書評、出ました?
いろいろと!
寒い時はより寒く?
晴れてはいますが暖かくはない祝日、建国記念日。より寒さを感じようなんて気持ちは毛頭ありませんが、以前録っておいた映画を視聴しておりました。まずはこちらです。
「フローズン」です。一応、大ヒット映画「ソウ
」のスタッフが再集結して作った作品だと言うことですが、なんかB級感があります。
内容を簡単におさらいしておくと、若者(大学生)三人がスキー場へ遊びに来ます。もう本日の営業時間は終わりというタイミングで、最後にもう一滑りしたいからとリフトの係員に無理を言って乗せてもらうが、係員の交替などで三人がリフトに乗っているのを忘れた(滑り降りてきた別の三人組と勘違い)係員のせいでリフトが止められてしまいます。週末だけ営業するスキー場なのか、運悪く三人が乗ったのは日曜の晩、つまり次の週末までリフトが動くことはない、スタッフなどが見回りに来ることもないという状況です。
最後の一滑りですから時刻はもう日が暮れる頃。あっという間に暗くなり、営業終了したスキー場は照明も消されます。真夜中の山の中、やや吹雪のリフトの上で取り残される三人。飛び降りようにも十数メートルはあろうかという高さです。男子が一人飛び降りますが、足を折り動けなくなり、オオカミの餌食となりますが、週末はふつうにスキー客で賑わう場所に、これだけ野生の狼がいるというのも不思議な話です。日が暮れかけた頃、一台の整備車両がパトロールのようにリフトの下にやってきます。リフトの上からスキー板やスノーボードを投げてアピールするのにパトロール車の運転手は気づきません。これも、いくら寒くて手がかじかんでいる、高いリフトの上からだからコントロールが難しいとは言え、あそこまで近寄っていたのだからボンネットに当てるくらいは出来ると思うのですが、ほとんど当たらず、パトロール車も帰ってしまいました。まあ、ここで助けられたら映画になりませんから、おきまりのストーリー展開ですが。
その後、残った男性がワイヤーをつたって支柱まで移動し、ハシゴで下へ下りて麓まで助けを呼びに向かいます。その後を追いかける狼たち。いつまでたっても戻ってこない男性を、一人寂しく不安に駆られながらリフトの上で待つ女性(最初に飛び降りた男性のガールフレンド)。二人目の男性が移動しようとした衝撃でワイヤーが切れ、ズルズルと下へ落下してしまいます。一気に落ちたのではないので足の骨こそ折りませんでしたが、落ちてきたリフトが向こうずねに当たって、たぶん骨が折れたような感じです。とにかく這いながら麓へ向かいます。途中、支柱から下りて助けを求めに言った男性がオオカミに喰われている現場を目撃しまうs。幸いにも狼たちは男性を喰うのに忙しく、その女性はなんとか麓の国道(県道? 村道?)までたどり着き、通りかかった車の男性に助けられおしまい。
最初の方のシーンで指名手配のポスターを伏線のように映しているシーンがあるのですが、あれがなんだったのか? 最後に助けたドライバーが犯人だった、というドッキリもなければ、助かったと思ったのは女性の妄想で、目が覚めたらやはり自分はまだ一人ぼっちでリフトの上にいた、なんていうどんでん返しもありません。もうひとひねり欲しいところです。
続いて、冷えきった体を温めるのにふさわしいかわかりませんが、鑑賞したのはこちらです。
「血の伯爵夫人」です。劇場未公開の作品だそうです。DVDやBlu-rayも発売されていないようです。WOWOWでやっていたものです。
ストーリーは歴史上の人物、エリーザベト・バートリの物語です。寡聞にして、こんな女性がいたことを知りませんでした。確かに、追いに対する恐怖から正気を失い狂気に走った哀しい女性の物語とも言えます。ナレーションにもありましたが、果たしてどこまでが真実なのか、彼女を罪に問うた側のでっち上げはないのか、歴史学界でも議論があるようですが、恐らく、このような話が語られる何らかの原因は彼女の素行にあったのでしょうね。
最初のうちは、若い男性と恋におちるのだから、もう少し若々しいきれいな女優さんを使えばよかったのにと思いましたが、自分が置いていく恐怖を表現するわけですから、見るからに若くてきれいな女優ではストーリーが破綻してしまいますね。
ワンシージー
よく晴れた日曜日、東京は上野公園にあります東京国立博物館へ行って参りました。目的は現在開催中の王羲之展、円空展を見るためです。
平成館をフルに使っていた王羲之展に比べると、本館の大階段奥の大部屋一つで開催されている円空展とでは、人の混み具合もかなり異なるのではと予想していました。確かに王羲之展の方が多くの人が入っているのでしょうが、円空展も負けてはいません。むしろ会場が一部屋しかないために混雑具合で言えば、円空展の方が立錐の余地がないくらいでした。
さて、まずは王羲之展です。ちなみに、ご存じだとは思いますが、王羲之の「羲」の字は「義」ではありません。「羲」です。上半分の「羊」は共通していますが、下が異なります。もしかすると「おうぎしって漢字で書いてみて」と言うと、多くの人が「王義之」と書いてしまうかもしれないですね。くれぐれもお間違いのないように(笑)。
それともう一つ。王羲之では最も有名と言ってよい「蘭亭序」。まさか、「伊藤蘭の亭主だから水谷豊のこと」なんて思っている人はいませんよね?……(-_-;)
さて、王羲之ですから、基本は書跡です。書籍ではなく書跡です。唐の太宗が国中の王羲之の書を残らず集めた(集めようとした)のは有名な話で、すべて自分の陵墓に副葬品として埋めたから真筆は一つも残っていない、という話も巷間よく聞かれるエピソードですが、史実はどうだったのでしょう?
それはそうと、王羲之の書、そんなにすばらしいでしょうか? 世に能書と呼ばれる人は日本にも中国にも大勢いますが、とにかく書聖と崇められる王羲之が最高峰と言うことになっています。でも、あたし、今回の展覧会を見ても、それほど王羲之の書がよいとは感じないのです。王羲之よりももっと好きな字はありますし、能書かもいます。すぐに名前や作品が出てきませんが、見ただけですばらしい、すごいと思えるような書はほかにいくらでもあり、そんな中で王羲之の書が一頭抜きんでているかと問われれば、あたしにはそうは感じないのです。
もちろん、こういったものはそれぞれの人の感覚、感性によるものですから、「王羲之ってそれほどでもないよね」ということを他の人に強制するつもりはありません。あたしだって決して下手だといってるわけではありません。あくまで王羲之よりも「うまいなあ」と感じる書がほかにあるというだけのことです。
ついで円空展。
円空という名前くらいはどこかで聞いたことがあるなという程度の知識でしたが、なんとも言えない、素朴なぬくもりのある仏様ですね。決して精緻な技巧を施した仏様という感じではありません。もちろん、かなり細かな彫りが施されたものもありますが、多くは荒削りな、言葉は悪いですが、児童の夏休みの宿題の木彫のような、ほのぼのとしたものばかりです。都の貴族が愛好するのではなく、田舎に暮らす庶民が心から信心する対象、そんな雰囲気がある仏像ばかりです。
円空って、鎌倉か室町の人かと思っていたら、江戸前期の人だったのですね。だから仏像もこれだけ残ったのでしょうか?
数年後には?
CDがネット配信によって衰退したというのはよく聞く話です。阪急が書籍のブックファーストと同様、かつてはCDショップのサウンドファーストをやっていたのは知っている人も多いでしょうが、音楽配信が始まってじきにすべて閉店してしまいました。最期のサウンドファーストがなくなってどれくらいになるでしょうか? 書籍業界も電子書籍が始まっているので、いずれは同じ運命をたどると予想している人も少なくありません。
で、こんなニュースがありました。
ほんの一握りの売れる作品と、大多数の売れない作品という二極化。
近年のハリー・ポッターや村上春樹、東野圭吾などの売れ方を見ているようです。芥川賞や直木賞もかつてほどではないにしても、そこそこはまだ売れますが、ノーベル賞など村上春樹が取らなければ、もはや書店店頭の売り上げには何の効果ももたらさないようです。賞がらみで言えば、芥川・直木に比するのは本屋大賞くらいでしょうけど、これも一位以外は見向きもされないとは、書店の人からよく聞く話です。
個性を育むとか、個性の時代とか言いながら、多くの人が右へ倣え、人と同じ流れに乗っていれば安心、という風潮がかなり極端になってきているのでしょうか?
一部の作家の作品だけはミリオンセラーになるけれど、あとは100部、200部作れれば御の字、そんな時代が遠からず来るのでしょうか? もちろん音楽と書籍は、扱い方にしろ、鑑賞するための道具にしろ、かなり差異がありますから、同じように書籍も衰退するとは思いたくありませんが。
イベントです
追加しないの?(←愚痴です)
愚痴っぽいことを書きます。
『父 水上勉』がよく売れています。ふだんお世話になっている書店だけでなく、全国の書店さんから注文の電話がよく入っています。正直なところ、聞いたことないような名前の書店さんからの注文もかなりあります。来週には第三刷が出来上がるのですが、それも出たと同時に品切れになりそうな勢いです。
ところで、愚痴の前に一つお断わり。本書は「ちち みずかみつとむ」と読みます。わかるからよいのですが、注文の電話ではしばしば「みなかみ」と呼んでいる書店員さんがいらっしゃいます。注文の電話であればどちらでも構いませんが、仮名で入力する店内の検索機ではどちらになっているでしょうか? 多くのお店で「みなかみ」になっているのではないかという気がします。うちからの登録は「みずかみ」ですから、わざわざあえて間違った読み方を入力してくれているお役所か機関があるようです(爆)。
で、読み方が間違っているというのが愚痴ではありません。本書の注文のことです。
ふだんうちがよく出すような海外文学の翻訳に比べ、日本人にとってこの本ははるかに取っつきやすいものだと思います。少し前に日経に著者インタビューも載り、最近の注文の入り方を見ていると地方紙などにも書評が載ったのではないかと思われるほどの勢いですが、とにかく水上勉をよく読んでいた世代を中心に、ガイブンほど売りにくい商品ではないと思っています。
ところが注文の電話やファクスは判で捺したように「客注が入ったので一冊注文します」というものばかり。どうして、せめて後もう一冊注文してお店の棚に一冊差しておこうと思っていただけないのでしょうか? 人文書とかガイブンとか、価格が高価なものであれば売れないと困る、という心配もわかります。でも、この本であれば書評効果もあり、売れる可能性は高いと思います。現に売れているわけですから。
しかし、ほとんどの書店は客注の一冊だけしか注文してくれません。「売れていますよ」というアピールが足りないのでしょうか? 告知が十分に出来ていないのでしょうか? それもあると思います。日経に載ったとはいえ、大都市を除けば日経の書評効果など、田舎の方ではほとんど皆無なのかもしれません。
でも、本が売れないと言われている業界だからこそ、ちょっとでも売り上げに繋がりそうな情報は貪欲に活用しないといけないのではないでしょうか? あたしたちが顔を出すお店では、さすがに直接会って「売れている」という情報を伝えるからなのか、「じゃあ、あと3冊追加して、もう一回平積みしてみるね」という流れになり、さらなる売り伸ばしをしてくれています。それなりの結果も出ています。
在庫を抱えるリスクは理解できますし、抱えるにはお店の規模、つまりは資金力がものを言うのもわかりますが、売れる店はますます売れ、売れない店はさっぱり売れないという二極化が進んでいるような気がします。もちろん出版社の営業として売れるように書店に対してで来ることはまだまだあるでしょうし、あたしがそれを十全にやっているのかと問われたら胸を張ることは出来ません。そんな自分を棚に上げて言わせてもらうならば、「売れる店はますます売れ、売れない店はさっぱり売れない」という上掲のセリフは「売ろうとする店はますます売れ、売ろうとしない店ではさっぱり売れない」と言い直したくなります。
「書評が出ても、昔みたいに売れないんだよね」というセリフも気持ちもよくわかりますし真実ではありますが、そんな小さなことでもつかまえて一冊でも多く売るための武器に変えていかないと売れないのではないでしょうか? 売れているお店の書店員さんは我々が持って行くちょっとした書評などの情報でもそれを積極的に活用しますし、こちらが気づいていない情報を独自に入手していたりします。
うーーん、努力したものはますます報われ、努力しないと落後していく。小泉改革というのか、新自由主義というのか、そういうものが蔓延しているのでしょうか?
こういう展開方法も?
本日見本出しの新刊『レニングラード封鎖』は、ドイツ軍がレニングラードへ攻め込み、包囲、虐殺を行なった闘いを追った渾身の一作です。まだ店頭に並んでいないので、売れるのかどうかわかりませんが、いま売れている本に『戦時下のベルリン
』があって、この両書は好一対であります。
一方はソ連軍に攻め込まれたドイツの首都、一方はドイツ軍が攻め込んだソ連の都市。ドイツ史、ロシア史の棚に分かれて置くのではなく、この二冊を並べて置いていただけるとありがたいと思います。
一方で、既に売れているこの『戦時下のベルリン』の周りを固めようというのであれば、こんな本を展開するのはいかがでしょうか?
『ベルリン終戦日記』『ベルリン陥落 1945
』『ベルリン・オリンピック1936
』『ヒトラーの最期
』などはいかがでしょうか? いずれも大戦中のドイツ、ベルリンを活写した記録です。
こんなトークイベント!
講談社現代新書の『中国共産党の経済政策』と日経プレミアシリーズの『中国台頭の終焉
』を読み終えました。
中国モノというと、得てして権力闘争など政治を中心に追ったものが多く、そういう観点からいたずらに中国強理論を煽ったり、逆に中国賛美に流れたりしがちなものが多く見受けられます。確かに中国に数年滞在したり、長年中国相手に仕事をしていると、他人の著作が語る中国像に異議申し立てをしたくなる気持ちもわかります。自分こそは中国の真の姿を理解していると言いたくなる気持ちもわかります。
ただ、近頃、そういう本に少し飽きてきました。そんなときに読んだのがこの両書です。どちらも、中国の経済データや統計を使って中国の経済成長を分析した本です。経済用語、金融用語を知らないと、ちょっと理解しづらいところもありますが、使っているデータ、観察しているはずの中国の実勢はどちらも同じものや似たようなものが多く、議論のベースは共通しているところが多々あると思われます。
が、一方は比較的楽観的な見通しに立ち、むしろそれに乗り、それを利用して日本も飛躍すべきだと説き、一方はかなり悲観的に中国の将来を語っています。著者はどちらも数年間ずつ北京の日本大使館で働いた経験を持ちます。その勤務した時期の違い、あるいは著者の年齢の違いがこういう結論を導いているのでしょうか?
もし、あたしが書店のビジネスや国際情勢の担当者であれば、是非ともこの両書の著者の対談をセッティングしたいところです。もちろんそれを仕切れる司会者、アンカーマンが必要になるかもしれませんが、変な感情に流れず、データに語らせる中国論として非常に面白い対談が実現するのではないかと思うのですが……
もちろん、この両者は対立する本ではありません。恐らく同じデータを、一方は出来るだけよい方に、そして中国と中国人の努力を好意的に見ようとし、もう一方は最悪の状況を想定しつつ、過剰な期待を持たずに導き出したものなのだと思います。