本はオシャレアイテムになるか?

待ち合わせの時間までちょっと時間があったのでデパートの店内をぶらり。昨今のデパートの1階はブランドショップと化粧品、ジュエリー売り場がほとんど。ブランドと言っても、若い女性向けのバッグや靴などのブランドがメインでしょうか? そんなデパートの売り場、先日のエルメス展の影響からか、なんとなくバッグを眺めていて思いました。

こういうバッグって、使い勝手といった観点からだと、たぶん女性にとっても、さほどよいものではないのではないでしょうか? それなのに、こんな高い値段でも売れるのはなぜか? それは、ブランドもののバッグを持っていることがステータスだから。

そうか、そうか。別に使い勝手が悪くたって、エルメスか、バーキンか、シャネルか知りませんが、そういった世界的ブランドのバッグを持っているところを見せびらかせたい、という心理なのでしょう。バッグに限らず、洋服や宝石でも似たようなところがありますが、バッグなどはその際たるものなのだと思います。

しかし、高級な、ブランドもののバッグを持っていると、そしてそれを見せびらかしていると、何がよいのでしょう? 本人にとってどういうメリットがあるのでしょうか? 自分へのご褒美ってことでしょうか?

それだけのバッグを買えるほど収入がある、つまりお金を持っているということを世間にアピールしたいのでしょうか? それとも高級バッグを持っていると当人が美しく見えるのでしょうか? 確かに、そういった効果は多少はあるかもしれませんが、逆効果も十二分に考えられます。

あるいは、いい人とか、やさしい人とか、そんな風に見られるのでしょうか? いや、バッグを持つだけでそんな風にはなりませんよね? むしろ、これ見よがしにブランドバッグを持っていたら高慢な人に見られるのではないでしょうか? そこまでとは言わずとも、高級バッグなどのブランド品に熱を上げている人って、それだけの収入を得ている人ならともかく、世間一般にはよいイメージを持たれているとは思えません。

うーん、やはりそういうことではなく、自分へのご褒美、ただそれだけなのでしょうか?

少なくとも、ブランドものを身につけたからと言って、知的に見えるということはあまりないですよね? 颯爽としたスーツをピシッと着こなしていたら知的に見えるかも知れませんが、一般にブランドものと知性とは相容れないもののような気がします。

で、思うのです。たまには、ブランドもののバッグではなく、本を小脇に抱えて街を歩いてみませんか、と。キンドルなどの電子書籍端末ではダメです、きちんとした紙の本でないと。もちろん、週刊誌などの雑誌もダメ、コミックなどもダメに決まっています。

やはり単行本です。ジャンルはなんでも構わないでしょう。海外小説でもいいし、哲学書でもいいし。そう、電車の中で英字新聞を読んでいたり、洋書を読みふけっていたりしたらカッコイイと見えるように、本を手に街を歩く姿がカッコいい、知的だと思われるようにならないでしょうか?

つまり、女子にとって、自分の価値を高める必須アイテムとして、ブランドの服やバッグ、宝石類などと並んで、書籍もそれに伍すような感じです。もちろん、男性でも同じことです。ブランドのスーツや靴、高級腕時計などを身につけるように、本を一冊携帯する、それができる男のダンディズム、なんていうのがスタンダードにならないでしょうか?

いや、その本はとりあえず持っているだけでもいいです、読んでいなくたっていいです。手元にあれば、いつか開くときが来ます。開きたくなる、読みたくなる日が来るはずです。それでよいと思います。

銀座松屋の一階に、バッグ、宝石、化粧品売り場と並んで、書籍のコーナーができないか? 新宿伊勢丹メンズ館に、オトコのための書籍売り場ができないか? そんなことを夢想します。

企画が先か? 受賞が先か?

国書刊行会からこんな本が出ましたね。

モディアノ中毒』です。今年、ノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノに関する評論です。ちょうどノーベル賞の授賞式のタイミングで刊行してくるとは、さすがに国書刊行会です。

ところで、こういう本、別に国書刊行会でなくてもよいのですが、ノーベル賞の受賞が決まってから企画が立ち上がったのでしょうか? それとも、たまたま企画を進めていたらノーベル賞受賞というニュースが飛び込んできて、刊行時期を多少調整したのでしょうか?

もし後者だとしたら「ラッキー!」というところでしょうが、もし前者だとしたら、実用書計出版社並みのフットワークの軽さですね。だって、受賞発表からの時間を考えたら、著者を探して原稿執筆を依頼し、書き上げてもらって本にするなんて、週刊誌や100ページ程度の軽い本ならまだしも、この手の本では無理でしょう?

やはり、ノーベル賞とは別に企画が進んでいたのでしょうね。

そうそう、現在バカ売れ中の『21世紀の資本』でも、そんな二匹目、三匹目のドジョウを狙ったような書籍が陸続と出版されていますね。もちろん、原書がアメリカで大評判になっていたというニュースは入ってきていたでしょうし、みすず書房からいつごろ刊行されるかという情報もだいたいつかんでいたでしょうから、このタイミングで刊行してくるのは、それほど至難ではないでしょう。

それでも雨後の筍のようです。多すぎないか、共倒れにならないか、と他人事ながら危惧してしまいます。もちろん、あたしは冷めた目で見ている反面、複数の雑誌が企画しているピケティ特集号も、そのフットワークのよさはやはり見倣うべきところだと思ってもいるのです。

文庫化のジレンマ

文庫になるのが早くなった、とはこの数年よく聞かれるセリフです。単行本が年月を経て文庫本になるというのは別に珍しいことではないですが、そのサイクルが確かにこの数年、いや十年くらいでしょうか、とても早くなったという気がします。

どのくらい早くなったのか、別に統計を取ったわけではありませんので、確かなことは言えません。それでも、以前なら数年から5年、10年は待たないと文庫にはならなかったと思われるのですが、最近は単行本が出て一年後には文庫になっている、という作品も珍しくはありません。一年後と言えば、本によっては、まだまだ単行本が売れているだろうに、もう文庫にしちゃうのですか、という気がします。

確かに、文庫本の方が安いし、たくさん作るから多くの書店に行き渡るし、それだけ人の目に触れる機会が多くなる、と一見いいこと尽くめのようですが、現実にはそんな甘いものではありません。いま「安くてたくさん作る」と書きましたが、実を言えば、安くするためにたくさん作っているのです。先に安さありきですから、実際にどれだけ売れるかに基づいて部数を決めているわけではありません。この値段に抑えるにはこのくらいの部数を作らないとならない、という計算が働いているわけです。ただ、単行本の時に売れなかった本が、安い文庫になったからといって、そうそうたくさん売れるようになるとは限りません。かなりリスキーな商売と言えるでしょう。

もちろん、安い文庫になったことによって「買おう」と思う読者が増える可能性はありますし、実際文庫になったから買った、というお客様は多いはずです。(高くても、買うべき本、読みたい本は買う、というのはかなり稀なお客様です。)また単行本よりは多くの書店に並ぶので、人の目につく可能性も格段に高くなります。単行本の時に走らなくて、文庫になって初めて「こんな本が出ていたのか」と気づかされることは多いはずです。ですから、一概にリスキーとは言えない面はあります。(単行本の時に気づかれないというのは、宣伝方法にも問題があるのかもしれません。)

ただし、個人的には「どうしてかなあ?」と思う時もあるのです。例えば先日こんな本を買いました。

チャイナ・ナイン』です。これはこのたび文庫になって[完全版]と付いたように、単行本の時の作品に加筆があります。こういう、文庫版になった時に、その時の情勢を加味して加筆がある場合、単行本を持っていたとしても、あえて文庫本も買うことはままあります、あたしの場合。

ただ、それはさておき、この本が文庫になってすぐ、この本の続編とでも言うべき『チャイナ・セブン』が刊行になりました。もちろんこちらは単行本です。

これが出版社の営業としては嫌なんです。出版社の営業としては、こういう関連する本は書店店頭では並べて置いてもらいたいと思うものです。もちろんこの二点を並べて置いているお店も多々あります。でも、文庫本と単行本ですと、置かれる場所が異なり、書店での棚管理も変わってきて、一緒に並べるのを嫌がる書店が多いのも事実です。どっちを読んだとしても、もう一方も読みたくなると思われるのに、その両者が並んでいない、そのもどかしさ、わかっていただけるでしょうか?

もちろん、『チャイナ・セブン』を買って読む人の大半は既に『チャイナ・ナイン』は読んでいるはずだから、隣に並んでいなくてもそれほど実害は出ないよ、という意見もあるでしょう。それは確かにその通りですが、あたしのように、今回の文庫化で改めて購入することにした人間だって少なからず要ると思うのです。特に今回のように加筆があったのですから。

で、たまたま目に付いたのは、こんどはまるでジャンルが異なりますが、『変愛小説集』です。これは続編にあたる『変愛小説集 日本作家編』が出るタイミングで文庫になりました。単行本「日本作家編」の刊行が9月上旬で、前著の文庫化が10月中旬ですから若干のインターバルはありますが、「これを機に」というのは明らかです。

 

この両者も、一緒に並んでいるところもありますが、文庫と単行本で別々のところに並んでいる場合が多々あるのです。広い書店であればかなり離れた場所の可能性もありますし、多層階の書店であれば階が異なることもあるでしょう。

ちなみに文庫になった前著の正しい続編は『変愛小説集2』で、これはまだ単行本のままです。

こういう文庫化、果たして良いのか悪いのか、よくわかりません。それぞれメリット、デメリットがあるので……。それでも出版社の営業としては、何か腑に落ちないと言いますか、もどかしいものを感じるのです。

どうせ絶滅するなら悪あがきをしよう! 第2回世界文学ワールドカップ?

「海外文学が絶滅する」とネット話題になっていると書店で聞いた件を少し前に書きました。書店員さんによって、どれだけデジタルなものを利用、活用しているかに差があるので、この話題を知っている人もいれば、まるで知らない方もいるようです。そういう温度差が極端に出るところがまたネット時代らしいなあと思います。

さて、もし本当に海外文学が絶滅、この場合は書店の棚からなくなるという意味ですが、棚からなくなってしまうのであれば、なくなる前にいっそのこと、これまでやりたくてもできなかったことをやってしまえばよいのではないでしょうか? ふと、そんなことを思いました。売れるかどうかわからないけど、自分の好きな本だけをとにかく並べるとか、いろいろ出来るのではないかなあと思います。

と考えていて、思い出しました。

そう言えば、何年か前に「世界文学ワールドカップ」みたいなフェアを紀伊國屋書店がやっていたなあ、ということです。たぶん、これですよね? このページでは「ワールド文学カップ」とあります。2010年の4月から5月にかけて行なわれたフェアのようです。

あれ? ワールドカップなら4年に一度やらないと! 今年の春先にやってましたっけ? うーん、思い出せません。たぶん、やっていませんよね? だったら、今からでも遅くないです。また「海外文学ワールドカップ」をやってみるのはどうでしょう? この4年、かなり面白い海外文学が出版されています。「2010年6月以降刊行の海外文学」に絞ったとしても、かなりの質と量になると思います。

2010年の4月と言うと、白水社の<エクス・リブリス>が刊行スタートしてまだ一年。そこそこ評判にはなってきていましたが、まだ点数としては淋しい限りだったはずです。ボラーニョの『野生の探偵たち』がちょうど2010年の4月刊でした。

 

通話』(<エクス・リブリス>版は絶版、現在は<ボラーニョ・コレクション>で刊行)は出ていましたが、『2666』は未完でした。

 

そうです。この4年で、かなり興味深い海外文学が刊行されているのです。再び「ワールドカップ」を開催するに十分なメンツが揃っていると思います。

いやー、多すぎて選べないよ、というのであれば、まずは「南米予選」「東欧予選」のように地域を区切って予選を開催してみてはどうでしょうか? 例えば、紀伊國屋書店の新宿本店で「英米予選」、ジュンク堂書店池袋本店で「南米予選」、丸善丸の内本店で「アジア予選」といった具合に複数の書店で共催してもよいのかも知れません。紀伊國屋書店新宿南店では、これらの予選に出場している原書を並べるという参加の仕方が可能だと思います。

ちょうど4年が過ぎたのだし、やれないかなあ、と思います。

「海外文学 絶滅」でググってみると……

書店の方から聞いたのですが、このところネット上で「海外文学がもうすぐ絶滅する」と話題になっているんだそうです。主にツイッター上での話題らしいですが、かなり広く拡散しているらしく、しばらくはこの話題で持ちきり、とまでは言わないまでも、一部の人の間ではかなりホットな話題になっているようです。

というわけで、あたしもとりあえず「海外文学」と「絶滅」をキーワードにしてググってみましたら、それらしきサイトやツイートが多数ヒットしました。

上のキャプチャ画像は昨晩の結果ですので、現時点では検索結果が大きく変わっているかも知れませんし、ここ数日の盛り上がりとは無関係のサイトもいくらかはヒットしているかも知れません。それでもかなりの数に上ります。

念のために書いておきますと、ここで言われている「絶滅」とは「日本で海外文学の翻訳書が出版されなくなる」という意味です。つまり、出してもほとんど売れない海外文学は書店の棚からも外され、出版社も採算がとれないので刊行しなくなり、翻訳者もこれでは食べていけないので翻訳をしなくなる(あくまで商業出版としての翻訳を)、という負のスパイラル、悪循環に陥ってしまうという未来図です。

はっきり言いますと、海外文学は売れません。書店にあるさまざまのジャンルの中で売れないジャンルを挙げろと言われたら、真っ先にとは言わないまでも、かなり上位に海外文学が入ってくるのは間違いないでしょう。同じ海外でもファンタジーやミステリーはまだそれなりに売れるようですが、いわゆる小説の類いは売れないと相場が決まっています。

でも、海外文学が売れないのは今に始まったことではなく、以前から売れませんでした。かつてラテン文学のブームが起きた時期もありましたが、具体的な数字こそ知りませんが、その当時でも飛ぶように売れていたのでしょうか? むしろ、そのころはいまよりもはるかに本がよく売れていた時期で、海外文学以外もそれなりに売れていたのではないでしょうか。

で、今も昔も売れない海外文学ですが、それでも一定数の読者はいます。その人たちにきちんと届けられるような出版は現実には可能ですし、現に多くの出版社がやっています。海外文学で知られた出版社であれば、どんな内容でどのくらいのページ数でどのくらいの価格であれば十分採算がとれるのかわかっているはずです。みすみす赤字を垂れ流すような出版活動なんてするわけがありません。結果として思ったように売れなくてトータルでは赤字になってしまったとか、逆に書評や口コミが広がって予想以上に売れてかなりの利益も出た、ということだってありますが、それらは例外であって、だいたいは予想の範囲内、ものすごく利益がでたわけでもないけど、赤字にはなってないというあたりに落ち着いているはずです。

以前も今もこんな感じだったので、そりゃもっと売れてくれるに越したことはありませんが、あたしは現状でも十分ではないかなと思っています。だって、落ち込み幅で言ったら、海外小説などとは比べものにならないほど悲惨なジャンルが他にもありますから。とりあえず出版活動を続けられる程度の売れ行きはあると考えています。

ちなみに、実際に出版社の営業として海外小説の売れ方を見ていますと、何度かこのダイアリーでも書いた覚えがありますが、一部の決まった書店では海外小説がよく売れます。それも、こちらが「これはいける」と予想したものが思った通り、発売初日から複数冊売れています。こういうお店では価格はあまり関係ありません。また、確かに安い方が売れるといううっすらとした傾向もなくはないですが、海外文学に関しては「高いから売れない」という理屈が通らないことが多いです。いまだに『2666』が売れ続けているのが何よりの証拠です。

この先、上に書いたように、多くの書店で「海外文学」コーナーは縮小、あるいは廃止の憂き目に遭うでしょう。そうなると、ますます「一部の決まった書店」では海外文学が売れるようになると思います。だって、そこへ行かないと売っていないわけですから。もちろん、近所の本屋でも取り寄せることは可能でしょうけど、取り寄せたら買わないとなりません。パラパラと数ページを立ち読みして買うかどうか判断することはできません。(アマゾンなどネット書店が返品可能なのが不思議です。)そうなると、やはり確実にその本が置いてあると予想される「一部の決まった書店」にお客さんが集中することになり、そのお店では世間での退潮を尻目に「海外文学がよく売れる」という現象が起きると思います。

では、そんな「一部の決まった書店」が全国で何店舗くらいあるのか? あるいは「一部の決まった書店」ではない本屋で、海外文学好きな書店員がいたとして、自分が働くその店を「一部の決まった書店」に変えるにはどうしたらよいのか?

三位一体は?

パシフィコ横浜で行なわれていた図書館総合展人文会でブースを出していたので、あたしも当番で参加しました。そして昨日は人文会主催のシンポジウムもあったので、それも聞きに行きました。

さて、そのシンポジウム、タイトルは「専門書出版社と大学図書館」です。大学図書館とその選書、蔵書に専門出版社の書籍は度のような位置を占めているのか、ということです。出版社側から言えば、大学図書館というのは専門書の非常に大事なお客様で、利用者(読者)と専門書との親和性が非常に高いと考えられます。簡単に言えば、専門書というのは大学の先生や大学の図書館、研究室で買ってもらえるから商売として成り立つ、という面があるわけです。

そんなお得意様である大学図書館ですが、近年は電子書籍の比率が高まってきているようです。予算ベースではその過半を電子書籍や電子雑誌が占めているようですが、たぶん電子ものの価格がまだ高いという事情もあるのではないかと思います。が、それでも時代は紙から電子へと移っている、そういうことはわかりました。なによりも収蔵スペースの問題という物理的な困難が立ちはだかっていますから。

そんな話を聞きながら、出版社の人間として、ここは出版社と大学図書館だけではなく、大学生協(丸善や紀伊國屋書店、三省堂書店など、生協ではない学内書店も含む)も協力して専門書を盛り上げることは出来ないかな、という気がしました。一般に図書館と書店は対立し合うものと言われてきましたが、そんな話は今は昔、ツタヤが運営している図書館ではありませんが、昨今は図書館と書店が協力して、本を読む人を増やすために努力している事例が多くなっています。

だったら、大学という場でも、図書館と書店である生協が協力できることは多分にあるのではないでしょうか? 営業で、各地の大学生協を回っていて感じるのは、年々生協の書籍売り場が縮小されているということです。もちろん元気な書籍売り場も多いですが、一年ぶりに訪れたら三分の二くらいにスペースが減っていたなんてこともざらです。書籍は売れない、儲からないという厳然たる事実の前になすすべもなく縮小して行ってしまっているようです。

でも、大学図書館同様、大学内の書店は非常によいお客さんを抱えているはずです。はっきり言って、街中の書店なんかよりもはるかに本に親しんでいる人たちがお客としているわけですから。特に専門書になればなるほど、街の本屋よりは学内の書店の方が売れる可能性が高いはずです。そんな地の利を活かせないはずはない、と思います。

比較的元気がある生協、頑張っている生協というのは、よくよく観察していると大学の先生方がよく訪れ、本を買っている気がします。先生方がほとんど来ないような生協は学生もほとんど来ません。雑誌を立ち読みし、パンやドリンクを買いに来るのが関の山です。本に目を向けるのは教科書を買うときだけという有り様です。ですから、生協は学生をないがしろにしろとは言いませんが、まずは先生を店舗に呼び込むことを目標にしてみたらどうでしょうか?

そんなとき、大学図書館と協力して何かできないものでしょうか? 図書館で所蔵する貴重な図書を利用して展示フェアをやりつつ、その関連書籍を生協でもフェア展開する、といったことが思い浮かびます。それ以外にも、街の書店と地域の図書館のコラボは最近増えていますから、そんなところにもヒントは転がっているのではないでしょうか?

どう出る、セブン?

アマゾンの商品がコンビニのローソンで買えるようになるというニュース。いや、アマゾン、そう来たか、という感じを受けました。少し前に、あたしはセブンイレブンで書籍を買うことを書きました

日々、書店に営業に行っていながら、こういうことを書くのは気が引けますが、街の書店が疲弊していく中、巨人アマゾンに対抗しうるのは、紀伊国屋でもジュンク堂でもなく、実はセブンイレブンなのではないか、と思っています。

書籍以外も扱うようになったアマゾンの中で、書籍の占める比率がどの程度のものか、それはわかりません。売り上げの比率意外にも、将来性に対する期待値の比率とか、手間暇に見合う対価が得られるかという感触、いろいろな比較ポイントがあると思いますので、現在のアマゾンの中で書籍がどのような位置にあるのかは知りません。

ただ、こと書籍に限って言うならば、アマゾンが一番恐れているのは本屋ではなく、セブンイレブンなのではないか、と思うのです。なぜって、いまやセブンイレブンは(一部店舗の少ない県もあるようですが)、ほぼ全国にあり、いまや子供からお年寄りまでが気軽に立ち寄り買い物をしています。宅配を送ったり受け取ったり、公共料金を払ったり、もはやここでできないことはないのではないか、という気がします。

ここまで子供からお年寄りまでを取り込んでいて、なおかつ本屋以上に日常的に買い物に立ち寄るスポットとなると、その人たちが本を買うようになったら、アマゾンにとっては脅威でしょう。もちろん街の書店にとっても。

なにせアマゾンはパソコンが出来ないと始まりません。スマホやタブレットでも注文は出来ますが、基本はやはりそういったデジタルデバイスを使えないとダメです。一方、本を買ってくれるのは年配の方が多く、昨今のお年寄りは若者以上にパソコンを使いこなしていますが、それでもデジタルツールに疎い人が多いでしょう。そんな人がセブンイレブンで気軽日本を変えるようになったら、いや、既に買えるわけですから、気軽に本を買うようになったら、ですね。

セブンイレブンの書籍扱い、今のところネットが中心で店舗では雑誌などを中心にしています。これはこれで致し方ないですが、うまいこと工夫して書籍を売ることに注力したら、アマゾンは嫌がるでしょうね。上記記事では、ローソンはやはり店内にある端末を操作しなければならないようですので、やはり敷居がまだ高いです。ここをセブンイレブンがどうクリアしてくるか、楽しみでもあります。

研修のおさらい

何回か書いていますように、水曜日から金曜日まで、人文会の研修旅行で群馬(高崎・前橋)と新潟(新潟・長岡)を回ってきました。あたしは、この地区の書店営業担当になったことはなく、三年前にやはり人文会のグループ訪問にオプションで追加して新潟を一日回ったことがあるくらいで、今回の土地は、仕事で行ったことがないだけでなく、観光でもプライベートでも行ったことがない土地ばかりでした。

いや、正確に言えば、ずいぶん前に従姉の結婚式があったので、前橋だったか高崎だったかには来たことがありますが、車で来て帰ったので、街のどのあたりにいたのか、まるっきり覚えていません。

さて、この三日間。回った書店は以下のようなところです。(適宜、地図を拡大してご覧ください)

三日間の日付ごとに色分けしています。こうして改めて見ると、結構な距離を移動しているものです。そして長岡と新潟も思いのほか距離があるのだということがわかります。

さて、研修旅行の感想ですが、地方はやはりまだまだ活気に乏しいかな、という感を受けます。これは書店に限った話ではなく、車窓から待ちを眺めていての感想です。今回の書店のいくつかが入っていたような、郊外型モールは、それなりに人が集まっていて賑わいがありますが、まさにそこだけがにぎやかで、いわゆる「街」というものが見えない、という感じです。もちろん、デベロッパーとしてはショッピングモールという新たな「街」を生み出した、作り出したと自負しているのでしょうが、まだまだ現在の日本人の感性としてはショッピングモールを街とは呼べないと思います。

で、書店の話です。

あたしの勤務先に引きつけて言えば、うちの本を置いているお店と置いていないお店に真っ二つに分かれます。置いていないというのが、うちの本は売れないから、お店のカラーに合わないから、という理由で置かれていないのであればこちらも引き下がるしかありませんが、どちらかと言えば弊社からの案内や働きかけが足りないのかな、という気がしました。何でもかんでもとは言いませんが、比較的書評にも取り上げてもらえる書籍が多いので、そういった商品を中心に置いていただければ、多少は売り上げに貢献できるのではないかと思いました。

逆に、置いてくださっている書店については、さらにきめ細かく、こちらから「売れています」「重版しました」といった情報を送ることで、書店店頭での具体的な展開などをサポートできればと思います。また売れている新刊や話題の本と一緒に、こんなものも並べてみては(?)といった提案も、もっと積極的にしていかないとならないなあ、と感じました。

ただ、もちろん、まるっきりそういったことをやっていないわけではありません。DMやファクスなども送っている書店さんがほとんどです。書店の方もそういったものを見ている暇がないのかな、と思う部分と、こちらのチラシがアピール面で弱いのかな、という気もします。もう少し工夫を凝らさないと、と改めて思うとともに、あえて苦言めいたことを書かせてもらうなら、東京や大都市圏とは異なり、なかなか出版社の営業も足を運んでくれない、どんな本が出ていて売れているのかという情報が少ない地方の書店なればこそ、こちらから送るDMやチラシ、ファクスなどには貪欲に目を通して欲しいと思いますし、今回のような機会に名刺交換させていただいた方々には、積極的に出版社にアプローチしていただければと思いました。

ちなみに、今回の宿泊は初日が伊香保温泉のホテル木暮、二日目は新潟市内のホテルオークラ新潟でした。

アマゾンは早くない!

さてさて、村上春樹が遂に取るのかと、毎年の風物詩のようなノーベル文学賞。今年はなんと、あたしの勤務先からも翻訳が出ているフランスの作家、パトリック・モディアノが受賞しました。いやー、驚きました。弊社でも受賞を予測していた人は皆無。受賞した今でも驚いている人がほとんどです。ただ、だからといって受賞にふさわしくない作家なのかと言われれば、そんなことはなく、受賞してみれば至って順当とも言えるものだったようです。

さて、たぶん昨晩8時の発表の後、書店員さんたちは早速、自分のお店にモディアノの作品が在庫しているかをチェックしたのではないかと思います。この時間では出版社はもう営業していませんからね。そして、ほとんどの書店が店頭にはモディアノの作品を持っていなかったのではないでしょうか?

モディアノの作品、弊社以外では作品社、水声社、集英社が出していたようです。「出していた」という書き方をしたのは、出版社に在庫があるのか、既に絶版になっていないのか、そういう問題があるからです。その結果、現在も在庫している、いわゆる「生きている」作品(翻訳書)は、作品社が以下のものです。

 

失われた時のカフェで』『さびしい宝石』『1941年。パリの尋ね人』の3点、水声社が以下の作品。

八月の日曜日』の一つ。そして弊社が一つ。

暗いブティック通り』です。

多くの方は書店に探しに行くのでしょうか? それともアマゾンで買うのでしょうか?

「書店は届くのが遅いからアマゾンで買うよ」、そんなセリフをよく聞きます。しかし果たしてそれは真実でしょうか? ネット書店とはいえ、アマゾンも一つの書店です。小売店です。そう考えた場合、本屋なら、そこに売っていればその場で買って帰れます、持って帰れます。でも、アマゾンの場合、午前中に頼めば、夕方くらいには届くのかもしれませんが、場所によっては翌日にならないと届きません。つまりアマゾンの方がはるかに遅いのです。それに当日や翌日に届くのは、アマゾンが自分のところの倉庫に在庫していればの話です。リアル書店がお店にその本を在庫していればその場で売れるように、アマゾンも自分の倉庫にあればこそ、すぐに配達ができるのです。

これは逆に言えば、アマゾンの倉庫になければ、出版社から取り寄せなければならないわけですから、そうなると流通上は街の本屋さん同じことになり、本が届くまでのスピードに違いはありません。アマゾンの倉庫に届いて自宅に配達されるのと、近所の本屋に届いて仕事帰りに寄るのと、どちらの方が速いのか、それはケースバイケースでしょうが、仕組み上はアマゾンが極端に速くなることはありません。

さて、今回のノーベル賞です。

まず、上に挙げた書籍はどれも、リアル書店では在庫しているところがほとんどなかったと思われます。なぜかと言えば、今売れに売れている、大ブームの作家というわけでもなく、つい最近の新刊というわけでもないからです。書棚のスペースに余裕がある大型書店で棚に一冊残っていればラッキーだったと思います。そして、それはアマゾンでも同じだったようです。いかなアマゾンと言えども、あらゆる出版社のあらゆる出版物を何十冊、何百冊と保管しておく倉庫などありません。いままさに売れている作家や書籍なら百や千単位で在庫しているかもしれませんが、それ以外は一冊か二冊持っていれば通常は御の字のはずです。むしろ日本中の全出版物という視点で考えればアマゾン自身が在庫していない出版物の方がはるかに多いでしょう。

つまり、リアル書店もアマゾンも出版社へ発注しないと入荷しないということです。なおかつ、出版社がこれらの書籍を潤沢に持っていたかというと、それも微妙です。まるっきり「在庫切れ、品切れ」ということはないにしても、一気にこれだけの注文が殺到したら、数分で在庫はすべてなくなってしまいます。後はいつ戻ってくるかわからない書店からの返品を待つか、出版社が重版するのに期待をかけるかです。

で、今回の場合、弊社も他社も、重版を決断したようですが、決断したからといって、明日明後日に出来上がってくるものではありません。大手出版社の文庫やコミックなどは数日で作ってしまうのかもしれませんが、こういう文芸書の場合、重版を決め手から出来上がるまで、二、三週間はかかるものです。それまではリアル書店もアマゾンもお手上げです。読者としては近所の書店に注文してもよし、アマゾンに注文してもよし、という状況だと思います。いま、上掲の書籍、アマゾンでもほとんどが品切れか、あっても中古品という状態ではないでしょうか?

弊社の場合、『暗いブティック通り』の重版は今月の24日に出来上がる予定です。これはあくまで出来上がってくる、という日付です。その日に出来上がってくるので、取次(←出版業界の問屋です)に出荷できるのが27日(25日、26日は土日なので)となります。取次から本屋に届くのに何日かかるのか、それは出版社にはわかりませんが、取次の倉庫は基本的には東京にあるので、東京に近い書店の方が早く到着すると言えます。平均すると、今月中に手に入るかな、というところでしょうか。

アマゾンを使う人の理由に、「カードが使えるから」というのもありますが、街の書店もちょっと大きなところならクレジットカードは使えますよね。気軽さで言えば、セブンイレブンで取り寄せるのが、近所にセブンイレブンがある人には便利かもしれないですね。

さて、出版社としてあとは何をすべきか。

まずは、いまは書店にもアマゾンを初めとしたネット書店にも『暗いブティック通り』はないと思います。出荷できていないのですからあるわけがありません。どうしても今すぐにというのであれば中古品を当たっていただくしかありません。「少しなら待つよ」というのであれば、重版をお待ちください。今月末には書店店頭に並ぶはずです。近所の書店に予約を入れていただければなおさらよいと思います。で、こちらも声を大にして、「いま重版しています。もう少し待っていただければ出来上がりますので、申し訳ありませんが、ご勘弁ください」という情報を流すことだと思います。ちょっと(?)待てば手に入るんだとわかれば、いたずらに古書価格がつり上がることもないでしょうし、変に気を揉むこともないでしょうから。我々もできる限り情報を拡散したいと思います。