庶民目線?

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2016年4月11日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

天国ではない?

パナマ文書のニュースでしばしば耳にするタックスヘイブン。

タックスヘイブンって何だ? という日本人も多いのではないでしょうか? だからなのでしょう、ニュースではほぼ決まってタックスヘイブンと言った後に「租税回避地」という日本語訳が続きます。

でも、租税回避地と言われても何のことやら一般庶民にはさっぱりです。うまいこと、法の網をすり抜けて節税ができる場所、縁のない庶民から見れば限りなく脱税に近いことができる場所、という意味でしょうか?

あたし、最初に聞いた時は「タックスヘブン」だと思っていました。曰く、税金をうまいこと逃れられる、つまり金持ちにとっては天国のような場所、という嫌味もこめて「ヘブン」と呼んでいるのかと……

でも綴りが違いましたね。heavenとhavenですか?

ちなみに蔵書印

先程は蔵書票について書きまして、その中で、日本や中国などは蔵書印の方がメジャーではないか、と書きました。

これについて、確かなことを知っているわけでもありませんし、学問的な裏付けがあるわけではありません。ただ、書画の巻物などには昔から所有者の印が押されているのを展覧会などでしばしば目にしていますので、蔵書印という文化が中国や日本にあるのは間違いないとは思います。

閑話休題。

上の写真はあたしの蔵書印です。

はい、あたし、自分の蔵書印は持っているのです。「罔殆蔵書」と彫ってあります。

「罔殆」は『論語』の「学びて思わざれば則ち罔し」から取っております。ブクログも「罔殆庵藏書樓」と命名していて、あたしなりの座右の銘的なものです。

エクス・リブリス!

今日の朝日新聞にこんな記事が……

蔵書票を作ろう」という記事です。

「蔵書票」って知りませんか? 日本や中国では蔵書印の方が有名かもしれませんね。あたしも詳しいことは知らないのですが、欧米では蔵書票のコレクターまで存在すると聞いたことがあります。趣向を凝らしたものであれば、それだけを持っていたくなるものです。

で、上の写真。記事の下の方に置いてあるのは、かつて京都の恵文社一乗寺店へ行ったときに買った蔵書票です。蔵書票ですから、記事にもあるように本来は個人個人で作るものなのでしょうが、このように市販されているものもあるのですね。蔵書票として機能させるには、ここにあたしの名前なりサインなり、なんらかの目印を付けないと「あたしの蔵書票」にはならないでしょうね。

ところで、インターネットで蔵書票を検索すると、相当数の検索結果がヒットしますし、グーグルの画像検索ならさまざまな蔵書票を見ることができます。が、そんな中、ありきたりではありますが、ウィキペディアでも構いませんけど、蔵書票を検索すると、「エクス・リブリス」というラテン語由来の呼び名が目につくと思います。

そうです。あたしの勤務先の海外文学シリーズ<エクス・リブリス>は、この蔵書票から命名しているのです。

ちなみに、上の写真はあたしの家の書棚、エクス・リブリスを並べている一角です。

特急の奇数と偶数

NGT48の「Maxとき315号」という曲をテレビで見ていて思いました。

歌詞をちゃんと確認したわけではないけど、これって東京から新潟へ向かうという設定なのよね、って。

何故かというと、「315号」だからです。

言わずもがな、JRの特急は、東京から地方へ向かう、東京以外の土地なら一般に下りと呼ばれる方向に走る列車が1号、3号、5号……と奇数番号、逆に東京へ向かう、上り方向の列車は2号、4号、6号……と偶数番号を使うというルールになっているからです。つまり、315号という奇数番号の新幹線は東京から新潟方面へ向かう列車になるわけです。

そんなの当たり前でしょ、という方も、若い人を中心に多いと思いますし、若い方でも特に列車に興味のない方は「へえー、そうだったんだ」という感想かもしれません。ただ、40代以上の人だと、下りは奇数、上りは偶数というのが必ずしも常識にはなっていなかったりします。

何故かといいますと、かつては上りも下りも特急の番号は1号、2号、3号と振られていたからです。つまり東海道新幹線で言うならば、東京発のひかり1号もあれば、東京へ到着するひかり1号もあったのです。

これは新幹線に限らず、在来線の特急でも同じでした。ですから、往年のヒット曲、狩人の「あずさ2号」も新宿発の列車という設定になっています。この曲が発売された当時は、新宿朝8時発のあずさは2号だったのです。たぶん1号は7時発だったと思います。

ということは、逆に今の若い方にはまるっきり信じられないことかもしれませんし、上りと下りで同じ番号があったら混乱しそう、という意見も頷けます。たぶん、そういうこともあって、ある年に一斉に変更したのでしょう。

で、その変更のあおりをうけ、この「あずさ2号」は「このまま歌い続けてよいのか?」などという議論も当時は真面目に語られたりしていたものです。もちろん一斉に変更になる前日、新宿8時発の最後のあずさ2号が新宿駅を発車するところは大きな話題になり、ニュースでも盛んに取り上げられていました。

まあ、そのあたりのところはウィキペディアにまとめられているようなので、そちらをご覧ください。

グータッチ

フジテレビ系の新番組「ライオンのグータッチ」を見てみました。

いや、なに、「なあちゃん」こと乃木坂46の西野七瀬がMCで出ているからなのですが……

で、フジテレビ系と上に書きましたが、この手の休日午前の番組って系列局でも放送されているのでしょうか? もしかしたらフジテレビのみ、つまり関東ローカルなのかも?

それはともかく、なあちゃん、やっぱりカワイイですね。

番組の内容はスポーツをする少年少女たちを応援するってコンセプトなのでしょうか? あるいはスポーツに限らないのでしょうか? 今回は四年間レスリングに打ち込むものの、いまだ公式戦で勝利したことがない少年(小学4年生)が、悲願の初勝利を目指して奮闘するというストーリー。浜口京子に指導してもらったり、大会の初戦対戦相手が全国大会三位の実力者だったり、二年生の弟は既にそのクラスの全日本チャンピオンだったりと、なんか初勝利に向けてドラマのお膳立ては揃いすぎている感じです。

もちろん、そう簡単に勝てるわけもなく、結果は完敗。ただ、これまで試合開始数十秒でフォール負けしていた少年が、全国三位を相手に試合時間最後まで戦い抜いたというのはかなりの成長。監督もこれまでで一番内容がよかったという褒め言葉。

VTRに涙するなあちゃん、カワイイ。

で、土曜の午前に見るには、いかにも健全な番組なのですが、あたしは、ふと疑問を抱きました。

本人が好きでやっているのだから、とりあえずはよしとしますが、この少年にこれからもレスリングをやらせるのでしょうか? 全国チャンピオンの弟はともかく、この主人公の少年は果たしてレスリングを続けるべきなのか、親目線というか、大人目線では悩みどころです。

あたしはレスリングはド素人だからわかりませんが、彼にレスリングの才能があるというのであれば続けさせるのはよいと思いますが、別の才能の可能性を探すというのも方法ではないでしょうか? 四年もやって勝てないのであれば、「向いてない、才能がない」という判断もありだと思います。

そうなると、その子に向いている才能を伸ばしてやるのも親や大人の務めではないのか、そういう気もするのです。弟はスポーツに向いていたけど、お兄ちゃんは文化系だったかもしれないし、あるいは理系なのかもしれませんから。

海外文学と中国

藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』を読んでいて、アメリカ的なものを背負わない作家が増えているということはわかります。アメリカ生まれアメリカ育ちの、まさしくアメリカ人作家もそうですし、外国からアメリカに渡ってきて英語で執筆するようになった作家ももちろん増えているようです。

誰もが普通に英語を使い、英語で執筆する、それがグローバル化なのだと言われてしまえばそうなのかもしれませんし、今後のアメリカ文学の流れ、ひいては世界の文学の潮流、藤井さんも楽しみながら眺めているのではないかと思います。

さて、こういう文章を読んでいてあたしが思うのは中国のことです。フランスなどは英語を使うのを減らそうと躍起になっているようですが、やはりヨーロッパの共通語は英語だと思いますし、アメリカのスタイルがスタンダードになっていると思います。アメリカと争った共産圏もアメリカ文化の軍門に降ったと言えると思います。

テロの掃討がうまく行かない中東だって、結局は英語を使い、アメリカ文化の影響は著しいものを感じます。だからこそのアイデンティティの確認、そして極端なテロ行為なんだと思います。

ですが、中国です。

これまで世界の国々はアメリカに対峙して、結局はアメリカに飲み込まれていった、アメリカの影響下に置かれるようになってしまったわけですが、中国だけはそれに抗して、独自の立場を貫こうとしているように感じます。

いや、中国だって、政府高官の子どもはみんなアメリカに留学しているし、エリートはおしなべて英語が話せるし、身の回りのものはアメリカを中心とした欧米の製品ばかりです。

それでも、中国は、これまでアメリカが対峙してきた諸国とはやはり違うと感じます。アメリカへの挑戦の仕方が異なるというのでしょうか、とにかく、あたしにはそう感じられます。それが、アメリカにはない歴史の重みなのか、歴史を背景とした自国文化に対する揺るぎない自信なのか、それはわかりません。

そんな中国の文学が、世界文学に加わったら、文学にどんな影響を与えるのでしょうか? 既に莫言のノーベル文学賞受賞のように世界に認められている中国文学ですが、世界の作家にどれだけの影響を与えているのか、となるとまだまだなのかもしれません。

中国文学は英語に屈せず独自の道を歩むのか、それとも英語に取り込まれてしまうのか、とても気になります。そんなことを考えながら読み終わりました。

母語で……

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

国際文芸フェス絡みの記事です。フェスは既に終わっていますし、この業界外の人、海外文学に興味のない人には「へえ、そんなイベントがあったんだ……」という程度のものでしょうが、やはり海外文学好きには一大イベントです。数日間とはいえ短期のイベントなので、どうしても一過性になってしまいますが、書店でフェアをやったり、こうして少したってからでも新聞などに記事が載れば、それなりに盛り上がりの一助になります。

さて、記事で取り上げられているのはイーユン・リーさん。中国出身ながら英語で執筆している作家です。その、母語ではない言語で執筆していることについて語っていますので非常に興味深いです。

  

この母語では書けないというリーさんの問題意識と、ある部分では重なりつつも、また異なった視点を与えてくれるのは温又柔さんではないでしょうか?

  

そしてそこまで話しが及ぶなら、温さんの『台湾生まれ 日本語育ち』について沼野充義さんが書評で触れていたように、『文盲』のアゴタ・クリストフや『べつの言葉で』のジュンパ・ラヒリなどに触れざるを得ないのではないでしょうか?

そして、何語で書くのかということに拘るのであれば、藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』の一読をお勧めします。