死を愛してしまったひと

ようやく読み終わった『不浄の血』から、ちょっと惹かれた文章をご紹介します。

そうね、あたしは墓場に横たわっていたようなものね。墓場に長く暮らしていると、だんだん愛着がわいて、苦じゃなくなってくるのよ。あの人は青酸カリの錠剤をくれたわ。自分でも似たような毒薬を肌身離さず持ってた。奥さんも息子さんも。あたしたちみんな死と隣り合わせに生きてた。ひとには死を愛することができるの。死を愛してしまったひとは、それしかもう愛せなくなってしまう。解放の時がやってきて、あの牢獄から出るようにって言われたけど、出ようなんて気にならなかった。腰が引けて、まるで屠殺場に引きずられていく仔牛みたいだったわ。(P.265)

この暗さ、なんとも言えない重苦しさ。それがこの作家の真骨頂でしょうか?

風呂

昨日から妹家族が来ています。年明けまでの滞在のようです。

この前も来たばかり、という気がしないでもないですが、今回はクリスマスと正月ということで、前回がイレギュラーな来訪だったようです。

前にも書いたように、妹のところの子供は女、男、女と三人。一番上の姪っ子はこんど小学生。真ん中の甥っ子はこんど幼稚園の年中さん、一番下の姪っ子が春から幼稚園に入園という年齢構成です。この三人、うちに来るとなぜかあたしと風呂に入ると言うのです。今回のように長い滞在になるとそのうちうちの母や自分の親と入ることもあるでしょうけど、なぜかあたしと入りたがるんですよ。

で、昨日、今日とあたしが三人とも入れました。一緒に風呂に入りました。甥っ子はよいのですが、姪っ子二人はどちらも髪が長く、シャンプー、リンスも大変です。こんな歳なので、体も洗ってやらないといけませんし、湯船の中で遊んでばかりいます。

考えてみますと、昔からあたしって親戚の子供の風呂入れを担当しているんですよね。いったい何人の子供を入れてきたでしょう。中学や高校の頃からですから長い歴史があります。既に、あたしが風呂に入れてやっていた子供が父親、母親になっていたりしますから、時の流れを感じます。

それえに引き替え、あたし自身はいまだに自分の子供を風呂に入れることすらできておりません。たぶん、一生そんな機会が訪れることはないのではないかと、最近は半ば覚悟しております(涙)。

霊感は強くはないですが……

昨晩、TBS系で恐怖映像を集めたバラエティ番組が放送されていました。放送された映像は、たぶん素人やアマチュアの映像作家が作った心霊フィルムもどきなのでしょうが、なかなかよくできたものもありました。

そんな映像を見ている間に、タレントが実際に心霊スポットへ行ってリポートしてくるというコーナーがありました。タレントだけではアブ愛というので霊能者のような人が同行していましたが、テレビに出ている霊能者って、九割九分、ニセモノではないでしょうかね? もっともらしいことを言ってタレントや視聴者を怖がらせて、浄霊みたいなことをして安心させるって、子供騙しだなあと思うものの、年末の休みの日に見るには気楽でよいかも、とも思います。

で、そういった霊能者がしばしば発する言葉に、「先程からそこに女性の姿が見えるんです」とか、「あそこにすーっと立っていますよ」といった、いかにも何か霊的な存在がそこにいるかのような言葉です。実際に、そんな風に見えるのでしょうか? そこらじゅうにいるのでしょうか、霊って。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉もあるように、実は何かの影が人のように見えることなのではないでしょうか? 心霊写真なんて半分以上はそうですよね。人の顔に見えるといえば見えるし、見えないといえば見えない、そんなものでしょう。

ところで、あたしは霊感が強いわけではなく、生まれてこの方そういったものを見たことはありませんし、心霊体験も皆無です。ただ、この数年、そこにいない人が見える時があるんですよ。街を歩いていても、どう見たって「枯れ尾花」とは思えないほどはっきりと人が見えることがあるんですよね。これって霊感が強くなっているからなのでしょうか? それとも少しずつあたしが冥界に近づいているからなのでしょうか?

でも、冥界に近づいているってどういうこと?

 

今日の配本(13/12/20)

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スピノザの妬み

来るべき民主主義』を読み始めました。

小平市の都道建設の是非はともかく、一小平市民としてこの本は読んでおくべきだろうと思ったのがきっかけです。もちろん、問題となっている雑木林、鷹の台の駅を出て、広い公園を抜けて津田塾大学へ向かう途中、その津田塾大学の向かいが雑木林ですので、何度も通ったことのある場所です。

さて、本書の初めの方で國分さんはスピノザの妬みについて注釈を付けていらっしゃいます。そこがちょっと気になったので取り上げてみたいと思います。別に國分さんの主張に文句を付けるとか、スピノザの解釈が間違っているだなんて大それたことを言おうというのではありません。

問題の注は第二章に付された14番目の注です。同書243ページで國分さんは

特別なことの利益を享受した人間は、特別な人間でいてくれないと困るのだ。もしその人間が自分と同じ立場の普通の人間ならば、自分と変わらないにもかかわらずその人だけ特別なことの利益を享受して「ずるい」と感じざるをえないからである。そう感じた時に人は、その「ずるい」人間を引きずり下ろそうとする。

と書いています。この文章に間違いはないのですが、あたしはちょっと違います。少なくとも、そんなとき、あたしならこう思います。

つまり、妬んだりしないし、引きずり下ろそうとも思わない。ただ、自分と同じ立場の普通の人が特別なことの利益を享受しているのを見たら、自分はそんな普通の人以下なんだ、普通ですらないんだ、と自分を卑下するようになると思います。もう「ずるい」なんて思って妬む元気も気力も喪失している感じです。

あたしに限らず、昨今の日本の若者って、こんな感じではないでしょうか?

今日の配本(13/12/19)

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クリスマスの悲惨な想い出

このところテレビのバラエティー番組などでは芸能人のクリスマスの思い出話などを聞く機会が増えています。アイドルや俳優、女優になると恋人との甘い思い出話になることも多いですが、これがお笑い芸人になると哀しい思い出を期待されているのか、たいていはそんな話に終始しているようです。まあ、番組上は美男美女の羨ましい話よりも、笑えるような悲惨な話を好むわけですから、こちらもそういった話、時には再現ドラマなどを視て笑っています。

が、ふと、気づいたのです。

あたしの場合、人が羨むような話はもちろんありませんが、人を笑わせるような悲惨な思い出話もないということを。

そもそもクリスマスの想い出というのがありません。あたしはキリシタンではありませんから、子供のころから、いわゆるクリスマスの行事といったものは、せいぜいのところ親にプレゼントを買ってもらう、ケーキを食べるくらいしかありませんでしたし、子供のころの話であれば、これは至ってフツーのことだと思います。

高校生くらいになれば恋人もできて一緒に過ごすなんていうこともありそうですが、そういったことはついぞなく、それは大学時代も、大学院時代も、そして社会人になった今に至るまで継続しております。別に恋人と過ごさなくても仲の良い友達とホームパーティーとか、美味しいものを食べに行くことはないの、と聞かれても、そういう友達というものがいませんので、それもありません。

つまるところ、クリスマスに限らず、恋愛話、失恋話や友人との思い出話全般、あたしの場合、人生においてほぼ皆無だということに思い至りました。それがおかしいとか、寂しいとか、そんな風には考えませんが、テレビで芸能人がこの手の話で盛り上がっているのを見ると、「もし自分が芸能人だったとして、こういう番組にゲストとして呼ばれても、話すことが本当にないなあ」と思うくらいです。つまり、自分はトーク番組、バラエティ番組には向かないんだなあということを自覚するだけです。ですが、次の瞬間、でも自分は芸能人じゃないから、という至極もっともな結論というか現実を思い起こすわけです。

そして、今年もなんということもなく、クリスマスは過ぎていくのでしょう。365日のうちの、とある一日として。

今日の配本(13/12/17)

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