壊しすぎ?

GWですが、引き籠もっています。

昔から、ゴールデン・ウイークだけでなく、年末年始、お盆休みなど、世間が混雑する時に出かけるのはバカバカしいという考えなので、そういう時には極力出かけないようにしています。いや、「バカバカしい」と書きましたが、正直に言えば、これは後からの言い訳で、実際には乗り物酔いがイヤなんです。

前にもこのダイアリーに書いたと思いますが、あたしは小さい頃から乗り物よいがヒドくて、遠足も基本的には辛いもの、できれば行きたくない、避けて通れるのであれば避けたい行事でした。遠足は楽しみ、前の晩は寝られない、なんて思いは一度もしたことがありません。

混雑するシーズン、道路が渋滞、車に酔う、という連想が働きますし、実際子供の頃にはこういうじきに出かけて気持ち悪くなったこともしばしばでしたから、わざわざ混んでいる時に出かけることはない、という考えが染みついてしまいました。

閑話休題。

では引き籠もって何をしているかと言えば、本を読むか映画を観るか、のどちらかですね。今回見ていたのはこちらです。

「ダイ・ハード ラスト・デイ」です。シリーズの最新作で最終作という話ですが、実際はどうなのでしょう? この映画が大ヒットしていれば続編ができていたのかも知れませんね。その布石として息子を出していたと思いますから。

あっちこっちの映画評サイトでは酷評されていますね。難しいことを考えずに娯楽アクション映画だと思えば、まあ冗長にならず、コンパクトに仕上がっていて面白い作品だと思います。でも、まあ、映画評サイトに投稿する人たちって、どうしてもいろいろ言いたいのでしょう。

で、あたしはそういう面倒なことを言う趣味はありませんが、映画公開当時から言われていた、「いくらなんでも一般人の車を壊しすぎ」というマクレーン刑事の暴走ぶり、「あんなんで放射能が中和されるのか」という科学的に裏付けのない、ご都合主義的なストーリーの二つについては、やはり「ちょっとなぁ」という思いを抱いてしまいました。

ロシア、ソ連が舞台となると、脚本の緻密さも失われ、昔ながらの「悪の帝国」的な描かれ方をしてしまうのも、問題と言えば問題なのでしょうね。ランボーがアフガンに行ったりしたのも、観てはいませんが同じ結果になっていたのではないでしょうか?

 

だったら、「13金」のジェイソンがニューヨークへ行ったりしたほうが、よほどマシだったのかもしれません。ジェイソンにはこのままアフガンやロシア、北朝鮮に乗り込んでもらいたいと個人的には期待しているのですが……

アマゾンは速いのか?

業界紙の「新文化」にも載っていたので改めてアマゾンについて考えてみました。

よく本屋(リアル書店)は入荷が遅くてアマゾン(ネット書店)は速い、と言われます。これは多分にマスコミの報道の仕方やアマゾンの宣伝に惑わされていると思います。アマゾンだって書店ですから、出版社から見て街の本屋と違いはありません。アマゾンからの注文は速く出荷して、街の書店からの注文は後回し、ということはありません。出荷してから取次を経由して書店に届くのも、たぶん同じだと思います。

アマゾンが速いと言われるのは「自社の倉庫に持っている本は」ということであって、それなら買い物に出かけたときに店頭に目当ての本があればその場で手に入れることの出来る街の本屋の方がはるかに速いです。それなのに「アマゾンは速い」と言われるのは、街の本屋に目当ての本がない場合が多いからでしょう。

アマゾンは、今では日本全国にいくつかの倉庫を持っていますが、そのいくつかの倉庫で全国のお客さんを相手にすればよいのですから実に効率よく在庫できます。でも街の本屋さんは、その地域の人たちの需要を満たせるほどの在庫を持つことは難しいです。勢い、アマゾンにはあるけれど近所の本屋にはない、という状況が生まれます。

でもアマゾンの倉庫にだって在庫していない本はごまんとあります。あたしもかつて、専門書ですが、注文したら2、3週間待たされました。アマゾンも持っていない本なら、上に書いたような流通ルートに変わりはないので、街の本屋と入荷までの時間はほとんど変わりはないのです。もっとそこに気づくべきなのだと思うのですが、ね。

あえて言えば、「いつ届く」というのが利用者から見てはっきりしている、というのがよいのかも知れません。アマゾンに限らず、たいていのネットショップは「商品を手配しています」「出荷しました」「○日頃入荷予定です」といった注文品の追跡が可能ですが、街の本屋の場合、ほとんどブラックボックスですから。

悪霊の住む病院、らしい

自宅で映画鑑賞です。今回は「グレイヴ・エンカウンターズ2」です。パート1を見たのは一年近く前になりますね。どんな作品だったか見るまではうろ覚えでしたが、見始めたら「ああ、あれか」と思い出しました。

 

今回は、パート1はフィクションだと言われているけど、関わった人たちが次々に死んでいて、あれは作り物なんかじゃない、実話だったんだ、と映画マニアの学生が思い込み、その真実を暴くために再び問題の廃墟病院へやってくるという筋書き。

仲間の学生を引き連れやってきて、問題の病院に侵入し、定点監視カメラを設置して、というように、ここから先はパート1とまるっきり同じ展開。あえて新味を言えば、途中でパート1の主人公、地下道で発狂してしまってエンディングとなった人物が、10年間地下道の中で、つまりこの呪われた病院の中で生き続けていたという設定で登場することでしょうか。狂っているんだか、まともなんだか、途中から徐々にまともになっていったようですが、あの環境で10年も生きていられるとは信じられません。あれは病院に取り憑く悪霊に活かされていたのでしょう。だから新たな生け贄を呼び寄せる役割を担うことになり、新しい生け贄が手に入ったら捨てられるという、こちらもおきまりのパターン。

今回は主人公はなんとか助かります。助かるというか逃げ出すというか。仲間すべての犠牲の上になんとか病院から脱出し、パート1の製作会社に撮ったフィルムを持ち込み、ここにこうしてパート2をお届けします、といった趣向になっています。この「記録のために録っていたテープに偶然映り込んでしまった」というモキュメンタリーの手法も飽きることは飽きてきましたし、もうこの手法の限界も見えているわけですが、いつまでやるのでしょう。

パラノーマルのように、自宅で怪奇現象が起きるのでカメラを設置してという設定の場合はリアルさもありますが、こういうある場所を探検していくような、つまり登場人物が移動するような映画では、「果たしてこの状況になってもカメラを持ち歩くか?」「こんなことになってもまだ録ってるの?」といった、ごくごく普通の疑問の方が先に立ちます。

もちろん、戦場カメラマンにしろ、報道カメラマンにしろ、命のやりとりをするような危険な現場でもカメラを手放すことはないのでしょうが、果たして本当にそうなのでしょうか? 本当に自分の命が危険にさらされたときでもカメラを持ち続けるのでしょうか? いや、百歩譲ってカメラを捨てないとしても、こういうモキュメンタリーのように撮り続けていられるのでしょうか?

という疑問があまりにも先に立ってしまい、興醒めになるんですよね。

 

 

と、こんな愚痴をこぼしつつも、あたしはホラー映画が好きなんですよね。それも結構B級ものも。悪霊が好き、というのが根底にあるからでしょうか? 少なくとも人間は裏切るけど、悪霊は裏切らない、あたしはそう思っています。

勉強しないとバカになる

暇を持て余すことはありませんが、時々、つまらない話を1時間か2時間聞かなければならないようなことがあります。大勢の聴衆がいる会場ならば、タブレットで情報収集したり、あるいはこっそり本を読んでいてもバレないでしょう。そういうやって、拷問のような時間をやり過ごすことは多々あります。

そんなときに思い出すのは学生時代です。

大学の授業はほとんどが選択必修で、自分の専攻する分野の授業ばかりでしたから退屈することはありませんでしたが、一年次にはどうしても一般教養の科目を履修する必要があって、それも人文ならまだしも、社会科学や自然科学はまるっきり興味がなかったので退屈きわまりないものでした。

そんなとき、あたしはあることをして時間を潰していました。あたしの学生時代ですから、ノート派祖温も一般的にはなっていませんし、ましてやスマホはおろかタブレットもケータイもなかった時代です。今の若者からすると「それで生きていけるのですか?」と聞かれそうですが、そういうものを知らない時代だったので、なんとでもなったものでした。

で、あたしの時間潰しですが、それは数学の問題を解く、です。

あたしは文系の人間ですが、数学は好きでした。文系の問題と異なり、数学はきっちり答えが出るのが好きで、そこそこ点数も取れる教科でした。なので、大学一年生の暇な講義の授業の時は、ノートの片隅に自分で数学の問題を作って遊んでいました。

どんな問題を作っていたかというと微分積分の問題。ある方程式をX軸を中心に回転させたときにできる立体の体積を求めよ、といった類いの問題を自分で作って解いていました。いま考えると、とんでもない変わり者という気がしますが、当時のあたしはちょうどよい時間潰しとしてしょっちゅうこんなことをしていたものです。

ところが、大学四年間、二年時以降は退屈な講義形式の授業もなく、もっぱら専攻の中国思想に邁進し、大学院修士二年とそればっかりだったので、社会人になって数年こそ、まだ微積分の問題は解けましたが、いまではすっかりできません。何をどうすればよいのかすら思い出せなくなりました。

行列なんてのもありましたよね。あれも今では何が何だかさっぱりです。

そう言えば、あたしは寝起きがよくて、寝ぼけるということがなく、「起きてしばらくはボーッとしている」という状態が理解できない人間なんです。なので、かつては「朝起きた瞬間から因数分解ができる」と豪語していたのですが……

やはり勉強は一日にしてならずであり、一日でも怠るとさび付いてしまうものなんですね。

おお、キトラ!

休みの日はたいてい自宅に引き籠もっているあたしが、今日は珍しく外出。まずは午前中に三菱一号館美術館で行なわれている「ザ・ビューティフル」展を見に行きました。そこそこ混んでいましたが、展示を見るのに苦労するほどではありませんでした。

あたしなりの理解ですと、身の回りの調度品を美しいもので揃えたいという欲求があり、それに凝り出すと、こんどはそれらを収納する家具などにもこだわりが出てくる。するとこんどは、家具などを置く部屋の内装にも美しさを求めたい、そして内装がきれいになったならそれにふさわしい外観を整えたい、という感じで発展してきたのではないかな(?)と展示を見ていて感じました。

今回の展示作品よりも100年ほど昔になるのでしょうか? ジェイン・オースティンの時代は、貴族の郊外の別荘を見て歩くことが流行していたようですが、それは庭園の美しさが主だったような記憶があります。でも、そういった流れを受けての、今回の展覧会に繋がる伝統なのではないでしょうか? と勝手な解釈ですが……

展覧会の見どころページに載っていますが、個人的には、まずは「フレデリック・レイトン《 母と子(さくらんぼ)》」の女の子がカワイイです。思わず抱きしめたくなりました。そして、今回、この展覧会を見に行こうと決めた最大のポイントであるビアズリーのサロメ。これも小品ながら素晴らしいですね。見入ってしまいました。

またエルキントン社のティーセットは同じ意匠の大きさ違いのものが展示されていたのですが、ロシアのマトリョーシカのようでしたが、あたしは見た瞬間に『第三の警官』に出てきた、箱の中にちょっと小さい同じ函、さらにその中にまたちょっと小さい箱というように、どんどん小さくなって、肉眼では見ることができないほど極小の箱にまで行き着く場面を思い出しました。

その他、気になった作品では、シメオン・ソロモン「パリサイ人の家にいるマグダラのマリア」はちょっとかわいい感じ。アルフレッデオ・ギルバート「武装するペルセウス」は武装と言っても、兜をかぶり剣を持っている以外は真っ裸じゃない、どこが武装なの、と突っ込みを入れたくなります。そして、そして、今回の展覧会のイメージともなっているアルバート・ムーアの作品は「真夏」というタイトルなんですね。真夏と言えば、あたしには秋元真夏しかありません(爆)。乃木坂です。

さて、「ザ・ビューティフル」の後は上野へ移動。キトラ古墳です。

混んでいるだろうとは予想していましたが、まあ、あの程度で済んでよかったです。意外と並んでいる時間は長くは感じませんでした。連れがいたからでしょうか? 最初に大きな複製の壁画が並んでいるのですが、これはまあ本番で見るための肩慣らしならぬ、目慣らし。ふむふむ、こういういものかと思いつつ、本物の壁画へ。

いや、これは見るべきですね。ソース煎餅みたい、といっては壁画に失礼ですが、見てくれはそんな感じなのですが、そこに描かれている四神は素晴らしいです。こちらも見入ってしまいますが、混雑のため立ち止まらないでくださいと係員に誘導され、泣く泣く順路を進むしかありません。もうちょっと、あと10秒でもいいから見ていたかったです。それくらい一件の価値あるものでした。しかし、この壁画をこの状態で保存するのは並大抵のことではないだろうなあということもわかります。日本の技術をもってしても大変なのでしょうね。政府はこういうことにももっとお金をかけて欲しいものです。

さて、その後、再びの風神・雷神です。前回は金曜夕刻のナイト・ミュージアムでしたのでそれほどの混雑ではありませんでしたが、今回はやはり日曜日の昼間、前回よりもかなり混んでいます。キトラを諦めた人がこちらへ流れているのでしょうか? キトラは入場前に列を作って小一時間ほど並びますし、その後会場内も行列ができていましたが、「栄西と建仁寺」展は入場制限もありませんでしたから。

それでも、風神・雷神は存在感ありますね。前回見たときは、もう少し大きいものを想像していたのですが、案外小振りの屏風です。それでもあの存在感ですから、すごいです。

価値観が同じ人

よく「結婚相手に求める条件は?」といった質問に、「価値観が同じ人」と答える人がいます。表現は異なるものの、ほぼ同趣旨のことを答える人は多いようですし、第一条件として上げなくとも、「そうであるのに越したことはない」と思う人はほとんどではないでしょうか。

ここまで重く表現しなくても、あるものを見たり聞いたりしたときに、自分と同じような感想を持つ人は好ましいと思うものです。さらに言えば、「ウマが合う」ということでしょうか。「なんか一緒にいてしっくりくる」とか、「そうそうと共感するところが多い」なんていうのも同じようなことだと思います。

が、あたしの場合、男女を問わず、そういう人に巡り会ったことがありません。

多少仲良くなったとしても、「あっ、やっぱりこの人とは合わないな」と思うことがしばしばで、それはたぶん、あたしの方が他人に対して壁を作ってしまっているからだろうとはわかっているものの、いつの間にかできていた壁、自分では意識して作った覚えのない壁なので、その壁の越え方、壊し方もわかりません。

そんな中、こんな人に巡り会いました。「ごんさん」です。

「ごんさん」は高校生の女の子で、世界史の授業で涙を流しそうになるくらい歴史上の人物に思いを寄せ、ほとんど号泣しそうになるという。あたしは、号泣まではしないものの、この感覚はよーく理解できます。そして教師の授業はつまらないので、勝手に世界史の図説のページをパラパラとめくり、次のような感想を漏らすのです。

 

 横長の判型の図説には、右のページに世界地図があって、その時代時代の勢力図が色分けされている。地図の左のほうではローマ帝国が広がり、めくっていくと真ん中のトルコがどんどん大きくなり、そうこうするうちに右のほうでモンゴル帝国が想像を超えた範囲に勢力を伸ばす。
 こんなに広いところまで! こんなに遠いところまで!
 今のわたしたちが車を使っても何日もかかるような距離を、彼らは馬で走って行く。そう思い浮かべるだけで、いても立ってもいられない気持ちになる。

 

この感想。あたしがずっと思っている気持ちと全く同じです。特にモンゴル帝国の拡張については、あたしも学生時代からクラスメートや周囲の人に、モンゴル高原から馬だけで、ヨーロッパまで駆けていったんだよ、としょっちゅう言っていた時期がありまして、まさしく「ごんさん」と同じ感想を抱いていたのです。

そりゃ、厳密に言えば、同じ人間がモンゴル高原からヨーロッパまで馬で駆けていったわけではありません。しかし、「あっちの部族が服従しなかったから」「この前の闘いに非協力的だったから」といった程度の理由で、「よし、そっちがその気なら目にもの見せてやる」式にドンドン西へと進んでヨーロッパまで行ってしまうなんて、なんていう連中なのでしょう。それこそ体中の血液が沸騰しそうな気さえします。

はい、「ごんさん」は実在の人物ではありません。そんなに親しい女子高生など、あたしにはおりません。「ごんさん」は、柴崎友香さんの小説『星よりひそかに』の登場人物の一人です。上掲の引用は、その79ページに出てきます。

それでも、あたしはこの部分を読んだときにものすごい衝撃を受けました。こんなにあたしと同じようなことを考えている人がいる、と。

しかし、冷静になって考えると、これは小説の中の人物です。ですから、この人物のつぶやきや気持ちは、すべて作者である柴崎さんが作り出したものです。ということは、柴崎さんもこういう感覚をお持ちなのでしょうか?

いやいや、作家というものはいろいろな人を取材して作品を創り上げるわけで、必ずしも作者自身が投影されているとは限らないでしょう。この「ごんちゃん」のキャラクターも柴崎さんが作品の構想を練る中で創り上げていった人物です。

とはいえ、モンゴル帝国について、馬であんなところまで行った、という登場人物の考えを柴崎さんはどこから作り出したのでしょうか? あたしは柴崎さんには何度かお目にかかったことがありますが、こういう話題で話をした記憶はありませんので、柴崎さんが別の誰かから仕入れたものでしょう。もちろん、モンゴル帝国に対してこういう感想を持つ人は、それこそごまんといるのでしょうけど。

ところで、この「ごんさん」ってどんな感じの子なのでしょう?

吉祥寺に行けない!

毎朝、JR中央線で通勤していますので、吉祥寺は毎日通っています。ただし、朝の通勤時に下りることはありません。それこそ気分でも悪くならない限り、あるいは会社ではなく別のところへ向かうのでなければ途中下車する理由がありません。毎朝、吉祥寺は通り過ぎるだけです。以前は、中央線が担当エリアだったので、吉祥寺の書店への営業のため月に何度も吉祥寺には降り立ちましたが、担当地区が変わって以来、下りることもなくなりました。

なにせ現在の担当は小田急線と田園都市線ですから、登戸や溝ノ口から南武線、あるいは町田から横浜線に乗って帰ることがほとんどなので、八王子、立川や西国分寺経由になります。吉祥寺の方は通らないのです。(あたしの最寄り駅は国分寺です)

それでも、新宿とか都心部の書店を営業して、そのまま帰宅という場合には新宿から中央線に乗りますので吉祥寺を通ることもあります。今日もそうでした。で、今日は吉祥寺の駅ビル「キラリナ」がオープンということで、久しぶりに吉祥寺で下りてみようかと思いながら新宿駅のホームへ向かいました。

が、なんと、やってきたのは特別快速! これでは吉祥寺は停まりません。なんという因果。意地でもあたしを吉祥寺には行かせまいという天の意志なのでしょうか?

そう言えば、中央線を営業していたときも、今日は立川、八王子に行くから特別快速が来るといいなあと思ってお茶の水駅で待っているときに限って快速しか来ない、逆に今日は吉祥寺へ向かうぞと意気込んでいるときには特別快速が来る、ということがよくありました。

あたしって、よほど中央線とは相性が悪いのか! それとも吉祥寺と相性が悪いのか? どっちなんでしょう?

ところで、あたしは別にキラリナに行って見たいというわけではなく、その中にオープンした啓文堂書店に行ってみたいだけなんですけどね。。

エリカ様~

エリカ様と言っても、沢尻エリカではありません。戸田恵梨香でもありません。あたしが言うエリカ様とは乃木坂46のエリカ様、生田絵梨花のことです。

ドイツ生まれで、ピアノの腕前は一流、容姿も端麗なのに、ものすごーく天然。それがエリカ様です。

YouTubeにアップされているこんな動画を見ていただければ、そのスペックの高さがわかるというものです。

そのエリカ様が、なんと次のシングルには不参加、短期間とはいえ活動休止という発表がありました。これはなかなか週明けからショッキングなニュースではありませんか!

ホラー、いろいろ

夏以外でもホラー映画というのはスカパー!でやっているもので、B級作品目白押しです。そんな中、比較的メジャーなものを3本見ました。「推理作家ポー 最期の5日間」「ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛」「クロユリ団地」です。

 

まずは「推理作家ポー」ですが、エドガー・アラン・ポーの死の直前の数日間を描いた作品です。ホラーと言うよりはミステリーですかね。ポーの生涯をよく知らなかったのですが、彼は公園で泥酔状態見つかり、そのまま亡くなったそうですね。いまだにその死因には諸説あるそうですが、本作では彼のフィアンセが誘拐され、その犯人によって毒を飲まされるという「毒殺説」を採用しているようです。

ポーの作品は岩浪文庫で読んだことがあるくらいで詳しいことは知りませんが、熱烈な愛好家なら作品世界を模倣した殺人劇をどう見るのでしょうか。死の直前にこういう連続殺人が史実としてあったのか、晩年のポーにあのような恋人がいたのか、あたしは知りませんので純粋にフィクションとして、サスペンス映画として鑑賞した感想になりますが、実は犯人の動機がよくわかりません。それに一連の犯行によって何をしたかったのか。犯人はポーの愛読者、崇拝者という設定のようですので、酒浸りになって落ちぶれたポーにもう一度傑作を書かせたくてあのような殺人事件を起こしただけなのでしょうか? いまで言うところのストーカー的なファン心理がなせる犯罪だったのでしょうか?

次に「ラスト・エクソシズム」はパート2です。たぶん「パート1」も見ているはずですが、そして鑑賞記もブログに書いたはずなのですが、ちょっと見当たりません。お許しください。

前作で狩ると的なキリスト教の犠牲になりかかった少女が、心を病んだ少女たちが共同で暮らす施設に入所します。最初は何事もなく、悪夢も見なくなり、ホテルでルームメーキングの仕事も始め順調に回復していくかに見えますが、徐々に悪魔の影が忍び寄り、奇怪なことが周囲で起こり始めます。

と、こう書いてしまうとよくある「悪魔もの」ですね。はい、確かにその通りで、悪魔払いの人が出てきて闘うわけですが、悪魔の方が強く返り討ちにあってしまいます。完全に体を支配された少女は施設の人たちを焼き殺し、どこへともなく去って行くという、こりゃ完全に興行収入次第ではさらなる続編を作ろうという魂胆が見え見えのラストです。最近のホラーって当たったら次を作ろうという下心があるからか、ラストで正義が勝つ、神の方が勝つというストーリーになっていないものが多いですね。神の力も落ちたものです。

さて、最後は「クロユリ」です。AKBを卒業した前田敦子の主演作ということでかなり話題になっていましたね。悪霊に取り憑かれていく前田敦子の狂気の演技が秀逸だったという劇評もありましたが、興行収入的にはどうだったのでしょうか?

内容は、TBSで映画公開の頃にスピンオフドラマをやっていたので、ミノル君がどういういきさつで悪霊となったのかはわかっていると思います。が、ドラマではかくれんぼでゴミ箱に隠れてそのまま回収された焼け死んだのではなく、実の親に殺されて(過失致死ですが)ゴミ箱に遺棄されたはずでしたが、そのあたりの細かなところがちょっと違っていました。

じきにネタバレになるのですが、前田敦子は家族でクロユリ団地に越してきたのではなく、大学(専門学校?)進学をきっかけに一人暮らしを始めたのですね。幼い頃の家族両校の事故で両親と弟を亡くし、自分一人が生き残ってしまったことへの負い目を抱き続けて生きてきたという設定。それにしても自立を促すためとはいえ、あれほどの症状が残っているのに前田敦子に一人暮らしを認めるとは、それまで育ててくれた伯父さん夫婦もどうかと思いますね。そして、そんな精神状態だからこそ悪霊につけ込まれてしまったのでしょう。

前田敦子を救う役回りの成宮寛貴もフィアンセを自分の自動車事故で植物状態にしてしまったという負い目を抱え、そこがまた取り憑かれる原因になっているという、これでは誰も救われないのが当たり前という設定です。そして、この手の映画でありがちな霊能者、本作では成宮の親戚のような手塚理美が演じていますが、どうもこれもミノル君にやられてしまったとおぼしき様子。そもそも前田敦子の住む団地でお祓いをしなくても効果はあるのかという突っ込みが入りそうでした。

最終的には成宮が犠牲になって一件落着なのか、前田敦子は精神を病んだまま逃れたものの、ミノル君の呪いは続くのか、ラストはぼかされている感じです。所詮、秋元康だとこの程度なのでしょう。「伝染歌」といい、「着信アリ」といい、秋元康のホラーは設定は時代を感じさせて面白いのですが、ストーリーがグダグダで、ホラーになっていない、オチが落ちていない気がするのはあたしだけでしょうか?

 

本作も、ああいうラストでしたから興行収入次第では続編を考えているのでしょうか?

文盲

文盲と言っても、アゴタ・クリストフの自伝の『文盲』のことではありません。

いまテレビで人気の「花子とアン」で、花子のお母さんが読み書きができないということです。少し前にFacebookにも書きましたが、あたしの勤務先から出ている『野口英世の母シカ』のシカさんも読み書きができないのですよね。そのシカさんが一生懸命に文字を習い息子へ書いた手紙が、<野口英世の母の手紙>として有名になっているわけです。まあ、この時代の農家の女子の教養としては読み書きができないというのも決して不思議なことではなく、当たり前と言っては言いすぎかもしれませんが、ごくごくありふれたものだったのでしょう。

で、ふと思い立って、あたしも母に聞いてみました。母親はもちろん読み書きできますが、その母(あたしの祖母)や祖母(あたしの曾祖母)は読み書きができたのか、と。母の返事は二人ともできたとのこと。百姓なのでできなかったのではないかと予想していたあたしの期待(?)は裏切られました。ただ、母の話では、母が子供の頃、近所には読み書きのできない女性(母からみたら近所のおばさんとか、同級生の母親とか)は何人かいたそうで、都会で働く子供から手紙が届くと、母の祖母のところに持ってきて読んでもらっていた、という記憶があるそうです。うーん、テレビの中の世界がきわめて身近だったのですね。

ちなみに、父方は、既に父が亡くなっているのでわかりませんが、父方の実家は代々の庄屋だったので、それなりの教養はあったと思われます。戦争中に薪代わりに燃してしまったそうですが、家にはかなりの蔵書があったと聞いたことがあります。また父の母(あたしの祖母)は父が幼い頃になくなっていますが、既に亡くなっている父の姉(あたしの伯母)にかつて聞いた話では、家事もやらずに本ばかり読んでいた人だった(だから年の離れたその伯母が父の面倒をみていた)そうです。

というわけで、わが家は決して立派な家系ではありませんが、とりあえず読み書きはできる人たちばかりだったんだなあと、改めて認識した次第です。