? これって数年前に話題になった「便所飯」に通じる話なのでしょうね。

記事を読むと、大学側としては中退防止が主目的のようなですが、このままいくと就職活動も大学が企業を選んであげたりエントリシートを書いてあげたりしないとダメな学生が増えていくのではないか、という気もします。

しかし、振り返って考えてみるに、大学って友達が必要なのでしょうか? そりゃ、いないよりはいた方がよいと思いますが、大学は学問をするところですから、友達なんて二の次だと、あたしは思います。現にあたしの場合、先輩後輩や同級生、クラスメートはいましたけど、取り立てて友達と呼べるような存在はいなかったし作らなかったわけで、なので社会人になっても学生時代の友人と、というような話を聞くと、「面倒臭い関係だなあ」と思ってしまいます。

そもそもあたしの場合、人生を通じて友達というものを作ってこなかったので、友達がいないからどうなる、という思考回路が初めからありません。友達がいないから大学を辞めるとか、そんな感覚はまるっきり持ち合わせていないのです。

友達っていなくても、知り合いがそこそこいれば、それなりに生きていけるものです。友達の有無をそんなに気にすることはないと思うのですが……

ポスト散り際

桜は、今は盛りと咲き誇っているときよりも、散り際が美しいと感じます。

しかし、桜の満開があっという間であるように、あるいはそれ以上の速さで散り際は過ぎてしまいます。

そして、そのなれの果てと言いますか、現状はこんな感じ。わが家の近所ですが、どこも似たような光景を目にします。

桜が散った後のこのざま、これが嫌いです。

読書メモ的に……

独り舞』を読み始めました。

32頁あたりからの小雪とのやりとり。

結局主人公は、自分をわかってもらえないと思う以上に周囲の人を理解していないんだろうなあと感じます。そして、自分の言うことを否定せず、うんうんと聞いてくれる人に対しては「自分をわかってくれる」と思うわけで、このあたりは、同性愛ということを抜きにしても、いわゆる幼い自我とでも言うのでしょうか、若い頃には誰にでも多かれ少なかれ見られることですね。ただ、ここまでこじらせると周囲も大変でしょうけど。

その後に、「でも、どうせ死ぬなら、一花咲かせてから死にたくない? 茨の鳥のように」というセリフがあります。

主人公は死ぬことばかり考えているわけですが、その前に何かしたいという意識、なんだかんだと言っても「自分は何かを成し遂げられるはず」と思っていることの裏返しですよね。

「彼女の作品が彼女の死に意味を与えたと言えるかもね。もしそれも無くて、ただ死んでしまったら、何だか寂しいと思わない?」というセリフもあります。

死に意味を与えるのではなく、たぶん生きていることの意味、証が欲しいのだろうと思います。ただ、それも若さゆえの思い上がり。ほとんど大多数の人の人生というのは、別に意味など考えることなく、ただ時の流れと共に生成消滅を繰り返しているだけだと思うのですが……

2018年4月12日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

書評効果で重版決定

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