2017年のアーカイブ
朝の食卓で思う
朝はパン食です。小さい頃からずーっとそうです。
で、ふと思ったのです。
上の写真のような、こういう、いわゆる山型パンの場合、「頭から食べる」とか「お尻から食べる」という言い方をしたりしますが、下の写真のような四角い食パンの場合はどうなのでしょう? 袋に入っている状態で上になっている方が頭ですか? でも皿に載せた時点でわからなくなりそうですよね。それとも皿に載せても、焼いたりしても頭側を見分ける方法ってあるのでしょうか?
あと、山型でも四角いのでもどちらでもよいのですが、トースターで焼くときに、どっちを上にして焼くかって気にしますか? つまりこういった食パンに裏と表があるのかってことです。
焼き上がったパンにマーガリンを塗りながら、ついつい考えてしまいました。
どうして殺してくれないのだろう?
この本どこにありますか?
この十数年の書店の大型化、1000坪を超える本屋も珍しくない昨今。そもそも本屋の広さは坪数で表わされることがほとんどすが、それで広さをイメージできる人ってどれくらいいるのでしょうね? いまの若い世代ですと「坪って何よ?」という感じではないでしょうか? でも、本屋に限らず、日本では広さを表わすのに坪を単位とするのがフツーなので、それがたとえ一般人に伝わりにくいものだとしても習慣的に使っているのではないでしょうか?
閑話休題。
本屋が広くなって、目的の本が見つけられないというお客さんは多いようです。日常的に本をよく読み、本屋をよく利用している人であれば、自分の探している本がどんなジャンルなのかわかっているのでそれほど迷うこともなくお目当ての本を見つけられるでしょう。でも、それほどでもない人は大きな本屋に来てもどこから探せばよいのかすらわからないでしょう。
もちろん、本によってはどこに置いてあるのかわかりにくいものもあります。
新刊の『ハヤブサ その歴史・文化・生態』は副題に「その歴史・文化・生態」とあるとおり、ハヤブサについて文化史的、生態学的に書かれたものですから、本屋では自然科学の生物の棚に置かれていることが普通です。大型店ですと、生物の下位分類、動物、鳥類、猛禽類といったコーナーに置かれていると思います。
その一方、同じ著者の前作『オはオオタカのオ』は、確かにオオタカについて書いてはあるものの、父を亡くした著者がオオタカを飼育することによって喪失感を癒していくノンフィクションです。ですから本屋では文芸書コーナーのノンフィクション、海外ノンフィクションの棚に置かれていることがほとんどです。もちろん動物の棚にも置いてあったりしますが、見る限りノンフィクションの方が多いです。
となると、同じ著者の作品でどちらも鳥、それも猛禽を扱った本なのに、一方は自然科学、一方は文芸に置かれてしまうわけです。買う方としてはちょっと不親切と感じるかも知れませんね。ただ、本の内容に従って分類すればそうなるわけですから、これはこれで合理的なのです。もちろん、大型店の場合、在庫一冊ということは少ないですから、この両書を自然科学にも文芸にもどちらにも置いてある書店も見受けられます。そうなっていると読者にはありがたいところですが、書店からすると棚管理がちょっと面倒になるという不都合も出てきます。
次に、これまた新刊の『続・寂聴伝』はそのものズバリ、瀬戸内寂聴さんの評伝です。普通に考えれば文芸書コーナーの評論の棚に置かれているはずです。しかし、瀬戸内寂聴さんの本、小説やエッセイなどは同じ文芸書コーナーでも日本の女性作家の棚に並んでいるはずです。寂聴さんの評伝ですから、興味を持つのは当然寂聴さんのファンの方が真っ先に思い浮かびます。となると、本書も評論ではなく女性作家コーナーの寂聴さんの作品の隣に並べてあった方が効果的なのではないかと思います。
現にそういう並べ方をしている書店も数多くあります。評論に棚にある作家論などは個別の作家の場合、その作家の著作が並んでいるところに置いた方がよいのでしょうけど、他社本ですが『乱歩と清張』だと、こんどは江戸川乱歩のところか、松本清張のところか悩みますね。
『この人、カフカ?』なども評論コーナーに並んでいることもありますが、やはり海外文学のカフカのところに並べた方がよいだろうなあと思います。でも、カフカって、いま単行本で読めるものありましたっけ? ほとんどが文庫(新書版の白水Uブックスもお忘れなく!)ですよね? そうなると、問題はまた面倒なことになります。さすがに文庫コーナーには置けませんし、そもそも文庫は会社別、レーベル別に並んでいますからね。
やはり、本をどこに置くかって難しい。でもそれが面白さでもあり、書店(担当者?)の個性でもあるわけで、こっちに置いても全然売れなかったのが、あっちへ置いたらすぐに売れた、なんてこともよく聞くので、悩み出したら止まりません。
卓球というのは世界選手権も行なわれているスポーツであり競技であり、それに対してピンポンというのは浴衣を着てスリッパを履いて旅館でやるものだと思うのです
いよいよ配本になりました『ピンポン』について……
『カステラ』を楽しめた人であればこちらも十二分に楽しめると思います。で、本を手に取っていただいて、多くの人はまずは表紙やオビの文章をザッと眺めるのではないでしょうか? そして気づくはずです、本書のオビ裏面に。
「本文より」と書いてあるからには、本当にこんなページがあるんだな(?)と疑ってしまうかも知れませんが、正真正銘あるんです。それが下の動画です。
作品の中のクライマックスです。人類の存亡をかけて主人公が闘っているところです。いや、実際に闘っているのは主人公に選ばれた歴史の偉人なのですが、これ以上書くとネタバレになるので自主規制。ちなみに、下は帯の表面です。フツーはこっちだけ読んで、裏面までは読まないでしょうか?
また本書の章タイトルにもなっている「セレブレイション」はこちらです。
懐かしいです。あたしの世代なら辛うじてクール・アンド・ザ・ギャングを知っているでしょう。また「あとがき」でパク・ミンギュが書いている「パーハップス・ラブ」はこちらです。
そして本書を手にした方に一番読んでいただきたいのは「訳者あとがき」で引用されている、パク・ミンギュがセウォル号事件について書いた文章です。本文を読んだ後に読むと、とても同じ人が書いたとは思えない印象を受けるのではないでしょうか? 少なくともあたしはそうでした。
最後に、107頁に「ビリー・ザ・キッド」が出てきますので、『ビリー・ザ・キッド全仕事』もぜひ!
新書というより論文集?
今日の配本(17/05/26)
破天荒つながりで、こんな対談企画は?
今宵は神保町のチェッコリで、明日配本の『ピンポン』の先行販売を兼ねた、訳者・斎藤真理子さんのトークイベントでした。
『ピンポン』の感想は別途書くとして、この作品は『カステラ』に通じるような破天荒さと言いますか、荒唐無稽さと言いますか、そんなところが感じられます。もちろんメチャクチャな話というのではなく、しっかりとしたストーリーがあり、社会風刺的なスパイスも効いていて、だから読後にいろいろ考えさせるところもあるのですが、設定の突飛さはやはり際立っています。
で、あたしの数えるほどの読書体験から思い出したのはプラセンシアの『紙の民』やゴンサレスの『ミニチュアの妻』です。どちらも訳者は藤井光さん。というわけで、斎藤真理子さんと藤井光さんのトークイベントなんて企画できないだろうかと思ったりしました。
藤井さんには韓国系アメリカ作家ポール・ユーンの『かつては岸』という訳書もありますし、なかなか面白い対談になるのではないかと思うのですが……
それにしても、こういう作品を編み出す作者の頭の中ってどうなっているのでしょうね?



