ガイブン蟻地獄

今日から出張です。土曜の晩に帰京予定です。その行きの新幹線で手持ちの本を読み終えてしまったので、大阪に着いてまずは書籍の調達。

何を選びましょうか?

ところで、このところ寝しなに毎晩『危険な関係』を読んでいます。たぶんそれが影響したのでしょう。現代新書の『フランス文学と愛』を買いました。

移動の車中で読み始めましたが、ダメです。野崎さんが紹介する文学作品、片っ端から読みたくなります。これでは時間とお金がいくらあっても足りません。

まさしく蟻地獄。抜け出せません。読みたいと思った本を全部読み終われば、蟻地獄から抜け出せるのでしょうか? いや、たぶん読み終わったと思った時には、また次の読みたい本が壁として立ちはだかっているのでしょう。

でも、いま「壁」と言いましたが、そんなに嫌な壁ではありません。心地のよい囲われ方です。それにこの蟻地獄の底には虫は棲んでいないはずですし!

売れるから……

Facebookにも書きましたが、朝日新聞に、嫌中憎韓本が書店店頭を席巻しているような記事が載っていました。こういう本ばかり並べるのはどうかと思うが売れるから、という書店員のコメントも載っていましたが、「売れるから」という理由だけで本を並べていてもいいのでしょうか?

いや、資本主義社会なのだからそれでよいわけで、それが正しいのでしょう。

だったら、出版は文化だ、みたいな言説は即刻やめるべきだと思うのですが、そういう態度を選択するわけでもなく、一方で知的営為のような顔をしつつ、しっかり儲けに奔っている、そんな底の浅さが見え隠れしています。

別に書店だけを非難するつもりはありません。そもそも本を出している出版社があるわけで、それだって「売れる」というからには「読者のニーズ」というものが前提になっているはずですから、巡り巡って、結局一番悪いのは読者ということになるのでしょうか?

確かにそうでしょう。でも、やはり書店が地域の文化的な核であると言うのであれば、入荷した本をただ並べるのではなく、そこに文化の核としてのフィルターをかけてやるくらいのことはしてもよいのではないか、そう思います。ですから、思いっきり「嫌中憎韓」に偏った本ばかりを並べるというのも、その書店としての主義、主張、信条に基づくのであれば致し方ありませんが、もう少しバランスを取るような書店が増えてもよいのではないかと……

でも、フィルターをかけようにも、勝手に取次から入ってくるから、という側面もあるのでしょうね、いまの出版界には。それでは書店としては、入ってきた以上並べるしかない、ということになるでしょう。出版社もいたずらに嫌中憎韓本ばかり出していて、文化の一端を担っているという矜持はないのでしょうか、と出版社の人間として天に唾するようなことを言っているわけですが(汗)。

しかし、安倍自民党政権の右傾化などと言われますが、出版社も嫌中憎韓本ばかり出し、それらばかりを並べる書店があり、そういう本を好んで買っていく読者がいる。つまりは国民全体が右傾化しているんですよね。先日の国際会議で安倍総理が現在の日中両国を第一次大戦前の英独両国にたとえたりしていましたが、気づいたら戦前のような社会になっていた、ということになりかねない、そんな気がします。

少なくとも昨今の選挙などで示された民意を見ると翼賛化していることは紛れもない事実のような気がします。

書名、読めますか?

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司馬遷と百田尚樹

違和感のあるタイトルですが、最近の百田尚樹に関するいろいろな人の発言を見ていると、作品と作者の関係について考えさせられます。大ヒットしているらしい映画「永遠の0」についても、あたしは見ていなし、原作も読んでいないので意見を言えるような立場ではありませんが、それでも岡田准一、井上真央といった人気訳者二人が主演で特攻隊の映画であるとくれば、作者がどんなに戦争反対、平和が大事と主張しても、あの時代を美化しているように思われてしまうのも仕方ないのではないかと思います。

今回の映画に限らず、安倍と仲が良いという時点で、あたしは虫が好かないのですが、個人的な主義・主張や信条と作品は切り離して考えるべきなのか、それとも一体と見なすべきなのか、難しいところです。どんなに作者が嫌いでも、素晴らしい作品なら、それはそれで評価しようという意見にも一理あると思いますし、作品には作者の人柄がにじみ出るものだから決して切り離せないという意見にも大きくうなずいてしまいます。

そんなことを考えていて思い出したのは司馬遷の言葉です。

司馬遷と言えば中国の古典中の古典、『史記』の作者です。紀元前100年くらいのころに生きていた人です。時の皇帝・武帝の怒りを買って宮刑に処せられ、それでも生き恥さらして(←泰淳を思い出しますね)『史記』を完成させた歴史家です。『史記』が歴史書なのか、はたまた司馬遷の小説なのか、この「小説」というのは現代の小説と意味ではなく、歴史書が客観的で公正なものであるという建前に対し、『史記』が司馬遷の歴史観を色濃く反映している作品であるという意味でやむなく使った単語です。

その司馬遷には「任安に報ずるの書」という文章があります。「任安」とは人の名前で「ジンアン」と読みます。有名なエピソードなので知っている方も多いと思いますが、当時の漢帝国(世界史で習ったところの前漢)は北の異民族・匈奴(きょうど)との死闘を繰り返していました。長らく漢の方が劣勢だったのですが、武帝の時代になり、漢の国力がついてくると有能な将軍も輩出し匈奴を打ち破るようになってきました。そんな漢側の大将の一人・李陵が匈奴の大軍に囲まれ降伏するという事件が起き、武帝が烈火の如く怒ります。君側の重臣たちは武帝におもねり李陵を非難するのですが、司馬遷だけは李陵は立派に闘いやむを得ず降伏したのだと弁明したため死刑を宣告されるのです。

本来ならこのまま死刑になるところ、司馬遷には父親の遺言によって古代から現代までの歴史書を仕上げるという一族の使命があり死ぬわけにはいきません。そこで死刑をあがなう手段として宮刑に処せられるという方法を選んだのです。男子にとって求刑とは男子でなくなることですから屈辱的な刑罰です。それでも歴史書を完成させるためには他人からなんと言われようと生きながらえなければならない、というのが司馬遷の思いだったわけです。

その後、時間をおいて、そんな気持ちを友人の任安に伝えた手紙が「任安に報ずるの書」です。『文選』(←「もんぜん」と読みます)に収録されていますので古代から日本人にもかなり知られている文章です。ここで、ようやく百田尚樹の話からつながるわけですが、この手紙の中に作品と作者の関係について有名な一節が載っているのです。大意だけを紹介しますと、

「周の文王は囚われの身となって『周易』に説明を付し、孔子は災厄に遭って『春秋』を作り、屈原は放逐されて『離騒』を賦した。また左丘明は視力をなくして『国語』を編み、孫子は脚を斬られて『兵法』を整えた。呂不韋は蜀に左遷させられて世間に『呂覽』が伝わり、韓非は秦に囚えられて「説難」「孤憤」という文章を作った。『詩経』三百篇はおおむね聖人や賢者が発憤して作ったものであり、すべて人の思いがそこに凝縮されているのである」

中国古典に不案内な人にはちんぷんかんぷんな文章かもしれませんが、古典作品はどれも個人の熱い思いによって作られているのだと言うことを述べ、自分の歴史書も司馬遷一族が受け継いできた歴史的な使命がそこに宿されているのだという表明です。こういう文章を学生時代に読んできた人間には、やはり作者が嫌いだと作品も嫌いだし評価もしないという結論に行き着いてしまうのです。

オオカミだらけ?

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