男尊女卑的な?

TBSの枡田絵理奈アナウンサーが広島東洋カープの堂林選手と結婚した(する?)というニュース。

女子アナの中では枡田アナが一番好きだったあたしとしてはかなりのショックなのですが、それはさておき、このニュースを聞いてちょっと思ったことを。

とりあえず枡田アナは今のところ妊娠はしていないようですが、アナウンサーを辞めるのでしょうか? 報道では特にそういうことは書いていませんね。でも、キリのよい時期で辞めちゃうのでしょうか?

一般にスポーツ選手と結婚した女子アナは、アナウンサーを辞めて選手の健康管理などに精を出す、というパターンが多いようです。仕事を続けるにしても激務の局アナは辞めて、フリーで仕事選びながらというパターンが多いのではないでしょうか。もちろん、既に引退した選手と結婚したならば、また話は違ってきますが……

ただ、いずれにせよ世間一般は、女子アナの方が仕事を辞めて、旦那さんであるスポーツ選手の心や体のケア役に徹すると考える人が多いようです。その選手が結婚を機に活躍すれば「内助の功」と褒められ、成績が伸び悩めば「女子アナ上がりだから、きちんとしたことができていないんだ」といった具合に責められます。もし仕事を辞めずにいて選手の成績が伸びなければ、それこそぼろくそに言われてしまうでしょう。

でも、皆さんどうしてそう考えるのでしょう?

例えば、スポーツ選手の方が自分のプロとしての実力に見切りを付けていて、それに対して相手は、女子アナとして日本一のキャスターにまで上り詰められそうなくらい優秀であれば、競技を引退し、自分が日本一の女子アナのサポート役に徹するという生き方だったあるのではないでしょうか? あるいは男子アナが女性アスリートと結婚した場合はどうでしょう? 彼女が今以上の実力を発揮して、安心して競技に打ち込めるような環境を作るために、自分がアナウンサーを辞めて彼女のサポート役になる、という選択肢だってあるはずです。

もちろん、そういうカップルは何組もいるのでしょうけど、一般に報道される場合、そのパターンが紹介されることってほとんどないですよね。やはり男と女の役割分担という先入観があるからなのでしょうか? もちろん、二人が相談して、どちらかが仕事を辞めて相手のサポートに徹すると決めたのであれば、それはそれで尊重すべきであって他人がとやかく言うことではないでしょう。だけど、世間はやはり女が仕事を辞めるということを暗黙のうちに期待(?)しているのではないでしょうか?

どうなのでしょうね?

喉が…

相変わらず不調です。10月20日からの関西ツアーに出る前からですから、かなり長いことこじらせていることになりますね。

風邪だったら、いい加減、発熱とか他の症状が出てもよさそうなものの、そういった気配はなく、もしかするとブタクサのアレルギーなのかも、という恐れが出てきました。

この数年、スギ花粉のアレルギーは比較的軽度な症状で済んでいたのに、こんどはブタクサですか?

いや、そんなことはないことをひたすら願うのみです。再来週にはまた京都ツアーがあることですし。

スマホとか、ガラケーとか

「ナンシーはケータイ、持ってないの?」

というセリフは時々言われます。仕事先で聞かれたときはこう答えています。

「うちの会社、社員にケータイ、支給してくれないのよ」

で、たいていの場合、この話題はこれでジ・エンド。不便じゃないか、と言われたりもしますが、今の時代、まだまだケータイが一般的でなかった時代の人が過半を占めているので、「無ければ無いなりに何とかなる」というのが実情です。確かに、今どきの若者のように、いつでもどこでもすぐつながる、というのは便利なようでいてちょっと息苦しいかもしれません。

ただ、あたしのような外回りの営業部門の場合、やはり連絡が取りやすいという利便性もわからなくはないです。それでも、かつては、外へ出てしまったら連絡は付かない、というのが普通であり常識でしたので、それでなんとかみんなやっていたわけですよね。一分一秒を争うようなことなんてなかったとは言いませんが、今みたいにすぐに連絡が取れなければイライラする、なんてこともなかったはずです。

昨今は電話がかかってきて不在の場合、先方も「ケータイ持ってるんだろうから連絡つきませんか?」と言ってくる方もいますね。でも、あたしの勤務先の場合、会社としてケータイを支給していないので、ケータイを持っているかいないか個人任せ、そしてそのケータイに出るか出ないかも個人任せですので、先方の期待に十全に応えられるとは限りません。個人のケータイなら出ようが出まいが会社にとやかく言われる筋合いはありませんからね。

あたしの勤務先を見てみますと、まだまだケータイを持っていない人もいます。全般的に、ネットにしても世間よりは周回遅れ気味な会社でしたので、ケータイも持っていないという人がまだまだいます。ちなみに、あたしは社員の中で誰がケータイを持っていて、誰が持っていないのか、実は正確には把握していませんし、把握しようとも思っていません。持っている人が誰かわかっていないので、当然のことながら、持っている人のケータイ番号やメアドも知りません。知りたいとも思いません。彼らのケータイは、会社で支給したものではないので仕事で使おうという気にはなれないのです。もちろん、プライベートで会社の人と連絡を取り合うということもほぼ皆無なので、やっぱり知る必要を感じないのです。一応、会社の社員名簿を見れば自宅の電話番号はわかりますからね。

では、話は戻って、あたしのケータイです。

あたしはタブレットは使っています。外回りや出張の時、電車を待つ間にメールチェックをしたりするのに使っています。

おいおい、個人所有のケータイを仕事に使いたくないといいながら、タブレットは仕事に使うのか?

と責められそうですが、はい、確かにダブルスタンダードであることは認めます。ただ言い訳をさせてもらえば、タブレットも個人のものですから、メールチェックをしてもスルーすることもあります。メールをチェックしたかしないかはあたし次第です。いえ、わざとスルーするつもりはないのですが、外回りの途次、常に一定の時間感覚でメールチェックができるとは限りません。時には、もう外回りを終えて自宅へ向かう帰路、もうすぐ家に到着という電車やバスの中でチェックするときだってあります。そんなときにメールをチェックをして、午後の早い時間に「すぐ会社に連絡ください」というメールが来ていたとしても、もう詮無いことです。あえてスルーしたのではなく、こういう事態もしょっちゅう起きます。

そして、たぶん、これが一番大きな違いだと思いますが、タブレットは電話としては使えないということです。機種によってはヘッドレストなどを接続して電話機能を使用することができるものもあるのかもしれませんが、少なくともあたしが使っているものにはそんな機能はありません。タブレットも携帯端末の一つですから、機種本体に電話番号は発行されているようです。設定画面を見ると電話番号という項目があります。でも、その番号に電話をかけたらどうなるのでしょうね? あたしのタブレットがブルブル震えるのでしょうか?

というわけで、タブレットの場合、いつでも出なければならない、という束縛感がないのがケータイとの最大の違いではないでしょうか? 昨今「つながり」というのが時代を切り取るキーワードみたいになっていて、そういうタイトルの本も店頭でも見かけますからね。

そんなに他人とつながっていたいのか? あたしなど、そう思ってしまいます。できるだけ他人とは疎遠に、可能な限り表面的なつきあいだけで済ます、それが楽だと思うのですがね。特に仕事上で知り合った人の場合、果たして相手なり自分なりが仕事を辞めた後もつきあいが続くのか……。そう考えると、やはりつながりは最低限度で十分、と思います。別に友達なんか不要だとか、邪魔だとか、そういうことまでを主張したいわけではありませんが。

で、実のところ、あたしもケータイは持っています。いや、ケータイではなくスマホです。ただ、持ち歩いていないこともあります。自宅に置きっ放しになっている日もあります。出張などでは面倒なので、そもそも持って行かないこともよくあります。個人のスマホなので、会社でも特に他の社員に番号を教えたりはしていません。聞かれたときに答えたことがあるので、もしかすると番号を知っている社員が何人かいるかもしれませんが、よくわかっていません。

じゃあ、あたしにも教えてよ、と言われるかも知れませんが、基本的にあたしのスマホは、メールも電話も出られないようにしています。「連絡先」に登録したメアドや番号からしかつながらないように、受信拒否設定をしています。

「なんで、そんなことしてるの? それじゃ使えないじゃない」

と言われそうですが、別に仕事で使うつもりはないので、それで構いません。ですから、登録してあるのは妹と母、それと自宅くらなものです。登録されていないとつながらないので、公衆電話からもかけられません。会社からもダメです。くどいようですが、仕事で使うつもりがないので。プライベートでも友だちがいないので、登録されている人はいないのですが……(汗)

ただ、ごく稀に、数年に一人くらいの割合で、アドレス交換と言いますか、ちょっとした弾みで「連絡先」に登録することがあります。たぶん、交換した直後は数往復のやりとりがあるのでしょう。しかし、2、3ヶ月やりとりがなくなると「連絡先」から削除してしまいます。2、3ヶ月もやりとりをしなければ、もうやりとりすることはほとんどなくなりますので、そんな人まで「連絡先」に登録しておくのは邪魔なのです。

ですから、久しぶりにメールでも送ってみようと相手が思って、実際にあたしにメールを送ったとしても、受信拒否、着信拒否になって送れません、届きません。そもそも、「ケータイの番号を教えて」とか、「ケータイのメアド教えて」と言われて教えてあげるぶんには否とは言いませんが、相手のメアドや番号を「連絡先」にあたしが登録するかどうかは保証の限りではありません。あたしが登録しない限り、あたしにはつながりません。それでは相手に失礼なので、あたしは原則として「ケータイは使ってない」で通しております。

そうなんです。最初のやりとりでもそうですが、あたし、「ケータイを持っていない」とは基本的に言いません。「会社が支給していない」とか、「使っていない」という答え方でのらりくらりとかわしています。

幻視?

極めて不謹慎なのはわかっていますが、このところ、いや、以前から街中でよく見かけるポスター、いえ、書店に行けばたくさん並んでいるこの本。

この表紙というか、タイトルを見るからなのでしょうね、あたしにはどうしても「マララ」ではなく「アラマタ」に読めてしまうのです。で、「アラマタ」に読めてしまうので、カバー画像もそんな風に見えてしまいます。

いや-、たいへん不謹慎なのは重々承知しているのですが、見えてしまうものは仕方ないです。ごめんなさい。

三位一体は?

パシフィコ横浜で行なわれていた図書館総合展。人文会でブースを出していたので、あたしも当番で参加しました。そして昨日は人文会主催のシンポジウムもあったので、それも聞きに行きました。

さて、そのシンポジウム、タイトルは「専門書出版社と大学図書館」です。大学図書館とその選書、蔵書に専門出版社の書籍は度のような位置を占めているのか、ということです。出版社側から言えば、大学図書館というのは専門書の非常に大事なお客様で、利用者(読者)と専門書との親和性が非常に高いと考えられます。簡単に言えば、専門書というのは大学の先生や大学の図書館、研究室で買ってもらえるから商売として成り立つ、という面があるわけです。

そんなお得意様である大学図書館ですが、近年は電子書籍の比率が高まってきているようです。予算ベースではその過半を電子書籍や電子雑誌が占めているようですが、たぶん電子ものの価格がまだ高いという事情もあるのではないかと思います。が、それでも時代は紙から電子へと移っている、そういうことはわかりました。なによりも収蔵スペースの問題という物理的な困難が立ちはだかっていますから。

そんな話を聞きながら、出版社の人間として、ここは出版社と大学図書館だけではなく、大学生協(丸善や紀伊國屋書店、三省堂書店など、生協ではない学内書店も含む)も協力して専門書を盛り上げることは出来ないかな、という気がしました。一般に図書館と書店は対立し合うものと言われてきましたが、そんな話は今は昔、ツタヤが運営している図書館ではありませんが、昨今は図書館と書店が協力して、本を読む人を増やすために努力している事例が多くなっています。

だったら、大学という場でも、図書館と書店である生協が協力できることは多分にあるのではないでしょうか? 営業で、各地の大学生協を回っていて感じるのは、年々生協の書籍売り場が縮小されているということです。もちろん元気な書籍売り場も多いですが、一年ぶりに訪れたら三分の二くらいにスペースが減っていたなんてこともざらです。書籍は売れない、儲からないという厳然たる事実の前になすすべもなく縮小して行ってしまっているようです。

でも、大学図書館同様、大学内の書店は非常によいお客さんを抱えているはずです。はっきり言って、街中の書店なんかよりもはるかに本に親しんでいる人たちがお客としているわけですから。特に専門書になればなるほど、街の本屋よりは学内の書店の方が売れる可能性が高いはずです。そんな地の利を活かせないはずはない、と思います。

比較的元気がある生協、頑張っている生協というのは、よくよく観察していると大学の先生方がよく訪れ、本を買っている気がします。先生方がほとんど来ないような生協は学生もほとんど来ません。雑誌を立ち読みし、パンやドリンクを買いに来るのが関の山です。本に目を向けるのは教科書を買うときだけという有り様です。ですから、生協は学生をないがしろにしろとは言いませんが、まずは先生を店舗に呼び込むことを目標にしてみたらどうでしょうか?

そんなとき、大学図書館と協力して何かできないものでしょうか? 図書館で所蔵する貴重な図書を利用して展示フェアをやりつつ、その関連書籍を生協でもフェア展開する、といったことが思い浮かびます。それ以外にも、街の書店と地域の図書館のコラボは最近増えていますから、そんなところにもヒントは転がっているのではないでしょうか?

探しものは何ですか?

タイトルを見て、たいていの人は井上陽水を思う浮かべるのでしょうか? あたしは斉藤由貴なんですけど……(汗)

それはともかく、昨日の国宝展。

図録は先日の「東アジアの華」を見に行ったときに買っていたので、今回はポストカードと一筆箋を買いました。それにしても、こういう展覧会の物販コーナーへ行くと探してしまうんですよね。

何を?

はい、ネクタイです。

ハンカチとかハンドタオルなんてのは意外とよくあります。西洋美術の展覧会ですと、スカーフなんてのも売っていたりします。最近はトートバッグがはやりですね。意外とどの展覧会でも売っているものです。

ですが、ですが、ネクタイはほとんど見かけることはありません。やはり技術的に難しいのでしょうか? 無地のネクタイに出品作品のめぼしいものをプリントしただけのネクタイでは、あまりにも貧弱なので買う人もいないでしょうし、かといってそれなりに凝った作りにすると値段が高くなってしまって、やはり買い手がグッと減ってしまう。たぶん、そんな理由で、こういう場ではまず見かけることがないのでしょう。でも、あたしは探してしまうのですよね、ないとわかっていても。

実は東博のミュージアムショップでは何種類かネクタイが売られています。あたしは鳥獣戯画のネクタイを一本持っています。でも買ってみようと思うのはこれくらいですね。もう少しいろいろな意匠のネクタイ、文物をデザインしたネクタイがあってもよさそうなのに、そう思います。

今回の国宝展もそうです。

オリジナルグッズは土偶ばかりです。土偶柄のネクタイがありましたが、肝心の土偶が小さすぎて、何の模様かわかりにくいのが玉に瑕です。ですから買いませんでした。

個人的には、孔雀明王がデンとデザインされたネクタイとか、地獄草紙のネクタイとか、そんなのがあったら間髪を入れずに買ってしまうのですが……

見たことある?

東博の国宝展、ナイトミュージアムで堪能。

さすが国宝展です。だいたいの展示品、どっかで見たことある気がします。たぶん実物ではなくて、学生時代の教科書でしょうけど。これだけあっても全国の、いや東博が所蔵している国宝の、ほんの一部なんでしょうね。その証拠に、本館に行けば常設展で何気なく国宝や重文が並んでいますから。

それにしても今回はやや仏教や信仰に展示の比重があったようですね。こういう方面に関心がある人や好きな人にはたまらないのでしょうが、そうでない人にはどうだったのでしょうか? なんて思ったりしました。でも、やはり国宝ですから一見の価値、いえ、二見、三見の価値はあると思います。

どう出る、セブン?

アマゾンの商品がコンビニのローソンで買えるようになるというニュース。いや、アマゾン、そう来たか、という感じを受けました。少し前に、あたしはセブンイレブンで書籍を買うことを書きました。

日々、書店に営業に行っていながら、こういうことを書くのは気が引けますが、街の書店が疲弊していく中、巨人アマゾンに対抗しうるのは、紀伊国屋でもジュンク堂でもなく、実はセブンイレブンなのではないか、と思っています。

書籍以外も扱うようになったアマゾンの中で、書籍の占める比率がどの程度のものか、それはわかりません。売り上げの比率意外にも、将来性に対する期待値の比率とか、手間暇に見合う対価が得られるかという感触、いろいろな比較ポイントがあると思いますので、現在のアマゾンの中で書籍がどのような位置にあるのかは知りません。

ただ、こと書籍に限って言うならば、アマゾンが一番恐れているのは本屋ではなく、セブンイレブンなのではないか、と思うのです。なぜって、いまやセブンイレブンは(一部店舗の少ない県もあるようですが)、ほぼ全国にあり、いまや子供からお年寄りまでが気軽に立ち寄り買い物をしています。宅配を送ったり受け取ったり、公共料金を払ったり、もはやここでできないことはないのではないか、という気がします。

ここまで子供からお年寄りまでを取り込んでいて、なおかつ本屋以上に日常的に買い物に立ち寄るスポットとなると、その人たちが本を買うようになったら、アマゾンにとっては脅威でしょう。もちろん街の書店にとっても。

なにせアマゾンはパソコンが出来ないと始まりません。スマホやタブレットでも注文は出来ますが、基本はやはりそういったデジタルデバイスを使えないとダメです。一方、本を買ってくれるのは年配の方が多く、昨今のお年寄りは若者以上にパソコンを使いこなしていますが、それでもデジタルツールに疎い人が多いでしょう。そんな人がセブンイレブンで気軽日本を変えるようになったら、いや、既に買えるわけですから、気軽に本を買うようになったら、ですね。

セブンイレブンの書籍扱い、今のところネットが中心で店舗では雑誌などを中心にしています。これはこれで致し方ないですが、うまいこと工夫して書籍を売ることに注力したら、アマゾンは嫌がるでしょうね。上記記事では、ローソンはやはり店内にある端末を操作しなければならないようですので、やはり敷居がまだ高いです。ここをセブンイレブンがどうクリアしてくるか、楽しみでもあります。

亜流の亜流の亜流?

FOXムービー プレミアムでやっていた「アイス・ジョーズ」を視聴。

タイトルで既にわかるとおり、数あるジョーズものの一つです。今回は、雪の中をおよび回るサメがスキー場でバカンスを楽しむ若者たちを襲います。例によって、儲けることしか考えないスキー場のオーナーや地元の町長、それに対して正義感あふれる(途中からですが)保安官という構図は、まさに「ジョーズ」でしょう。

ところで、「なんで雪山にサメ?」ということの種明かしをしておかないとなりませんね。

映画の中で19世紀半ばと言っていましたので200年くらい前と考えてよいでしょうか。このスキー場はゴールドラッシュに沸き返り、多くの人が一攫千金を夢みてやってきたそうです。ところがここには先住民が住んでいて、この山を自分たちの神が宿る場所として神聖視して暮らしていたのです。当然、原住民と新参者(→たぶん白人でしょう)との闘いになりますが、旧式の武器しか持っていない少数の先住民では抗することもかなわず、女子供に至るまで虐殺されたそうです。その先住民の恨みを、ただ一人生き残ったシャーマンが一つに合わせ、いくら掘削してもそれを壊すような呪い(でしょうね)をかけたのです。その呪いの結果生まれたのがサメの形をした「スカッカム」というクリーチャー、化け物です。その後、暴れ回ったスカッカムをシャーマンがトーテムポールに封印して化け物は消え、いつしか山にも平穏が訪れて現在へ、という流れです。ナパーム弾のようなものが打ち込まれたせいで、そのトーテムが倒れ、封印されていたスカッカム、つまり人喰いサメの形をした化け物がよみがえってしまったというわけです。

さて、悪者がサメに食われるのは当然、遊びに来ているだけのアホな若者たちも何人かが犠牲になるのはこの手の映画の常道ですから予想の範囲内です。問題なのは、一応は海洋生物学者というふれこみであり、なおかつ25年前にスカッカムに襲われたのに唯一生き残ったという設定の女性(正義の保安官の恋人)が、何の活躍もしなければ、この惨劇解決の助けにもなっていたないことです。何のための設定なのか……

また、主役と呼んでよい休暇を楽しみにやってきた海兵隊員も、奮闘しますが結局は悪霊の権化であるサメの前になすすべもなく逃げ惑うばかり。悪霊が姿を現わしているわけですから、銃や爆弾ではやっつけられないのはわかりきっているのに、ではどうしたらよいのかがまるで考えつかないようです。

そして、この惨劇はどうやって終息するのか? それがこの映画の大どんでん返し的なところです。

途中でちょこっと変な日本人の女の子が出てきます。白人の男にナンパされたりしつつも、「あたし、スキー、うまいから」とあっさりかわして山の奥へ。そこで倒れているトーテムを元へ戻すと、その瞬間、サメ、否、スカッカムが消えるのです。つまりまた封印されたということなのでしょう。トーテムの数だけサメが泳ぎ回っていたのですが、トーテムを一本元へ戻すごとにサメが一頭ずつ消えていきます。

この謎の日本人はシャーマンの血を引く者だったのでしょうか? だったら、なんで日本人だったのでしょう? 同じモンゴロイド繋がりですか?(たぶん先住民って、いわゆるインディアンなどのモンゴロイドだったのでしょうね) あるいは、たまたまスキーをしていて倒れているトーテムを見つけて立て直してあげただけなのでしょうか? いや、そんな感じはしないです。やはり、トーテムが倒され封印が解かれたのを知って急いで駆けつけてきたと考えるべきでしょう? でも、だとすると、のんきにクラブハウスでコーヒーブレイクをしていた理由がわかりません。

うーん、謎の日本人女子。アメリカあたりではよいのでしょうけど、あのたどたどしい日本語も聞き捨てならないものでした。

結局、海兵隊員とその恋人たちは何とか助かるのですが、自分たちがなぜ助かったのか、サメがなぜ忽然と消えたのか、その理由はわからぬままスキー場を後にするのです。実際に自分がこんなめに遭ったら謎解きなどどうでもよく、とにかくその場から逃げたいと思うはずですから、この展開は自然ではありますが、映画としてはどうなのでしょうか?

それにしても、「ダブルヘッド・ジョーズ」「シャークトパス」「シャークネード」「ゴースト・シャーク」と言い、スピルバーグの「ジョーズ」の精神はどこへ行ってしまったのかと思えるような映画が量産されていますね。

 

 

ここまで来ると、もう悪ふざけとしか思えないです。あとは、もう陳腐なアイデア勝負、やったもん勝ちといったところでしょうか?

たぶん、今後も作られ続けるのでしょうね。

これなどは「ゴジラ対ガメラ」「ゴジラ対キングギドラ」のノリではないでしょうか? そのうち「ジョーズ対ジェイソン」というのも作られるのではないでしょうか?

「女がいる」の中に自分がいる?

エクス・リブリスの新刊『女がいる』読了。「女がいる」で始まる断章、それも散文詩のような文章で綴られた小説です。

先の『エウロペアナ』同様、ストーリーがあるわけではなく、そういう意味では、物語を楽しみたい人には物足りないかもしれません。本作はどこから読み始めてもよいし、どこで読み終えてもよい作品だと思いますし、著者がなぜここまで書いたのか、まだ先があるのではないか、どうしてここで終わっているのか、そんな風にも感じられます。

97の断章は、著者というか語り手の周囲の女性について語られています。女性でない人も出てきますが、それが特に全体に影響を与えることはありませんし、実は「女がいる」で始まらない章もあります。そういう細部に拘らず、全体を読み通してみると、たいていの人は、ここで語られる断章の一つくらいは共感できる、自分でも体験したことがある、というような思いにとらわれるのではないでしょうか? そういうところに注目すると、本作は仏寺にある五百羅漢(→この中に自分を見つけることができる)のような作品であると感じました。

語り手は、もうそれほど若くはない男性で、その語り手が元妻や現在の妻、そして母親について語ります。「妻」と書きましたが、ヨーロッパのことですから、必ずしも法律的な婚姻関係にあるとは限らない感じを、読んでいると受けます。いわゆる同居人とかパートナーと呼ぶべきでしょうか? 語り手が中年のようなので、その「妻」も中年で、若さに弾け、魅力あふれる女性としては描かれてはいません。むしろ生活や人生に疲れ、時にはイライラして語り手にあたるような情緒不安定な面も見え隠れします。この不安定さが、東欧の特色なのでしょうか? と、簡単に結びつけてしまってはいけないのでしょうが……

個人的には、63章の意地悪な感じ、73章の初々しい感じが好きです。そして85章を、そのまま大好きな女性に送りたいなあ、と思いました。そんな風に、たいていの人は、特に中年にさしかかった人なら、どこかしらに自分を投影できる作品ではないでしょうか。