2015年のアーカイブ
最高学府でもフェア、スタート!
駒場の東京大学生協で、あたしの勤務先のフェアが始まりました。
【白水社20%OFF】 白水社創立100周年フェア始まりました! 本日〜7/31まで組合員の方は20%OFFです。 辞書もクセジュもuブックスも対象◎ pic.twitter.com/Xgqe6l19yS
— 東大生協駒場書籍部 (@komababook) 2015, 6月 15
大学生協というと学生が利用するものだと思いきや、書籍の場合、意外と先生の利用が多いのですよね。学生はお金を持っていない? そんなこともないのですが、やはり先生方の方が書籍に対する関心は軒並み高いようで、大学生協でのフェアの場合、先生方がどれだけ来訪されるかによって売り上げの多寡が決まります。
さあ、今年の東京大学はどうでしょう?
サメ・フェス、後半戦
引き続きムービープラスの「サメ・フェス」です。本日は「ゴースト・シャーク」と「テンタクルズ
」です。
まずは「ゴースト・シャーク」です。
バカな親子に殺されたサメが怨霊が宿るという洞窟で復活を遂げ、ゴーストとなって人を襲うという、「ジョーズ」の亜流とも呼べない作品です。ゴーストなので神出鬼没なのですが、サメだけあって、水野ないところには出現できないというところがミソです。
怨霊となったサメの仕業だと気づいた若者たちがサメを退治しようと、洞窟の謎を知っていそうな変人灯台守と最初は反発しながらも最後は協力してサメに立ち向かうのですが、街の観光に響くからと真実を公表したがらない市長やそれに振り回される保安官といった群像劇はまるっきり「ジョーズ」です。
本作で一番のひねりというか工夫は上にも書いた洞窟です。かつてこの町に住んでいた人が忽然と姿を消したことがあったようで、更にその前には先住民を虐殺した歴史もあったこの土地。その虐殺された人たちの死体を洞窟に隠したらしく、それ以来、この洞窟には怨念がたまっているとか、そんな因縁、歴史譚を主人公たち若者が追っていき、サメの怨念を封じるというストーリーです。
作品自体は思いっきりB級です。ただ上述の歴史譚をもう少しうまく使えばもっと面白い作品にできたのではないか、という気がします。予算がかかっていないからゴーストのサメのCGがひどいのは許すとして、せっかく過去の怨念というサブストーリーを持ち出したのだから、それをもっと活用すべきでしょう。変人と言われた灯台守も実は亡くなった奥さん思いのいいひとなわけで、幻覚なのでしょうけど奥さんの幽霊まで登場したのだから、サメ退治に奥さんの力を借りるのかと思いきや、そんなことはまるでなく、おくさんはそれっきり。うーん、こういうところがB級なんでしょうか?
続いては「テンタクルズ」です。1977年の作品だそうで、どうりで作品の最初から終わりまで、誰かしらタバコを吸っているシーンがある、現在では考えられないような内容です。ストーリーもこの手の作品にありがちで、違法な海洋工事の影響で凶暴化した巨大タコが人を襲うという内容です。
途中まで、あまりタコの姿を映さずに進めていくのは「ジョーズ」のパクリのようですが、最後までほとんどタコの姿は、全体としては映りませんでしたね(笑)。あれっ、という感じです。他の作品なら生き残りそうな人が結構死んでしまうのも驚きです。そして途中までは主人公とおぼしき役割の新聞記者が後半はまるで出てこない! これまた、あれっ、という感じです。
さて、この凶暴なタコをどうやって退治するのか? 結局、後半の主人公、水族館のシャチ調教師がシャチを使ってタコと戦わせるという、「うーん、人間は何やってるの?」というオチ。いや、海中でタコに襲われた主人公のピンチにシャチが駆けつけてタコに襲いかかりついには倒すというくだりは、なんか忠犬ハチ公的な主人と飼い犬、じゃなくて飼いシャチの愛情物語っぽく、さらにはタコと相打ちになったか、あるいは大海原へ帰ってしまったと思いながらもシャチの行方が気になってクルーザーを走らせる主人公の元へシャチが戻ってくるところなど、ちょっとお涙頂戴的なストーリーです。
しかし、それにしては、シャチとタコの死闘がよくわからない。美味しそうにゲソを食っているだけにしか見えないのは、あたしの目が悪いせいでしょうか?
そうそう、ムービープラスは7月もホラー特集があるそうなので愉しみです!
まゆゆ、頑張ったね!
視聴率的には大爆死と言われ、当初の全10話か11話が、第9話で打ち切りになってしまったという、フジテレビ系「戦う!書店ガール」の最終回。
多くの人が指摘するように、やはり脚本が悪かったのかな、という印象です。特に本来ならあと3回(2回?)あるはずだった放送を一回に詰め込んでしまったため「無理矢理感」はどうしても否めません。最後の最後の企画を実施して、退職&再就職問題にもけりがつき、なおかつまゆゆの結婚式まででは視聴者もついていけないと思います。なんであんなことしちゃったのでしょうか? 少なくともまゆゆの結婚シーンは不要でしょ? それとも一部のファンに(いるのか、いないのか?)まゆゆのウエディングドレス姿を披露したかっただけなのでしょうか?(←オタクはたぶん見たくなかったのでは?)
でも、出演者たちは非常によく演じていたのではないかな、と思います。あたしは、あまり「演技が下手」とか、そういうことはわかりません。監督の演出がどうのとか、シナリオが悪いというのもよくわからないです。今回「脚本が悪い」と書いたのは、あくまでストーリー展開に無理を感じるからであって、もしそういう展開をプロデューサーやディレクターが求めていたのだとすれば、脚本家が悪いわけでもないと思います。いやプロであれば、それでもそれなりのシナリオに仕上げるべきなのでしょうか?
何度も書いているように、原作ではこの書店のモデルは立川にあるオリオン書房です。長いこと地元に愛されたその書店が閉店になり、最後の一ヶ月、悔いが残らないように、それまで何かとぶつかっていた理子と亜紀が奮闘し、それなりの満足感、達成感を味わってエンディング、でした。数年前のジュンク堂書店新宿店閉店時の盛り上がりのようだ、と言ったらなんとなく伝わるでしょうか? 原作者の碧野さんがこれこっきりの作品と考えていたのか、それとも最初からパート2
を考えていたのかわかりませんが、原作小説では理子と亜紀は吉祥寺のジュンク堂書店とおぼしき書店に転職し、こんどはここで頑張るというのがストーリーです。小説のパート3
も舞台は吉祥寺です。最新刊のパート4
こそ主人公が代替わりしていますが、やはり舞台はジュンク堂書店吉祥寺店です。
という原作の流れを考えると、もしこのドラマの視聴率がよければパート2も考えられたのではないでしょうか? その場合、田辺誠一演じる田代が勤めるユニコーン堂で理子と亜紀が再び奮闘する、というストーリーが予想されます。しかし、ドラマでは仲間たちがユニコーン堂へ転職したのに対し、主人公である理子は自分だけの小さな書店を開いています。そして亜紀もそこへやってくるのです。どう見ても、これは「続編は無いぞ」と言っている感じですね。
さてさて、書店業界、否、出版業界が長い不況にあえいでいることは誰もが知っていることだと思いますし、そのため街の本屋が毎年閉店していることも、池袋のリブロのように大型店でもなければ、もはやニュースにすらならない状況です。ですから、ドラマとはいえペガサス書房の売り上げが悪いから閉店というのはリアルな話です。
ただ、門外漢がわかったようなこと言うな、と怒られそうですが、人口も少ない地方の街ならともかく、大都会・東京の吉祥寺にある一番店が売り上げ不振で閉店なんて、ちょっと設定上無理を感じます。もちろん東京のターミナルにある書店だって、現実問題としては昨年並みか、(消費税アップもあったので)若干のマイナスというところだと思いますが、ドラマで言われていたほどの売り上げダウンで閉店なんて、ちょっと考えられないところです。
むしろ、理子や亜紀たちの頑張りを引き立てるためでしょうが、前店長・野島エリアマネージャーのような人が上に立っていたからこそ売り上げがダウンしたのではないかと思います。あの野島マネージャーを始めとしたペガサス書房上層部の旧態依然とした時代遅れ感、女性蔑視の態度、あれこそがペガサス書房吉祥寺店を閉店に至らせた元凶だと思います。あんなトップの元では、ペガサス書房は次々にお店を閉めていかざるを得なくなる、そう思います。
さきほど、もしこのドラマのパート2があるなら、と書きましたが、もしそれを見越していたのなら、ペガサス書房吉祥寺店をユニコーン堂が居抜きで引き継ぐ、もちろん従業員も希望するならそのまま、というストーリー展開が最初の構想だったのではないでしょうか?
サメ・フェス
CSのムービープラスで「サメフェス2015」が放送されました。
サメ映画ばかりが放送されるウイークで、かつて何度か見ている「ディープ・ブルー」以外は未見の作品なので、すべて録画しまして、まずは二作品を視聴しました。「パニック・マーケット
」と「シャークトパスVSプテラクーダ
」です。
ちなみに「ディープ・ブルー」はサメの知能を科学的に発達させるという設定でしたが、サメ映画というとそんな風にサメに手を加えるか、元祖ジョーズのように巨大化させるか、そのどちらかという気がします。
まずは「パニック・マーケット」です。舞台はオーストリアです。かつて親友がサメに襲われて死んでしまった心の傷が癒えない主人公、その親友の妹であり主人公の元カノが主人公が働くスーパーマーケットに現われ、そこに強盗が押し入り、悲鳴が上がったりしているときに突然の津波。どうやら巨大地震が起こったようです。海の近くなので海水が流れ込んできて、一緒に魚たちも泳ぎ回る店内。少しずつ水かさも増してきますし、地震の余震が時々襲ってきます。
しかし、そんなことだけなら瓦礫をかき分け外へ脱出すればいいだけの話。あろうことかサメが店内をおよびまわり、水に落ちた人たちを襲うのです。このサメ、体長が4メートル弱と決して巨大ではありません。商品陳列棚にアタックしたり、ぶっ壊したりして生存者を水の中に落とす、といった知能や芸当があるわけでもないです。ただひたすら泳ぎ回っているだけ、たまたま近くに人がいたら襲うというだけなので、襲ってくる怖さは感じられないです。
さて、この手の映画ではサメ自体も肝心ですが、生き残った人間のドラマの出来が映画全体の出来を左右すると思うのですが、その点では割とマシです。B級映画にしてはよくできていると思います。親子のわだかまりが解けたり、元恋人同士が復縁したり(その影に今カレの死がある!)、自分勝手に助かろうとする役回りの人がちゃんと見どころを作って……
特に地下の駐車場と主人公たちがいる売り場という、2つの舞台を用意しているところがこれまでにはなかった点かも知れません。ただ、自分勝手な奴のせいで主人公たちがもっと苦しい目に遭うとか、危機的状況が更に絶望的になるとか、そういったハラハラ感をもっと作って方がよかったのではないかという気がします。それに最終的なサメの仕留め方もなんかパッとしないです。そこが残念です。
続いては「シャークトパス VS プテラクーダ」です。もうタイトルだけでB級どころかZ級のようなチープ感が漂いますが……
こちらは科学者が、遺伝子操作で「バラクーダ」と「プテラノドン」を合成した「プテラクーダ」という水陸両生、空も飛べる怪物を作りだし、コンピュータで操作していたのが、他人にハッキングされて暴走、人を襲い始めます。一方、主人公の女性動物生態学者はたまたまサメとタコが合体した「シャークトパス」を見つけ、おじさんが経営するマリンパークで飼育を始めます。実はこのシャークトパスも科学者が先に作りだした生物だったのですが失敗作として処分されたはずなのに、たまたま生き残ってしまった一体だったのです。そして、この二頭を戦わせて相打ちにさせ葬ろうとするのですが……
とにかく、こんな生物が存在するわけがないので、すべてCGですが、それが安っぽいです。CGですから、人を襲うところもリアルさに欠けます。いや、役者たちは、ここで襲われるとイメージして必死に演技しているのでしょうけど、いかんせん襲ってくる怪物が安っぽいので怖くも何ともありません。
肝心の人間ドラマも薄っぺらで、とてもお金を取って映画館で上映するような作品とは思えない、と言ってしまったら言いすぎでしょうか?
さて、残り2作品はどんな作品なのでしょうか?
この出版不況に……
マイ・フェイバリット・ソングズ
通勤電車の中で本を読んでいる人がめっきり減りました。ジャンプなどのマンガを読んでいる人も含めて減ったと感じます。そして通勤電車の風物詩、見事に縦折りした新聞紙を熱心に読んでいるサラリーマンも。
では、みんな電車の中で何をしているのかと言えば、あたしが指摘するまでもなく、みんなスマホをいじってます。サラリーマンなどはタブレットやスマホで新聞を読んでいる人もいるようです。またやや画面の大きいスマホですと本を読んでいる人もたまに見かけます。しかし、圧倒的多数はゲームをしています。それも結構年配の人でもゲームをやっているんですよね。それにちょっと驚いている昨今です。
さて、かつてはウォークマン、この十年くらいならiPodで音楽を聴いている人も多かったですが、徐々にスマホに取って代わられているようです。スマホでも音楽を聴けるわけですから、わざわざスマホも持ってiPodも持って、なんて面倒なことはしたくないのでしょう。でも、スマホのバッテリー持続時間とiPodの持続時間はかなり異なると思いますし、ましてやそのスマホで音楽を聴いたりしていたら、さらにバッテリーの持ちは悪くなるでしょう。それでも、スマホで音楽という人、増えていますね。
だからなのでしょう。このところ音楽のネット配信のニュースが多くなったように思います。これまでのように一曲いくらで自分のスマホにダウンロードするのではなく、月額いくらで聞き放題、ただしすべてストリーミング再生のみでダウンロードはできない、というタイプです。(山の中とか、電波の届かないところだと聴けないのですよね?)
これで日本の音楽シーンがガラッと変わるのか? 日本は独特のCD文化があると言われているので数年後のことはわかりませんが、ストリーミングだけになると、CDと一緒に購入する握手会券などはどうなってしまうのでしょう? AKB商法の大ピンチなのでしょうか?
個人的には、たまにCDを買うくらいで、後はそれをずっと聴いていることが多いので、月額定額聞き放題と言われても、そもそもそんなにCDを買ってないし、と言い返したくなります。それでも「LINE MUSIC」などのサービスを聞くにつけ違和感も感じます。別に反対しているのではありません。疑問と言った方がよいでしょうか?
まず、どれだけの楽曲が提供されるのか? 徐々に増えるのでしょうけど、お気に入りの歌手の楽曲がなかったらまるで意味がないですよね? あと、自分なりのプレイリストは作れるのでしょうけど、それを他人にも提供できるのでしょうか?
自分なりのプレイリスト、つまりは「マイ・フェイバリット・ソングズ」です。
あたしの世代ですと、そもそもがアナログレコードの時代です。好きな歌手のアルバムが数枚たまると、そこからお気に入りの曲だけをセレクトしてカセットテープにダビングして、「マイ・フェイバリット・ソングズ」を作ったものです。それを好きな子にプレゼントする、なんて甘酸っぱい昭和の想い出はあたしには無縁ですが、自分で聴くためには作ったことはあります。
そもそも、かつてのレコードの場合、アルバムはA面5曲、B面5曲の10曲で構成されていることがほとんどでした。長めの曲があると片面が4曲なんていうこともざらでした。そして歌手の人たちはA面とB面の楽曲、その順番にこだわったものです。A面は明るい曲やノリのよい曲、B面はしっとりとしたバラード中心、といった構成にしたりして、特にA面5曲目やB面1曲目には名曲が置かれることが多かったものです。
それがCDになり、A面、B面という情緒がなくなり、曲数も十数曲が当たり前になり、レコード時代のよさは完全に失われました。CDからiPodなどに取り込んで、更に独自のプレイリストを作ることは可能ですが、レコードを裏返したり、他のレコードをセットして針を落とす、そういう体を使った作業がなくなった分、プレイリストはプレイリストであって、フェイバリット・ソングズではない、という気がしてしまいます。
もちろん昔はよかったとばかり主張するつもりはありません。現在の非常に手軽な音楽事情もそれはそれで享受しているので文句はありません。ただ、思い入れとか気持ちとか、そういったものは同じではない、同じであるはずがない、とは思います。