ファブリーズ

昨晩は仲良しの(と、勝手にあたしが思っているだけかも知れない)書店員さんと忘年会でした!

もちろん、二人っきり。

いや、こういう表現を使うと、折角の愉しかった一時が、一転してエロくなってしまいますので、やめましょう。

和気藹々とした、ちょっと早いかな(?)という忘年会です。

でも、こういうの、デートって言うのでしょうか? 端から見ればカップル? いや、そんな風には見えないか……(T_T)

それはともかく、テーブルで鍋というか焼き肉というか、カセットコンロので肉を焼く料理が出まして、いわゆる焼き肉ではないので、煙がもうもうということにはならなかったので、それほど気にもしてなかったのですが、帰宅の中央線の車内、なんか自分が臭う気がします。匂うではなく臭うと表記するのがふさわしい、焼き肉屋さんから出てきたときのような臭いです。

たぶん、知らぬ間に肉を焼いたときの煙がコートに付いてしまっていたのですね。もう、電車の中で気になって、気になって……。決して、満員電車ではなく、さすがに座席はほぼ塞がっていましたが、立っている人はまばらな程度の乗客でしたので、周囲の人に気兼ねするような事態にはなりませんでしたが……(汗)。

でも、帰宅したら、まずはファブリーズでした!

気になる本

さて、タイトルが気になった新刊がありました。元TBSのアナウンサー青木裕子のエッセイ、『母、妻、ときどき青木裕子』です。

別にあたしは青木裕子のファンでもなければ、ナイナイの矢部のファンでもありません。気になったのはこのタイトルです。

えっ、自分の名前をタイトルに付けるなんて自意識の強い女だなあ、と思ったのかって? いえ、違います。この単語の出し方なんです。

「母」が最初で次に「妻」、最後に「青木裕子」という自分自身。昨今の女性の独立、自律した女性のライフスタイル、なんていう流れから見ると、まるで逆行している感があります。結婚し子供が出来ると、女性はいまだに「まず母」なのか、と思わされます。

青木裕子の意識として自然と違和感なくこの順番になったのか、それとも編集者や出版社側の意向なのか、そのあたりはわかりませんが、なんとも考えさせられるタイトルだと思いました。一部の評論家などは、こういうタイトルに噛みついて、女性の役割限定、差別だ、と主張したりするのでしょうか?

さて、いよいよ『季刊乃木坂 vol.4 彩冬』が発売です。

もちろん、買います。ここまで「早春」「初夏」「涼秋」ときて「彩冬」なわけですが、こんな日本語あるのでしょうか? いや、でも、乃木坂には「斉藤」姓が多いので、ちょっとしたダジャレでしょうか?

  

まあ、それはいいでしょう。エリカ様がフィーチャーされた4冊目ということで……

今日の配本(14/12/11)

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お恥ずかしい

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フランス文学の特徴でしょうか?

今年のノーベル文学賞作家モディアノの『ある青春』を読んでいます。先日『暗いブティック通り』を読んだので、。モディアノはこれで二作品目です。

 

モディアノがどういう作家なのか、フランス文学史上の位置づけとか、現在のフランス文壇での立ち位置とか、そういったことは知りませんが、読んでいると非常にパリの街と密接なつながりのある作家という気がします。何故かと言えば、パリの街並みの描写が非常に細かいからです。

あたしはパリには行ったことがありませんので、どんな感じの街なのかはテレビの映像や本に載っている写真で知る程度の知識しかありません。ですから地名を書かれても、それがどんなところなのか、まるで想像がつきません。パリは区によってかなり趣が異なるそうですが、そういう基礎的なパリ知識すら持ち合わせておりません。

そのくらいの知識でモディアノの作品を読んでいると、これでもかこれでもかと言うばかりに通りの名前、建物の名前が出てきて、それがどんなであるかの描写が続きます。飽き飽きするほどとは言いませんが、パリを知らない人間にそこまで細かく書かれても、ちょっと食傷気味になります。

が、よくよく考えてみますと、以前読んだゾラの『居酒屋』や『ナナ』も街の描写が非常に細かかったことを思い出します。

 

もしかして、フランス文学というのは、このように細かく街の様子などを描写するのが伝統なのでしょうか? いや、この程度の読書体験でフランス文学を語るな、と怒られそうですが、街の様子のみならず部屋の様子、調度類の意匠、登場人物の髪型や服装など実に細かく描写する作品が多いように感じます。

そう言えば、『危険な関係』は書簡体小説ですから街の様子の描写という面では控えめだった記憶がありますが、それ以外の描写は細かかった印象が残っていますね。うーん、やはり伝統でしょうか?

少なくとも、一部の作品については、パリという街と別ちがたく結びついていて、パリを知っている人間には実に楽しく読める作品が多いのではないかという気がします。フランス以外の海外文学って、ここまで描写が細かかったでしょうか?

文庫化のジレンマ

文庫になるのが早くなった、とはこの数年よく聞かれるセリフです。単行本が年月を経て文庫本になるというのは別に珍しいことではないですが、そのサイクルが確かにこの数年、いや十年くらいでしょうか、とても早くなったという気がします。

どのくらい早くなったのか、別に統計を取ったわけではありませんので、確かなことは言えません。それでも、以前なら数年から5年、10年は待たないと文庫にはならなかったと思われるのですが、最近は単行本が出て一年後には文庫になっている、という作品も珍しくはありません。一年後と言えば、本によっては、まだまだ単行本が売れているだろうに、もう文庫にしちゃうのですか、という気がします。

確かに、文庫本の方が安いし、たくさん作るから多くの書店に行き渡るし、それだけ人の目に触れる機会が多くなる、と一見いいこと尽くめのようですが、現実にはそんな甘いものではありません。いま「安くてたくさん作る」と書きましたが、実を言えば、安くするためにたくさん作っているのです。先に安さありきですから、実際にどれだけ売れるかに基づいて部数を決めているわけではありません。この値段に抑えるにはこのくらいの部数を作らないとならない、という計算が働いているわけです。ただ、単行本の時に売れなかった本が、安い文庫になったからといって、そうそうたくさん売れるようになるとは限りません。かなりリスキーな商売と言えるでしょう。

もちろん、安い文庫になったことによって「買おう」と思う読者が増える可能性はありますし、実際文庫になったから買った、というお客様は多いはずです。(高くても、買うべき本、読みたい本は買う、というのはかなり稀なお客様です。)また単行本よりは多くの書店に並ぶので、人の目につく可能性も格段に高くなります。単行本の時に走らなくて、文庫になって初めて「こんな本が出ていたのか」と気づかされることは多いはずです。ですから、一概にリスキーとは言えない面はあります。(単行本の時に気づかれないというのは、宣伝方法にも問題があるのかもしれません。)

ただし、個人的には「どうしてかなあ?」と思う時もあるのです。例えば先日こんな本を買いました。

チャイナ・ナイン』です。これはこのたび文庫になって[完全版]と付いたように、単行本の時の作品に加筆があります。こういう、文庫版になった時に、その時の情勢を加味して加筆がある場合、単行本を持っていたとしても、あえて文庫本も買うことはままあります、あたしの場合。

ただ、それはさておき、この本が文庫になってすぐ、この本の続編とでも言うべき『チャイナ・セブン』が刊行になりました。もちろんこちらは単行本です。

これが出版社の営業としては嫌なんです。出版社の営業としては、こういう関連する本は書店店頭では並べて置いてもらいたいと思うものです。もちろんこの二点を並べて置いているお店も多々あります。でも、文庫本と単行本ですと、置かれる場所が異なり、書店での棚管理も変わってきて、一緒に並べるのを嫌がる書店が多いのも事実です。どっちを読んだとしても、もう一方も読みたくなると思われるのに、その両者が並んでいない、そのもどかしさ、わかっていただけるでしょうか?

もちろん、『チャイナ・セブン』を買って読む人の大半は既に『チャイナ・ナイン』は読んでいるはずだから、隣に並んでいなくてもそれほど実害は出ないよ、という意見もあるでしょう。それは確かにその通りですが、あたしのように、今回の文庫化で改めて購入することにした人間だって少なからず要ると思うのです。特に今回のように加筆があったのですから。

で、たまたま目に付いたのは、こんどはまるでジャンルが異なりますが、『変愛小説集』です。これは続編にあたる『変愛小説集 日本作家編』が出るタイミングで文庫になりました。単行本「日本作家編」の刊行が9月上旬で、前著の文庫化が10月中旬ですから若干のインターバルはありますが、「これを機に」というのは明らかです。

 

この両者も、一緒に並んでいるところもありますが、文庫と単行本で別々のところに並んでいる場合が多々あるのです。広い書店であればかなり離れた場所の可能性もありますし、多層階の書店であれば階が異なることもあるでしょう。

ちなみに文庫になった前著の正しい続編は『変愛小説集2』で、これはまだ単行本のままです。

こういう文庫化、果たして良いのか悪いのか、よくわかりません。それぞれメリット、デメリットがあるので……。それでも出版社の営業としては、何か腑に落ちないと言いますか、もどかしいものを感じるのです。

売れ方、再加速中

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今も連綿と生き続けるルサンチマン

アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち』読了。

本書に出てくる主役三人、アフガーニー、梁啓超、タゴールの名前をどのくらいの日本人が知っているでしょうか? さすがにタゴールはノーベル文学賞受賞者なので知名度も高いと思いますが、他の二人はどうでしょう?

本書はそんな、日本ではあまり知られていない人物にスポット当てた本ですが、本書の中にももっとたくさんの知られていない人物が出てきます。でも、個々の人物を知ることが本書のポイントではありません。むしろ時代精神を言ったものを感じることの方が大事なのではないでしょうか。

舞台となる時代は帝国主義時代です。当時のアジアはヨーロッパ諸国の植民地として搾取と貧困にあえいでいました。そんな状況を打破すべく、アジア各国の知識人たちは何を考え、どう行動したのか。当然のことながら、ヨーロッパ諸国が作った直ミンチ政府に仕え、西洋流の思想に触れ、それに感化されていった者もいましたし、ナショナリズムに目覚めた者もいました。自国の現状をどう変えていくか、最初は西洋をモデルにしていたものの、すぐにそれではいつまでたっても西洋の搾取から抜け出せないことに気づきますが、ではどうしたらよいのか、その答えは簡単には見つかりません。

そんなアジア諸国に対して、日本は日露戦争で大国ロシアを破り、アジアの国家の気概を西洋に示したヒーローとして当時のアジアの知識人たちの目には映ったようです。彼らの多くが日本にやってきました。しかし、その日本に裏切られ落胆するのも早かったです。確かに著者が言うように、日本のアジア侵攻は西洋からの解放という側面は持っていたものの、結局日本はアジアの裏切り者になってしまったような印象を受けます。

本書は、イスラーム社会にページを割く比率が高いですが、梁啓超を中心とした中国にもかなり紙幅を割いています。中国は非イスラーム社会として独特の歴史を歩むわけですが、昨今の中国の台頭、その国際社会への挑戦、独自の価値観・規準・原則の押しつけなど、そういった行動の根がこういったところにあったのかな、と観じられます。

とにかく、イスラーム諸国も中国も。、おしなべて西洋流の押しつけに反発していたわけですが、100年後の今日も、やはり世界は西洋流の価値観を基準として動いているわけで、このアジア諸国の鬱屈した思いは、そう簡単には消え去りはしないだろうと思います。とにかく、本書は100年前のことを題材としつつも、今のことを考えさせる本だと思います。

2014年12月7日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー