やはり、ニャンではなくワンだ!

少し前に新宿の東急ハンズで猫のフェアをやっているということを書きました。その時にあたしはネコ派ではなくイヌ派であって、犬のフェアもやって欲しいと書いたのですが、始まっていました!

犬のフェアです。京都の和んこ堂というところが出店しているようです。いろいろ雑貨が売られていて目移りしてしまいます。

まさしく東急ワンズですね!

「百科」という言葉

辞典などの名前に、しばしば「百科」という言葉が付くことがあります。そもそも「百科事典」などという単語があるくらいですから、「付くことがある」なんていう頻度ではないのかもしれません。

かくいう、あたしの勤務先も近々『洋菓子百科事典』という新刊を出します。ちょっとお高い本なので、内容見本兼パンフレットを作りました。

上の写真は、二つ折りのパンフレットを開いた状態です。全体の感じは下の動画をご覧ください。

ところで、この「百科」という言葉、「百科全書」あたりから来ているのだと思いますが、ずーっと百科のままなのでしょうか?

何が言いたいかと言いますと、例えば「マンション」の価格が上がり「億ション」と呼ばれるようになったのはちょっと下世話な感じですが、中国でも新たに生まれてきた金持ちを「万元戸」と呼んでいたのですが、いつのまにか「億元戸」という単語まで生まれていました。

こういう風に単位を使う言葉って、徐々に位が上がっていくものだと思うのです。だから、「今の時代、百科なんかじゃ足りない、千科だ、万科だ」という言葉が生まれてきてもよいのではないか、そう思うのです。

もちろん「百科全書」という言葉があまりにも人口に膾炙しているという現実がありますし、「千科」「万科」の語呂の悪さも原因かと思います。ただ、こういうのって、慣れてしまえば昔からあったかように誰もが口にするようになりますから、やはり理由としては弱い気がするのです。

でも、こんなことが気になるのって、あたしだけなのでしょうか?

余計なお世話な気がした~初恋芸人~

NHKの「初恋芸人」を見ています。

いかにもモテそうになく、自分に自信も持てない主人公は、非常にシンパシーを感じます。その主人公に突然降って湧いたようなモテ期。

ヒロイン松井玲奈扮する市川さんが、グイグイと主人公にモーションをかけてきます。いや、進行中のドラマでは、既に市川さんは主人公の師匠である小堺一機と結婚することになっていて、主人公は大爆死、ということがわかってしまっているのですが……

その前の回。ひょんなことから高校の同窓会に無理矢理出席させられ、その場で起死回生、学生時代のトラウマを払拭するような活躍を見せ、自分にかなり自信が持てるようになった主人公。

そんな主人公に親友である溝端淳平が「市川さんに告白しなくていいのか、付き合いたいと思わないのか」と焚きつけます。そして、主人公もその気になり、市川さんに告白しようとするのですが……

あたしが腑に落ちないのはこの溝端淳平の言動です。確かに、クラス中からバカにされていた主人公に対し、いつもやさしく親身になってくれていた好青年なんですが、告白させることがよいことなのか、あたしには疑問です。

主人公もその気になって告白しようとする、市川さんと付き合いたいと思う、その思いを実現させようとする、というドラマにはありがちな流れですが、果たしてこれは正しいのでしょうか?

このドラマでは主人公が告白する前に市川さんの結婚が明らかになってしまったわけですが、そうでなかった場合、たいてい現実は主人公が告白してもフラれて終わりでしょう。それがわかっているから、告白なんてしないのです。

数打ちゃ当たる、というのは真実かもしれませんが、モテない人生を送ってきた人間には、数打てるほどの弾なんてないんです。もしかすると、一発も持っていない人だっていると思います。「いや、そんなことはない。誰だって何発かは持っているはずだ」と、したり顔で慰めてくれるのでしょうか、溝端くんは?

でもですね、モテない人生を送ってきた人っていうのは、その人生の途中で、知らず知らずのうちに弾を落としてきてしまっているのですよ。あるいは持っている弾の使い方がわからず、みずからそれを捨てたかもしれません。そして、今の今まで後生大事に持っていた弾は一発だけ。それが見事、相手に命中する確率なんて、今まで一発も撃ったことのないド素人には、まずゼロではないでしょうか?

それなのに打てと言われても、ね。

絶対に当たる、それこそ外しようのないくらい至近距離から撃つのでなければ、撃とうとは思いません。しかし、そんな距離まで近づいてくれるような異性がいるわけもないです。

それがモテない人間に突きつけられた冷酷な現実というものではないでしょうか?

天国ではない?

パナマ文書のニュースでしばしば耳にするタックスヘイブン。

タックスヘイブンって何だ? という日本人も多いのではないでしょうか? だからなのでしょう、ニュースではほぼ決まってタックスヘイブンと言った後に「租税回避地」という日本語訳が続きます。

でも、租税回避地と言われても何のことやら一般庶民にはさっぱりです。うまいこと、法の網をすり抜けて節税ができる場所、縁のない庶民から見れば限りなく脱税に近いことができる場所、という意味でしょうか?

あたし、最初に聞いた時は「タックスヘブン」だと思っていました。曰く、税金をうまいこと逃れられる、つまり金持ちにとっては天国のような場所、という嫌味もこめて「ヘブン」と呼んでいるのかと……

でも綴りが違いましたね。heavenとhavenですか?

ちなみに蔵書印

先程は蔵書票について書きまして、その中で、日本や中国などは蔵書印の方がメジャーではないか、と書きました。

これについて、確かなことを知っているわけでもありませんし、学問的な裏付けがあるわけではありません。ただ、書画の巻物などには昔から所有者の印が押されているのを展覧会などでしばしば目にしていますので、蔵書印という文化が中国や日本にあるのは間違いないとは思います。

閑話休題。

上の写真はあたしの蔵書印です。

はい、あたし、自分の蔵書印は持っているのです。「罔殆蔵書」と彫ってあります。

「罔殆」は『論語』の「学びて思わざれば則ち罔し」から取っております。ブクログも「罔殆庵藏書樓」と命名していて、あたしなりの座右の銘的なものです。

特急の奇数と偶数

NGT48の「Maxとき315号」という曲をテレビで見ていて思いました。

歌詞をちゃんと確認したわけではないけど、これって東京から新潟へ向かうという設定なのよね、って。

何故かというと、「315号」だからです。

言わずもがな、JRの特急は、東京から地方へ向かう、東京以外の土地なら一般に下りと呼ばれる方向に走る列車が1号、3号、5号……と奇数番号、逆に東京へ向かう、上り方向の列車は2号、4号、6号……と偶数番号を使うというルールになっているからです。つまり、315号という奇数番号の新幹線は東京から新潟方面へ向かう列車になるわけです。

そんなの当たり前でしょ、という方も、若い人を中心に多いと思いますし、若い方でも特に列車に興味のない方は「へえー、そうだったんだ」という感想かもしれません。ただ、40代以上の人だと、下りは奇数、上りは偶数というのが必ずしも常識にはなっていなかったりします。

何故かといいますと、かつては上りも下りも特急の番号は1号、2号、3号と振られていたからです。つまり東海道新幹線で言うならば、東京発のひかり1号もあれば、東京へ到着するひかり1号もあったのです。

これは新幹線に限らず、在来線の特急でも同じでした。ですから、往年のヒット曲、狩人の「あずさ2号」も新宿発の列車という設定になっています。この曲が発売された当時は、新宿朝8時発のあずさは2号だったのです。たぶん1号は7時発だったと思います。

ということは、逆に今の若い方にはまるっきり信じられないことかもしれませんし、上りと下りで同じ番号があったら混乱しそう、という意見も頷けます。たぶん、そういうこともあって、ある年に一斉に変更したのでしょう。

で、その変更のあおりをうけ、この「あずさ2号」は「このまま歌い続けてよいのか?」などという議論も当時は真面目に語られたりしていたものです。もちろん一斉に変更になる前日、新宿8時発の最後のあずさ2号が新宿駅を発車するところは大きな話題になり、ニュースでも盛んに取り上げられていました。

まあ、そのあたりのところはウィキペディアにまとめられているようなので、そちらをご覧ください。

グータッチ

フジテレビ系の新番組「ライオンのグータッチ」を見てみました。

いや、なに、「なあちゃん」こと乃木坂46の西野七瀬がMCで出ているからなのですが……

で、フジテレビ系と上に書きましたが、この手の休日午前の番組って系列局でも放送されているのでしょうか? もしかしたらフジテレビのみ、つまり関東ローカルなのかも?

それはともかく、なあちゃん、やっぱりカワイイですね。

番組の内容はスポーツをする少年少女たちを応援するってコンセプトなのでしょうか? あるいはスポーツに限らないのでしょうか? 今回は四年間レスリングに打ち込むものの、いまだ公式戦で勝利したことがない少年(小学4年生)が、悲願の初勝利を目指して奮闘するというストーリー。浜口京子に指導してもらったり、大会の初戦対戦相手が全国大会三位の実力者だったり、二年生の弟は既にそのクラスの全日本チャンピオンだったりと、なんか初勝利に向けてドラマのお膳立ては揃いすぎている感じです。

もちろん、そう簡単に勝てるわけもなく、結果は完敗。ただ、これまで試合開始数十秒でフォール負けしていた少年が、全国三位を相手に試合時間最後まで戦い抜いたというのはかなりの成長。監督もこれまでで一番内容がよかったという褒め言葉。

VTRに涙するなあちゃん、カワイイ。

で、土曜の午前に見るには、いかにも健全な番組なのですが、あたしは、ふと疑問を抱きました。

本人が好きでやっているのだから、とりあえずはよしとしますが、この少年にこれからもレスリングをやらせるのでしょうか? 全国チャンピオンの弟はともかく、この主人公の少年は果たしてレスリングを続けるべきなのか、親目線というか、大人目線では悩みどころです。

あたしはレスリングはド素人だからわかりませんが、彼にレスリングの才能があるというのであれば続けさせるのはよいと思いますが、別の才能の可能性を探すというのも方法ではないでしょうか? 四年もやって勝てないのであれば、「向いてない、才能がない」という判断もありだと思います。

そうなると、その子に向いている才能を伸ばしてやるのも親や大人の務めではないのか、そういう気もするのです。弟はスポーツに向いていたけど、お兄ちゃんは文化系だったかもしれないし、あるいは理系なのかもしれませんから。

海外文学と中国

藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』を読んでいて、アメリカ的なものを背負わない作家が増えているということはわかります。アメリカ生まれアメリカ育ちの、まさしくアメリカ人作家もそうですし、外国からアメリカに渡ってきて英語で執筆するようになった作家ももちろん増えているようです。

誰もが普通に英語を使い、英語で執筆する、それがグローバル化なのだと言われてしまえばそうなのかもしれませんし、今後のアメリカ文学の流れ、ひいては世界の文学の潮流、藤井さんも楽しみながら眺めているのではないかと思います。

さて、こういう文章を読んでいてあたしが思うのは中国のことです。フランスなどは英語を使うのを減らそうと躍起になっているようですが、やはりヨーロッパの共通語は英語だと思いますし、アメリカのスタイルがスタンダードになっていると思います。アメリカと争った共産圏もアメリカ文化の軍門に降ったと言えると思います。

テロの掃討がうまく行かない中東だって、結局は英語を使い、アメリカ文化の影響は著しいものを感じます。だからこそのアイデンティティの確認、そして極端なテロ行為なんだと思います。

ですが、中国です。

これまで世界の国々はアメリカに対峙して、結局はアメリカに飲み込まれていった、アメリカの影響下に置かれるようになってしまったわけですが、中国だけはそれに抗して、独自の立場を貫こうとしているように感じます。

いや、中国だって、政府高官の子どもはみんなアメリカに留学しているし、エリートはおしなべて英語が話せるし、身の回りのものはアメリカを中心とした欧米の製品ばかりです。

それでも、中国は、これまでアメリカが対峙してきた諸国とはやはり違うと感じます。アメリカへの挑戦の仕方が異なるというのでしょうか、とにかく、あたしにはそう感じられます。それが、アメリカにはない歴史の重みなのか、歴史を背景とした自国文化に対する揺るぎない自信なのか、それはわかりません。

そんな中国の文学が、世界文学に加わったら、文学にどんな影響を与えるのでしょうか? 既に莫言のノーベル文学賞受賞のように世界に認められている中国文学ですが、世界の作家にどれだけの影響を与えているのか、となるとまだまだなのかもしれません。

中国文学は英語に屈せず独自の道を歩むのか、それとも英語に取り込まれてしまうのか、とても気になります。そんなことを考えながら読み終わりました。

母語で……

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

国際文芸フェス絡みの記事です。フェスは既に終わっていますし、この業界外の人、海外文学に興味のない人には「へえ、そんなイベントがあったんだ……」という程度のものでしょうが、やはり海外文学好きには一大イベントです。数日間とはいえ短期のイベントなので、どうしても一過性になってしまいますが、書店でフェアをやったり、こうして少したってからでも新聞などに記事が載れば、それなりに盛り上がりの一助になります。

さて、記事で取り上げられているのはイーユン・リーさん。中国出身ながら英語で執筆している作家です。その、母語ではない言語で執筆していることについて語っていますので非常に興味深いです。

  

この母語では書けないというリーさんの問題意識と、ある部分では重なりつつも、また異なった視点を与えてくれるのは温又柔さんではないでしょうか?

  

そしてそこまで話しが及ぶなら、温さんの『台湾生まれ 日本語育ち』について沼野充義さんが書評で触れていたように、『文盲』のアゴタ・クリストフや『べつの言葉で』のジュンパ・ラヒリなどに触れざるを得ないのではないでしょうか?

そして、何語で書くのかということに拘るのであれば、藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』の一読をお勧めします。