論理の飛躍?

このところの集団的自衛権のニュース。安倍首相を始め、推進派から聞こえてくるのは感情に訴える演説ばかりで、冷静で論理的なものがほとんどない、というのは新聞などに書かれていることです。確かにそうだよね、とは思いますが、感情に訴えるといいつつ、あたしなどはほとんど心になにも響いてこないのですが……

よく使われるのが、大事な家族が危険なめに遭ったら、という言い方です。確かにそういう言い方をされれば、誰だって愛する家族を守るためには体を張って、時には罪を犯すようなことだってするのだと思います。でも、集団的自衛権で想定されていることって、そんな家族といった個人レベルの話ではありませんよね。それを家族の話に矮小化してしまうのはおかしいのではないか、そう思うのです。よく言われることですが、人を殺すと殺人罪に問われるけれど戦争で敵を殺すと英雄として賞賛される、というケースです。殺人は多くを殺せばそれだけ罪が重くなりますが、戦争では多く殺した方が勲章が増えます、功績も大であると見なされます。これは個人レベルの殺人と戦争という国家レベルの殺人とを同列に論じられないことのモデルケースですが、今回の集団的自衛権では逆にあえて同列に論じているような感じを受けます。

で、あえて違うレベルを同列で語ってみると、確かに家に凶悪な強盗が押し入ってきて家族が危険にさらされたら、多くの人は武器を持って強盗に立ち向かうのでしょうが、戦後の日本って、たとえそういう状況になっても決して武器を持つことはしないと決めたのではなかったでしょうか? 戦争は加害者も被害者も多くの苦しみを背負うことになる、そんなことはもう二度としたくはない、被害者にも加害者にも決してなるまい、そう決めたのが戦後の日本人だったと思います。たぶん自民党の人たちは、そう決めたのはアメリカや占領軍であって日本人がみずから決めたのではないと主張するのでしょうが、果たしてそうでしょうか?

それに、上述の強盗の話で言えば、強盗に押し入られないようにこちらも武器を持つのではなく、強盗などがいなくなるような社会、世界を作ろうというのが日本国憲法の理念だったのではないでしょうか? そのためにも近所づきあいなどで普段から周囲と仲良く助けある関係を築いておきましょう、というのが本当の姿だったのではないでしょうか? 少なくともいまの自民党政権には、そういう日ごろのケアに努力する姿勢はまるで見られず、終わりのない武装競争に突き進んでいるように見えます。

よくよく考えると恐ろしい

あまり期待せずに見始めたホラーです。

「キャビン」、原題は「CABIN IN THE WOODS」、「森の中の小屋」といったところでしょうか。見た感じでは「死霊のはらわた」の舞台となった小屋とよく似ています。たぶん、あえて似せて作っているのではないでしょうか。

ストーリーは、よくある若者数名が休暇を利用して森の中の別荘を訪れ、一人また一人と惨殺されていくというありがちなものです。ところが本作の場合、ところどころ、と言うかオープニングから科学者たちがどこぞの研究所で何やらプロジェクトを行なっているシーンが挟み込まれます。すぐにわかってしまうのですが、この5名の若者はあらかじめ選ばれ、この小屋に来るべくしてやってきた5人で、その模様を逐一、監視カメラで科学者たちが監視しているという寸法です。カメラアングルから相当な数の隠しカメラが設置していると思われますし、フェロモンガスを噴射したり、スイッチなどを操作したり、小屋だけでなく、周囲の森も含めて、辺り一帯が最新科学で管理された空間になっているのです。もちろん5人はそんなことは知らずにバカンスを楽しもうというだけです。

ところが小屋の地下室で怪しい日記を見つけてしまい、そこに書いてあるラテン語の呪文を唱えると森の中でゾンビが復活するというからくり。このあたり、どんなキーアイテムを選択すればどんな化け物が出てくるかが決まっているらしく、研究所の科学者たちはそれを賭けにして愉しんでいます。

さて、復活したゾンビが若者たちを襲いだし、次々に殺されていきますが、予想どおり主人公のオクテの女の子と、ちょっと間抜けな男子が生き残り、この森からの脱出を試みます。途中、男の子の方が、自分たちが何者かによって監視されていて、小屋や森の中にハイテク機器が張り巡らされていることを突き止めます。ただ、この時点では、実際の殺戮シーンをネットでライブ中継してユーザーを楽しませる番組なのかな、という程度の種明かしに留まっています。そして、二人は小屋と森の地下に作られた巨大な研究施設の中に潜り込みます。科学者側はからくりがバレてしまった以上二人を抹殺しようと銃を持った武装隊を送り込みますが、ゾンビを初めとする怪物たちを閉じ込めていたドアを開けるスイッチを押されてしまい、研究所の中に解き放たれた怪物たちは次々に科学者を血祭りに上げていきます。

そんな殺戮を尻目に、なんとか逃げられたかと思った矢先、この研究所のボスである女館長、これがなんとシガニー・ウィーバー、最後の最後だけの出演ですが、これが狂ってます。生け贄を捧げないと太古の邪悪な神が復活し全人類を滅亡に導くというのです。そのために二人を殺そうとした寸前、ゾンビが彼女の頭に斧を振り下ろし、シガニーはあえなく絶命、ゾンビもろとも奈落へ落ちていきます。これでようやく生き延びた二人ですが、もう体は傷だらけで立つ気力もなく、神が復活したからなのか、地下の研究施設が崩れる中でエンディングです。たぶん瓦礫に潰されて死んだのではないでしょうか?

さて、この映画、最後に「えーっ、なに、そのオチは!」という思いはあります。人類滅亡を信じるおばさんが作った研究施設のようですが、ものすごい大がかりです。世界各地に同じような施設があり、世界各地で生け贄を捧げようとしているようですが、もちろん日本も舞台となっています。仲間の研究チームが京都で同じようなことやっているようです。時々映像が出てきますが、貞子っぽいのが出てきます。

と言うように、この映画は先行するいろいろな映画のさまざまなところを取ってきてつなぎ合わせています。後半の怪物大乱闘のシーンも、よく見るとほとんどが他の映画に出てきたキャラです。これは怖いと思って見るのではなく、パロディだと思って笑いながら観るべき映画なのでしょうか? しかし、最後に人類滅亡とか言い出したからおかしなことになりましたが、もしこれがネットの殺人リアル中継サイトという設定であったら、実際にありそうで非常に怖い映画ではないでしょうか? 特に前半、科学者たちがゲーム感覚で、実際に若者が殺されていくのをなんとも思わずモニター越しで見ているのは戦慄を覚えます。

講師をやりました

本日は午後から、とある東京郊外の書店チェーンさんの人文書勉強会でした。毎回、出版社の人間が人文のあるジャンルについて、講師となって話をするのですが、今回が第4回目でした。あたしは第3回目からの参加で、第1回、第2回は哲学・思想がテーマだったそうです。あたしが初参加だった第3回は仏教で、今回のテーマは世界史でした。

え、あんた、世界史について語れるの?

という疑問は、あたし自身も感じるところでありますが、このところの弊社が分厚い現代史ものを陸続と出版しているところから、特に近現代史を中止に話して欲しいというリクエストで、まあ、全般的なことを枕に、自社の出版傾向や売れ筋などを語るくらいならできるかなと考え、そしてなによりも「人に教えることは、自分が一番勉強になる」という法則もありますから、自分自身が学ぶつもりで引き受けた次第です。

一応レジュメを作っていったので、そして、どういう順番、流れで話すかは頭の中でシミュレーションしてあったので、しどろもどろに派ならずに話ができたかなとは思います。ただ、一番難しいのは売れる本を紹介すること、売れる棚作りをレクチャーすることで、これはやはりできません。ただ、こんな風にやれば自分も、そしてお客さんも楽しめるのではないか、という程度のことしか話せませんでした。

少しは書店の方のお役に立てたのか、まるっきり心許ないのですが、少なくとも自分の勉強にはなったかな、というの感想です。またこういう機会があったら、次はあえて断わって(←そもそも頼んでくる人がいるのでしょうか?)、他の方がどんなことを語るのか聴講してみたいと思います。

意外とかぶらないものですね

あたしはイヌ派です。ネコは憎んでいると言うほどではありませんが、それほど好きではありません。子供のころに飼っていたインコを、野良猫だったか飼い猫だったかわかりませんが、近所をうろつき回っていた猫に殺され(喰われはしなかったのですが……)、それ以来、好きではなくなりました。それ以前にもイヌ派だったということもありますが、この体験が決定的でした。

で、書店営業をしていると、書店には猫の本が多いことに築かされます。最近でこそオオカミの本がちょっとしたブームのようにたくさん出版されていますが、トータルではやはりネコにはかないません。イヌも多いのですが、やはりネコの方が断然多い気がします。書店員さんも猫好きの方、多いようですね。

書店員女子 → 一人暮らし → 寂しさを紛らわすため → 猫を飼う → アパートなので猫が飼えない → 本を見て癒される

という図式なのでしょうか?

それはともかく、文芸の棚でも、このところこういう本が目に付きます。

 

『猫は神さまの贈り物<エッセイ編><エッセイ編>』『猫は神さまの贈り物<小説編><小説編>』の二冊です。姉妹編ですね。いずれもネコに関する作品を集めたものです。ネコ作品ってこんなにもたくさんあるのか、と思わずにはいられません。と思っていた矢先、さらにこんな本を見かけました。

猫好き有名人の最右翼と呼んでもよいかもしれない、中川翔子の『にゃんそろじー』です。こちらも、しょこたんが選りすぐったネコ作品の集成です。で、この三者、前二者はもちろん姉妹編なので収録作品に重複はありませんが、この前二者と後者とで収録作品を比べてみると、思いのほか重f句が少ないのですね。あたしも購入してきっちり見比べたわけではありませんから断言はできませんが、ネットで見る限りそのようです。複数の人が同じようなことを考えて本を編んでも収録作品がかぶらないとは、ネコ本って、本当にたくさんあるのですね。恐れ入ります。

真のカムバック

昨日のダイアリーで、タブレットが修理から戻ってきたと書きましたが、実は、ダイアリーのタイトル「カムバック」はそのことを書こうと思ったわけではありませんでした。たまたま、ダイアリーを書きながら、タブレットの設定をちまちまやっていたので、そのことを中心に書いてしまいましたが、本当のカムバックは別のことでした。

昨日のFacebookに、出社したらブラウスの袖のボタンが取れていたと書きました。たぶん、予備のボタンは裾回りのタグのところについているだろうと思い、昨日帰宅した時に母親にボタンが気づいたらなくなっていたと伝えたのです、ボタン付けておいてね、という意味を込めて。

ところが、その刹那、母親からの返事は、おまえが出て行った後、玄関にボタンが落ちていたんだよ、何のボタンかなあと思ってたんだけど、というもの。

もちろん、母親が念のため取っておいたそのボタンはあたしのブラウスのボタンと一緒です。なんと、あたしは玄関先で既にボタンを落としていたのですね。見事にボタンが見つかりました。

っていうか、どこで落としたかわからないボタンが出てくる確率ってどの程度なのでしょう? 取れそうになっているボタンを、なくすとイヤだからあえて取ってしまうということは多々ありますが、こういうケースは極めてまれではないでしょうか?

何かよいことが訪れる予兆でしょうか?

カムバック

修理に出していたタブレットが戻ってきました。いや、正確に言えば、ドコモショップへ取りに行ったので、メーカーから送られてきたわけではありません。

で、修理に出すに当たって初期化してありましたので、アプリのインストールとか環境設定など、すべてやり直しです。ああ、面倒くさい。

いま後悔しているのは、初期化する前に、画面のコピーを取っておけばよかったということです。そうすれば、どういう風にアイコンを配置していたか、どんなアプリをインストールしていたのか、よくわかります。まあ、この機会に一から環境構築するのも悪くはありませんが、一番厄介なのは、アプリのインストールではなく、インストールした後、最初の起動の時に設定するIDとパスワードです。クラウドサービスにしろ、SNSにしろ、メールなどにしろ、結構いろいろなところでIDとパスワードって設定しているのですよね。どれにどんな文字を設定していたのか、まるっきり忘れているわけではありませんが、必ずしも正確に覚えているわけでもありません。これが一番厄介な作業になりそうです。

たぶん、明日もこんな作業で一日が終わるのでしょう。

まるで平気

本日もリメイク映画三昧。「死霊のえじき」と「デイ・オブ・ザ・デッド」です。

 

前者がオリジナルで、後者がそのリメイクだそうです。どちらも、科学者の細菌兵器研究から突然変異、人に感染してゾンビ化、それが街に蔓延して軍隊の出動、地域一帯を封鎖、取り残された人間たちの脱出劇、という基本的なモチーフは同じなのですが、ストーリーと言いますか、鑑賞後の感想はかなり異なります。

前者は、映画のスタート時点で既にゾンビがした人間がうようよいる近未来の世界で地下シェルターに辛うじて生き残って軍人と科学者ら十数名のサバイバル劇です。自分勝手で居丈高な軍人、軍人は帝の宇田と見下して主義主張を変えようとしない意固地な科学者という対立の図式はわかりやすいですが、あの極限状況であんな諍いをやってられる両者の馬鹿さ加減に呆れます。特に、仲間を実験台として殺して使っていた科学者の存在には呆れるを通り越して怒りさえ覚えます。まあ、腹の立つ連中は最後は皆やられてしまうわけですが、それでも主人公の女性科学者も意固地すぎて好感が持てません。

後者は、既に細菌兵器の変異は中央に報告されているのか、中央から軍が送り込まれ、問題の街が閉鎖されるということから物語が始まります。そして、街の人たちが最初は風邪のような咳き込む症状から一気にゾンビ化していき、あとは前者と同じような脱出劇。ただし、前者は最初の時点で人間として生き残っている人が限られていて、はっきりしているのに対し、後者は街が徐々にゾンビ化していくので、あっちにも人間、こっちにも人間が生き残っていて、また生き残っていても本当に感染していないのかどうか、そういうスリルがあります。地下シェルターに逃げ込むというのは前作のリメイクだからなのかもしれませんが、もしかすると車であのまま逃げおおせたのではないかという気がします。

後者の方は、生き残った人間の仲間割れもなく、科学者もそれほど底意地が悪い感じがするほどでもなく、あの程度のぶつかり合いは十分ありえるという範囲。やはりあんな状況に置かれたら、ケンカなんかしている場合ではないというのがフツーでしょ。そして、こちらの作品では主人公が魅力的です。あんな小柄で伍長という軍隊側の人間(前作は科学者でした)というのはやや無理がありますが、凛々しくて格好良くて、それでいてかわいらしさもあります。

肝心のラストですが、前者はヘリコプターで無人島のようなところへ逃げ延びたようですが、文明の利器のない原始生活でサバイバルしていくのでしょうか? 後者は車で街をに脱出するわけですが、果たして何処まで行けばウィルに感染されていない場所へたどり着けるのでしょうか? なにせ、途中の検問所の兵士たちが既にゾンビ化していたわけですから。どちらも、無事にゾンビの街からは脱出したけれど、という結末ですね。

さて、両者とも、ゾンビ映画ですので、かなりグロいシーンがあります。生きた人間をゾンビがむさぼり食うシーンなどはかなりグロテスクです。目玉や内臓が飛び出て、頭や腕や足が引きちぎられて、血が出るだけでなく、ぬるぬるとした体液と一体となった血潮がそこら中に飛び散ります。こういうグロテスクシーンが苦手な人は、この映画は見ない方がよいでしょう。ちなみに、あたしはこういうシーンを見ながら平気で食事ができるタイプです。

逆にゾクゾクする怖さが好きなホラーファンには、こういう映画は物足りないのではないでしょうか? だってゾンビが出てくるだけで怖いわけではありませんから。あたしは、B級もC級も、ホラー全般、好きです。特にジャンルもなく、ソウのようなものでも、13金でも、呪怨やリングなども、そして本作のようなものも、特に食わず嫌いはありません(笑)。

リメイク?

録画してあった3作品を鑑賞。まずは「AVP2 エイリアンズVS.プレデター」を視聴。

エイリアンとプレテダーという二大異星人を一緒に出してしまった映画「エイリアンVS.プレデター」の続編だそうです。

あたしはパート1も見ているはずですが、それほどストーリーを憶えているわけではありません。エイリアンとプレテダーが闘っていたなぁ、くらいの感想です。でも別にパート1を見ていなくても、この作品はこの作品で楽しめます。一応続編ということで、前作を受け、エイリアンとプレテダーの混血児(?)が誕生し、それがプレテダーの宇宙船の中で誕生しプレテダーを襲い、宇宙船は地球に墜落。そのまま新種のエイリアンは地球人を殺しながら繁殖していくわけです。一方のプレテダーは墜落した宇宙船を追って地球にやってきて繁殖を続ける新種エイリアンを始末していくという寸法。

ところが、どんどん増えていくエイリアンに対してプレテダーは一人、と言うか一匹、というか一頭。これでは埒が明きません。底へ人間世界のドラマが中途半端に挟まってきて、結局人間たちはエイリアンを数匹は倒すものの大成に影響を与えることはなく、最後は軍によってエイリアンともども(たぶん核兵器で)街もろともぶっ飛ばされてしまうというラスト。かつてゾンビもので、街ごと核爆弾で消滅させてしまうと井浦ストがあったのを覚えているのですが(映画のタイトルは失念)、アメリカって最後は核爆弾で民間人も情け容赦なく殺してしまうんだなあと実感した次第。

それにしても、画面が暗くてよくわからないし、プレテダーとエイリアンの違いが造形的によくわからないのが、この映画の最大の欠点ではないでしょうか?

続いて、リメイク版の「死霊のはらわた」と、「死霊のはらわた 2」です。

 

前者はリメイクですが、オリジナルは妹の薬物依存治療なんて設定ではなかったはず。ちょっと思い出せないのですが、少なくとも今作の方がスッキリとしたストーリーになってはいません。これがよいのかわるいのか、何とも言えません。主人公が薬物依存となるとすべてが薬物による幻覚という可能性も捨てきれないからです。まあ、死ぬべき登場人物は簡単に死ぬし、生き残る登場人物はしぶといものですね。で、死霊に取り憑かれているので殺してもなかなか死なない、また襲ってくる、どうやったら殺せるのか、なかなか難しいところですが、手がかりになる本があるので、それをなぞればなんとかなりそうで、最後は兄妹愛でハッピーエンド、なのかしら?

後者は、これはホラーというよりもコメディーですね。笑えます。死霊が襲ってきているのに、切羽詰まった感のない連中。これでは殺されても仕方ないです。とはいえ、随所に笑えるところが満載。もちろんイタイ場面は多々ありますが、ホラーが嫌いで、これなら笑ってみられるのではないかと思います。

お薦めするか否か

光文社古典新訳文庫の『赤い橋の殺人』読了。

なんでも訳者である日本人研究者が再発見した幻の作品なのだとか。オビなどの惹句もちょっと面白そうという感じがしましたし、フランス文学なので一応は読んでおくか、という気持ちで手に取りました。

内容は、貧乏な境遇から成り上がったクレマンが些細な会話から冷静さを失い、徐々に追い詰められて最後には過去の殺人事件を告白するというストーリーです。この小説の文学史における位置づけなどは訳者解説が詳しく書いていますので、あたしがここで述べるよりもそれを読んでいただいた方がよいでしょう。この作品に対するプラス評価はすべて訳者解説に譲りますので、ここではあたしなりの不満点をあえて述べてみたいと思います。

まず、クレマンの人物造型が理解しづらいです。無神論者でどうしようもない悪漢のように設定されていますが、そこまでの陰影が足りないです。なぜそういう人物になったのかという点も突っ込みが足りないと思います。ですので、パーティーの席でのある殺人事件の話を聞いて動揺するところも唐突すぎると言いますか、これだけの悪党であればあの程度の世間話でうろたえるというのはおかしいと感じてしまいます。

次に探偵役と、解説では書かれているマックスも決して探偵ではなく、単にクレマンの話を聞いているだけの存在です。なんかおかしいな、とは感じるものの謎解きを積極的にしようという姿勢が見られるかというと、決してそんな感じはなく、友人クレマンに悩みがあるなら聞いてあげよう、くらいの立ち位置に感じられます。そして誰からも嫌われるというかつてのクレマン(←ここも、なぜ嫌われるのか、嫌われるほどのイヤな奴だったのかの描写はほとんどありません)に対し、どうしてここまで友情を貫くのか、そのあたりの事情もマックスの人となりもわかりづらいです。

基本的にはかつて殺人事件を起こした男が、そのときに奪った金を元に成り上がり、それなりの名士となったが、事件の発覚を恐れ徐々に平静さを失っていく物語という流れの中で、みょに細々とした描写がなされているところもあれば(←このあたりは、個人的にはゾラの作品に似たものを感じました)、かなり端折ってしまっている部分もあり、登場人物それぞれをもっと丹念に描けば、この倍以上の長さの作品になったのではないかと思いますが、より面白く、謎に満ちつつも、犯人にも共感の出来る作品になったのでは、という気がします。

以上、かなり辛口、辛辣なことを書いてしまいましたが、それは褒め言葉は訳者みずからが巻末の解説で書いているので、それ以上褒めそやしても仕方がないと思ったため、そしてあまり褒めすぎて、この本を読んだ方が落胆してもいけないなあと思ったからです。

ただ、この作品は、上に書いたような、あたしなりに感じる欠点はあるものの、この時代を考えるとやむを得ないのかな、実験的な作品なのかな、という気がします。情景描写の詳しさだけを求めるのであれば先行作品も多々あるでしょうが、推理小説、謎解きの要素を盛り込むとなると、ようやくポーが登場したような時代ですから、まだまだ不十分なものであたとしても仕方ないのではないでしょうか?

そのような意味では、謎解きとしては極めて単純で短絡的な事件しか起こっていませんので本格的とはとても言えませんが、ヨーロッパの推理小説史の中に位置づけて読むべき作品なのだろうなあ、と思います。そして訳者解説によると、この作品は小説(書籍)としてではなく、当初は上演されて受容されていたとのこと。そう考えたとき、肝心なところだけをテンポよく取り出して話を進めていくこの作品は、確かに演劇向きの作品ではあるかな、という気もしました。

スリーピー・ホロウっぽい?

ハリー・ポッターでお馴染みのダニエル・ラドクリフ主演のゴシック・ホラー「ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館」を視聴。

原作は早川文庫の『黒衣の女 ある亡霊の物語』だそうですが、もちろん読んだことありません。ちなみに、あたしは「ハリー・ポッター」シリーズも読んだこともなければ、映画も観たことありません。あしからず。

さて、この映画ですが、長男の出産の折に死亡してしまった妻の面影を忘れられずにいる弁護士ラドクリフが、この仕事をうまくやれないとクビにすると事務所から申し渡されて向かったのが、ロンドンから列車を乗り継ぎ訪れた田舎。その田舎の村の外れの、広大な沼地の中の島に立つ大きな屋敷です。既に居住者は亡くなっていて、その財産の整理に訪れたという設定。

よそ者に冷たい視線を送る村人の雰囲気はよく見られるパターンです。既に列車も走り、自動車もこの村には一台あるというのに、中世のようなたたずまいというか、ひと昔もふた昔も前のままの住民たち。そんな村では、子供たちが次々と事故で死ぬという忌まわしい出来事が続いているのです。その原因がラドクリフが向かう屋敷にある、というのは言われなくてもわかりますが、なぜそうなったのかが徐々に明かされていきます。

以下、ストーリーを書いてしまいますと、この屋敷に住んでいた夫婦には子供がなく、妻の妹(だったかな?)の子供を養子に取ります。ところが、この夫婦は実の母親が子供に会わせてくれと言っても断わり、手紙のやりとりすらも断わるほどの冷たい夫婦だったようです。と、こう書くと「悪い夫婦」という印象を持ってしまいますが、どうでしょうね。自分の子供として育てたいと思って養子にもらったのだとしたら、いつまでも実の親がしゃしゃり出てこられるのはイヤなのではないでしょうか?

それはさておき、ところがこの養子の男の子が沼で溺れて死んでしまいます。そして沼だったからでしょうか、遺体も見つからず埋葬もされないまま、溺れたとおぼしき場所に十字架が立てられているだけでした。実の母親が会わせてもらえなかったのは子供が死んだことを知られたくなかったからかもしれませんね。そのあたりの時間の前後関係は不明ですが、とにかく息子の死は実の母親の知るところとなり、母親は養父母をなじり、挙げ句、この屋敷の子供部屋、つまり自分の息子の部屋で首をつって自殺してしまいます。

この母親がいまだに子供を思ってさまよい出てきては、目に付いた子供をあの世へ引きずり込んでいるのが数々の子供の事故の正体らしいのですが、それに気づいたラドクリフは沼地から男の子の遺体を見つけ出し、母親の棺桶に一緒に埋葬します。これで一件落着、母親もようやく成仏(←キリスト教世界では昇天と言うべきか?)したと信じ、列車でロンドンからやってきた4歳の自分の息子と、ロンドンへ戻っていきますが、そこで大どんでん返しというか、あっと言う結末が……

さて、ちょっとミステリーとホラーが融合し、時代を現代ではなく、やや迷信が残っていそうな少し前の時代に、舞台も都会ではなく田舎に設定しているところは、ジョニー・デップ主演の「スリーピー・ホロウ」によく似た感じがします。ビジュアル的にも影響を受けているのではないかなあ、という気がします。

肝心のラドクリフも、あたしは上に書いたように「ハリー・ポッター」を見ていませんが、そんな面影は微塵も感じられず、精神的にやられているインテリをうまく演じていたのではないかと思います。そんなところもジョニー・デップにちょっと似ていたかな、と思いました。