記憶遺産

ユネスコの世界記憶遺産に「東寺百合文書」と「シベリア抑留」が選ばれたというニュース。中国の「南京大虐殺」も選ばれたということで日本政府は抗議をしているようですが、覆りはしませんよね。拠出金を減らすといった意見も出ているみたいですが、どのあたりが問題なのか、テレビや新聞ではまだ詳しく報じていないので気になります。

ところで、百合文書はさておきシベリア抑留ですが、これは満蒙開拓とも切り離せない問題だと思います。たとえば平凡社新書の『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』なども、メインは満蒙開拓団ですが、シベリア抑留についても触れている箇所があります。ですから、書店でも、もし記憶遺産関連でフェアをやる場合、満蒙開拓団関係の書籍も忘れない方がよいのではないかと思います。

 

もちろん、シベリア抑留を扱った書籍も多いですから取捨選択が大変でしょう。けれども忘れてはならないのは『凍りの掌』ではないでしょうか。、

天文ショー

昨日の朝、4時半ころ、朝刊を取りに玄関から外に出て、東の空を見上げると、きれいな月のすぐ脇にひときわ明るく輝く一つの星が。

明けの明星、金星ですね。

明けはじめてた夜空のグラデーションととてもマッチしてきれいでした。晩のニュースでも天気予報のコーナーなどで報じているのを視ました。そしてその折りに、今朝は金星は月から少し離れるけど、こんどは木星も一緒に見られるはず、と伝えていたので、いつもよりは遅いものの早起きをして東の空を見上げてみました。それがこちらです。

上の方に明るく輝いているのが金星です。下の方に三日月が見えます。そして三日月の左の方、うっすらと見えているのが木星だそうです。早起きした甲斐がありました。

ノーベル賞の季節

今週はノーベル賞ウイークだそうです。ノーベル賞の各賞が順次発表になるそうで、あたしの属する業界としては文学賞が最大の注目なのですが、ニュース報道では日本人が候補となっている理系の賞に注目が関心が集まっているようですね。

この時季になると、書店によっては店頭で村上春樹のフェアを始めるところも多いですが、今年はあまり「ハルキ、ハルキ」という声が聞こえてこないのはあたしのアンテナの感度が悪いせいでしょうか? あるいはこれまでの受賞者の書籍を並べたフェアなどをやる書店もありますが、今年はこれもあまり目に付きませんが……

そんな中、今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

日本でどれほど有名なのかはわかりませんが、ガイブン好きならほとんどの人が知っていると思われる、イタロ・カルヴィーノが登場しています。記事の中に彼の代表作として挙がっているのが『木のぼり男爵』です。

ちなみに、記事を読めばわかりますが、カルヴィーノは受賞者ではありません。が、確か昨年、新宿の紀伊國屋書店では、「受賞していてもおかしくない作家フェア」(フェア名はうろ覚え……汗)をやっていましたね。そういうフェアもありだと思います。

さて同書は、あたしの勤務先の刊行物ですので、どうぞよろしくお願いいたします。

って、この本、いま「在庫僅少」なんだ! どうしましょ?

マグナ・カルタ

今朝の朝日新聞に、こんな記事が載っていました。

今年はマグナ・カルタのアニバーサリーイヤーなんですね。

「マグナ・カルタ」って世界史の授業では覚えさせられた記憶がありますが、それが何のことだったかは実はよく知らず、「確か、大憲章とも言うんだっけ?」くらいの知識しか残っていません。

で、この記事からの関連図書のご案内。

 

ジョン王』、そして『プランタジネット家の人びと』です。

どうしたら「独立」は認められるのか?

スペインのカタルーニャ地方が独立できるのか否か、ニュースでも報じられています。

カタルーニャと言われても「どこ、それ?」という日本人も多いかも知れませんが、バルセロナと言われれば、なんとなくわかる方も多いのではないでしょうか?

さて、カタルーニャ州の独立についてスペイン政府はすぐさま「認めない」という声明を出していますが、こういうのってどうしたら認められるのでしょうか?

たとえば近いところでは中国のチベットや新疆。独立運動がずーっと続いていますし、もちろん北京の中央政府は認めようとしません。むしろ弾圧姿勢で臨んでいます。統一国家として、その領土の一部が独立を宣言するのは国家転覆になるのでしょうか? そこまで過激な言葉を使わなくとも、いったいどうやったら独立は認められるのでしょうか? そう言えば、最近、こんな本が出ていましたね。

現代新書の『独立国家のつくりかた』です。この本を読めば独立の仕方ってわかるのでしょうか? 例えば、日本で考えた場合、北海道が独立するとか沖縄が独立するといった(確かに琉球時代の沖縄は独立国だったような……)住民投票が現地で可決されたり、その地域の議会が可決したら、日本国政府はもちろん認めないでしょうが、それって法律的には何を根拠に認めないと言えるのでしょうか? 逆にどういう手続きを踏めば独立できるのでしょうか?

などといろいろ考えてしまいますが、とりあえず話題のカタルーニャについてはこんな本がお薦めです。

 

ニューエクスプレス カタルーニャ語』と『カタルーニャの歴史と文化』です。

 

他社のものでは『物語カタルーニャの歴史』や『カタルーニャを知る事典』などがお手頃だと思います。

ちなみにスペインではカタルーニャ州だけでなく、バスク地方も独立の機運がありますよね。そのバスクについてはこんな本があります。

  

バスク人』『バスクとバスク人』『バスク語のしくみ』などなど。

うーん、これ、この問題が更に大きなニュースになるようだったら、コンパクトなフェアが出来そう?

西蔵

このところ映画「ルンタ」が話題になっているからでしょうか、西蔵関係のニュースが新聞でも目に付きます。

朝日新聞には昨日も今日も記事がありました。記事にもあるように自治区成立50周年という節目であることが最大の理由でしょう。

中国の憲法では、一応は信仰の自由は保障されているわけですが、それはあくまで共産党の指導の下においての自由であり、共産党の意に沿わないものはすべて国家転覆と見做され処罰の対象となり、それが高じて弾圧となっているのが現状だと思います。

チベットの人は、ダライ・ラマがはっきりと言っていますが、決して中国からの独立を望んでいるわけではないと思います。もちろんこの数年、特に厳しさを増す中国政府の締め付けに対し本気でチベット独立を考えている人も増えていると思いますが、まだまだ多数派ではないと思われます。

ちょっと極端なことを書きますが、中国は盛んに「歴史的に」という言葉を使います。チベットだけでなく内モンゴルや新疆、台湾も尖閣諸島も、そして南シナ海の諸島についても、この言い回しをよく使います。つまり、それらの地域か昔から中国の領土であったと。ただ、中国が言うところの「領土」というのは現在の国際社会における国民国家としての「領土」というものとはまるで異なります。

いや、これを言い始めたら、たぶん堂々巡りになって決着が付かなくなるわけで、そうなると、今は中国も加わっている現今の国際社会のルールに従うのが妥当、穏当なのではないかと思います。そうなると、たぶんチベットは中国の領土ではなくなるでしょう。そうなると、今のような強権的な、高圧的な支配の仕方は取れないはずです。ただ、その上で、そこまで中国政府が譲歩した上で、さてチベットの皆さん、現今の国際社会で言うところの独立国になりますか、それとも中国の自治区のままでいますか、と問うたなら、あたしは案外チベットの人は中国に残ることを選択するのではないかと思います。

アメリカ合衆国は州によって法律がかなり異なるそうです。同性婚を認めるか認めないか、個人が銃を所持することを認めるか認めないか。ここまでやるのは極端かも知れませんが、このくらいの独立性、いや独立性という言葉に中国政府がアレルギーを持つのであれば自主性を中国の各自治区が持てるのであればチベットや新疆の騒乱もかなり収まるのではないでしょうか?

呉越同舟? 同床異夢?

安保法案反対の国会デモ。

ニュースによると安保法案賛成の街頭行進もあったのだとか。まあ、いろいろな意見を表明できるのが民主主義社会でしょうから、それはそれでよいとして。

安保法案反対のデモって、どれだけ間口が広いのでしょうか?

ニュースではほとんど伝えていたないと思いますが、いま審議されている安保法案、そういった法案を作るのには賛成だけど、憲法違反の法律の制定は許せない、という考えの人もいると思います。つまり、きちんと憲法改正から手を着けるべきだ、という意見です。

もちろん、合憲か違憲かには関係なく、とにかく安保法案は戦争法案だから反対、という意見も人も多いと思います。

今回のデモ、国会包囲、果たして、皆さん、同じ目標を抱いているのでしょうか?

こういうのを同床異夢というのでしょうか? それとも呉越同舟?

ショッピングモールの近未来?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

アメリカでショッピングモールが苦境にあえいでいるという記事です。日本もこの数年来、大都市近郊から地方に至るまでショッピングモールが乱立しています。状況はアメリカと変わらないのではないでしょうか?

出版社の営業という立場から見ると、郊外にショッピングモールが出来、そこに大型の書店が入ると言うのは販売機会が増すということになりますから、一概に否定すべきことではありません。特に巨大モールですと、中に入る書店の坪数もかなり大きくなりますから棚はふんだんにあります。小さな書店ですと語学書売り場は英語ばかり、せいぜい中国語や韓国語、仏独をちょっと置いていますということになりがちですが、大型店ならマイナー言語まで置くスペースが出来ます。文芸だって、日本人作家のものだけではなく、海外文学を並べることが可能になります。もちろん必然的に専門書などの棚もそれなりに充実してくるでしょう。

とまあ、よいことづくめのような感じですが、その一方で、昔からの商店街にあった老舗の書店の客が奪われ、経営状況が厳しくなるということもあり、なかなか難しいところです。特に、老舗書店で本を買ってくれていたような人が郊外のモールにまで足を延ばすのか、そのあたりがわかりません。郊外のモールはどうしても中高生や若い夫婦、家族が中心という印象がありますから。でも、こういった現象は書店に限ったことではなく、他の業種でも同じようなことが起きているのではないでしょうか?

さて、以上は一般論で、実際に出張で地方へいったときに、あるいは首都圏の郊外のモールなどへ行ったときに、実際に目にしてどう感じるのか……

訪れるのは平日の昼間が多いので最も集客ある土日の状況はわかりませんから、多少は一方的な見方、偏見が混じっているかと思いますが、その前提で書かせていただきますと、意外とお年寄りが目につきます。午前中からおじいさんやおばあさんが娘と孫と一緒に買い物に来ていたりするのが目に留まります。あるいは娘や孫抜きで、おじいさんやおばあさんだけでドトールなどのコーヒーショップで珈琲なんか飲んでいる姿を見かけます。

あたしの一方的な思い込みでは、お年寄りがそういったファストフード店へ入るという予想はなかったので、これは意外な、そして新鮮な驚きでした。そして、午後になると、2時や3時すぎくらいからは学校帰りの学生が多くなるのは予想どおりです。こういった平日の客層を見る限り、諸外国語や海外文学や専門書を売るのは難しいなあと思うのが正直な気持ちです。もちろん、若者向けのファッションブランドも書店以上に厳しいのではないでしょうか?

厳しいだろうと感じる、その証拠と言ってはなんですが、遠いので頻繁には行けませんが、それでも年に一回か二回訪れるようなモールでは「ニューショップ、オープン」とか、「リニューアルオープン」というテナントの貼り紙をよく見かけます。新しいお店が出来ると言えば聞こえはよいですが、つまりその前に入っていたテナントが立ちゆかなくて撤退したということですよね。売れないから諦めた、はっきり言ってしまうと、そういうことではないでしょうか? こういう貼り紙が増えれば増えるほど、そのモールは調子悪いんだな、と感じてしまいます。

 

こういった郊外論もこの数年来、いろいろな本が出ています。それなりに売れた先駆的なのものは『ファスト風土化する日本』ではないかと思いますが、いかがでしょう? そして論点こそ少しズレますが、あたしの勤務先からも少し前に『ショッピングモールの法哲学』という本を出しております。カバー写真が、妙に朝日新聞の記事に載っている写真と似ている気がするのはあたしだけでしょうか?

戦後70年と言うより、アコーディオンの音

今年は戦後70年で、今日をピークにいろいろなことがありましたし、引き続きあります。たぶん、そんな中で一番の注目は戦後70年談話だったのではないでしょうか? 結果的にどうでしたでしょうか? 新聞やテレビで既にかなりの論評が出ていますが、「まあ、あんなものだろ」という予想の範囲内だったという意見が多いのではないかと思います。

個人的にいろいろ思うことはありますが、その中で気になったのは日露戦争の位置付け。談話では「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」とあります。確かに「あんな小さな島国の日本が超大国ロシアを破った」ということ、「日本もつい少し前に近代化を始めたばかりの後進国だったのに、やり方次第ではヨーロッパの先進国に負けない国力をつけられるんだ」という事実は、いずれも植民地支配に苦しむアジア各国の人びとに勇気を与えたのは事実でしょう。でもその後の日本の歩みが、果たしてアジアの人たちに勇気を与えるようなものだったのかは疑問です。そのあたりのことは『アジア再興』を読むとよくわかると思います。どれだけアジアの人たちが日本に裏切られたのか、ということが。

その他、戦争を語り継ごうという特集が多く見られますが、あたしにとって戦争は非常に遠い出来事です。もちろん直接知る世代ではないことはもちろんなのですが、父方・母方どちらにも戦争に行った人がいないし、誰も戦争で亡くなっていないのです。父は昭和10年生まれで、戦争当時は房総の方にある本家筋へ疎開していましたが、田舎でのんびり、のびのび育ったような話しか聞いたことがありません。母は昭和18年生まれで、新潟の山の中の農家でしたから、ほぼまったく戦争の記憶はないようです。せいぜい村に疎開してきていた人が大勢いたということくらいのようです。

というように、あたしにとって先の大戦は非常に遠いものなのです。さらに気持ちの上でも遠くしているのが、幼いころに見た傷痍軍人の姿です。これについては以前このダイアリーに書いたことがありますが、当時住んでいた巣鴨のとげぬき地蔵の地蔵通り、巣鴨駅川の入り口付近にはアコーディオンを弾く傷痍軍人の姿がありました。余談ですが、だから、あたしはアコーディオンも嫌いなのです。どうしても好きになれません。

この腕や足のない初老の男性たち、子供心には恐怖以外の何ものでもありませんでした。もちろん当時のあたしには傷痍軍人という言葉も存在も知るよしもないですし、あの人たちがどうしてああいう姿になってしまったのか、両親に尋ねるような勇気もありませんでした。ただただ怯えていただけです。幸いに、当時のわが家はとげ抜き地蔵の高岩寺を中心に考えると、巣鴨駅とは反対側にあったので、高岩寺を越えて駅の方まで歩かなければ傷痍軍人を見ないで済みましたので、滅多に駅の方まで行くことはありませんでしたが。

で、やはり一番思うのは、今年は戦後70年というけれど、多くの識者が指摘するように戦前回帰のような空気が感じられます。戦前の日本だって戦争なんてする気はなかった人がほとんどのはずです。政治家も陸軍の中にすら戦争を目論んでいたのは少数だったと思います。それでもちょっとしたことから戦争は起きてしまうのです。第一次世界大戦が良い例です。そうならないために法律とか憲法とかいろいろな歯止めをかけているわけですから、それを一つ一つ無効化しようとしている現在の政治は、やはり戦前回帰と呼ばれても仕方ないのではないかと思います。戦後70年が新たな戦前元年にならないことを祈ります。

またドイツの戦後の歩みと比較されることも多い日本の戦後ですが、そのドイツですら、昨今はネオ・ナチがまた勢力をつけてきているわけで、『過去の克服』はそう簡単なことではない、常に心を引き締めてかからないと、いつなんどき復活してくるかわからない、油断のならない過去、決して活動をやめることのない活火山みたいなものなのではないでしょうか?

談話では「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」とも言ってますね。これなど、「あんたら愚かな政治家が、バカな発言を繰り返すから、いつまでたっても謝罪を要求されているんじゃないの?」と言いたくなりましたが、いかがでしょう?

毎年この時季になると自分が結婚できない理由を深く自覚させられるのです

お盆休みです。サービス業など、休みでない社会人も数多いと思いますが、この時季に働いている人と働いていない人、実際はどのくらいの割合なのでしょうね? 大企業などでも、一斉休暇はなくて各自がそれぞれの予定に合わせて取る、というところも多いのではないでしょうか?

さて、それでも盆暮れは日本人の大移動シーズン。テレビのニュースでは(関東の場合)、東名高速をはじめとした各高速道路の渋滞情報、東京駅発着の新幹線の混雑情報、羽田発着の飛行機の搭乗率など、ほぼ必ずトップで取り上げられています。高速の場合は、局の車に乗ってリポーターが渋滞中の高速を進む車の中やサービスエリアから中継、東京駅のホームで列を作っている家族連れにインタビュー、羽田や成田からもインタビュー映像が届きます。

そういうインタビューを見るたびに、「ああ、あたしはやっぱり結婚できないよなぁ」と感じます。

まず、両親の田舎というものがほぼないので、盆暮れに渋滞を乗り越え帰省するという習慣がありません。だから、あんなに混雑した中、荷物を持ち、もみくちゃにされながら電車や飛行機に乗るなんて、考えただけでもゾッとします。あたしにはとてもできないと思います。

もちろん、結婚相手が東京の人であれば、帰省などと大げさに考える必要はないわけですが、そんな都合よく相手が見つかるのでしょうか? それにたとえ東京や近郊に実家があっても、この数十年「帰省する」という行為自体と無縁に生きてきたわけですから、距離の遠さや近さもあまり関係ない気がします。はい、他人の家へ行くのが好きではないのです。

さらにテレビのインタビューなどを見ていて思うのは、しばしば親が口にする「ずっと仕事が忙しかったので、少しは家族サービスをしないと…」とか、「子供に夏休みの想い出を作ってやらないと…」といったセリフの多さです。いや、テレビ局としてはいかにも円満な仲良し家族を演出するためにもそう言わせている、そういう答えだけをオンエアしている面はあるかと思いますが、忙しい仕事の合間のささやかな夏休みに、体を休めることもできず、ラッシュと同じような満員電車に揺られて帰省しなければならないお父さん、お母さん、気の毒だなと思います。

「子供のため」という気持ちはわかります。あたしだって子供は好きですから、そういう気持ちはよーくわかります。でも気持ちはわかっても体がついていかない。悲しいかな、それが現実です。もちろん、財布の中身だって、ついていかないどころか、とうの昔に落伍しています(汗)。

盆暮れに、テレビでこういう報道を見るたびに、「羨ましいなぁ」という気持ちよりも、「あたしには無理だ」という諦めの気持ちの方が強く感じられるこの数年です。