いつかは現地で食べるかも?

朝日新聞の夕刊です。

名古屋の喫茶店のモーニングに関する記事です。

名古屋流のモーニングについてはいろいろ聞くことはありますが、実際に食べたことはありません。なかなか名古屋に泊まる機会がないので、名古屋でモーニングを食べる機会もありません。

いろいろ、こちらが欲しくないものまで付いてくる、というイメージです。この記事にもあるように、コーヒーを頼むとこれだけのものが付いてくるのですね。

ただ、あたしはコーヒーが飲めないので、さあ、どうしましょう?

かなり短絡的に歴史を鑑としてみる

中公新書『ヴィルヘルム2世』の中にこんな部分がありました。

ドイツの経済的躍進は、ドイツの側でも人びとの心性に大きな変化をもたらした。ドイツ人には元来、イギリスやフランスに対する劣等感が根強い。これら西欧諸国の文明的洗練に比して、自分たちの生活習慣や文化は粗野だという引け目である。ところが今、その自分たちは目覚ましい発展をなしとげた。諸外国からも賛嘆されるほどの成功である。だとすれば、われわれは何も他国に遠慮することなどあるまい、自信をもって、もっと堂々とふるまってもよいのではないか--そう人びとが考えるようになるのは自然の趨勢である。(P.121)

この箇所のドイツを中国に、イギリスやフランスを日本に置き換えると、改革開放以後目覚ましい経済成長を遂げた中国によく似ているなあと感じるのはあたしだけでしょうか?

さらには

つけ加えておきたいのが、先に述べた、国をあげての自信過剰という時代の雰囲気である。ビスマルク外交は一言でいえば、自制の外交であった。しかし、人びとの間に国民的自信が沸きたってくると、発想が変わっていく。国力に見合った権益を求めても当然ではないか、という考えが生じる。外相だったビューローが一八九七年に議会演説で述べたように、われわれドイツにも、他のヨーロッパ諸国と同様、世界のなかで「陽のあたる場所」を求める権利があるはずだ、と。(P.125)

とも書いてあります。これなども鄧小平時代の中国と習近平時代の中国のことを書いているのではないかと錯覚してしまうような文章です。そして、ヴィルヘルム2世は海軍の建設に邁進します。これなども国産空母を建造し、介与進出を活発化させる現在の人民解放軍と重なるところを感じます。

安倍政権以来の日本の動きを戦前に戻っている、戦争への道だと表現する人がいます。それはそれでそれなりの妥当性を感じますし、あたしなども第一次大戦後のドイツの歩み、ヒトラーやナチの台頭などはこのところの自民党政治と重なるものを感じます。

歴史を鑑とするということは大事な人類の知恵だと思いますが、こうしてみると第一次大戦前のドイツが最近の中国と重なって見えてくるのは不思議なものです。

「非人気」って表現はいくらなんでも可愛そうではないですか?

ネットの記事です。

アイドルから女子アナへという生き方の是非を云々したいのではありません。昨今の大人数女子アイドルグループはアイドルを極めるのが目標ではなく、それを踏み台に女優やソロ歌手など、それぞれの夢を叶えるためのステップだと割り切れば、女子アナや報道記者を目指すという選択肢があってもおかしくはないと思います。

あたしがここで問題としたいのは「非人気」という表現です。

確かに「不人気」とは書いてはありません。ここはネット記者の精一杯の気遣いでしょうか? 「不人気」ではあからさまに「人気のないメンバー」となってしまいますが、「非人気」と書けば「人気メンバーとは言えない」くらいにニュアンスが薄まりますから……

しかし、考えてみますと人気の有無というのはどうやって決まるのでしょうか? シングルのタイトル曲の選抜メンバーに選ばれるか否かというのがわかりやすいかも知れませんが、あれはスタッフが決めるものであって純粋に、正確に人気を反映したものではありません。だからAKB48の「選抜総選挙」などというものが始まったわけですから。

ただ、その総選挙にしたところで、金持ちが一人で大量にCDを買って投票していると言われていますので、数年前の紅白歌合戦行なわれた投票では毎年のAKBの総選挙とはかなり異なる結果になったのは多くの人の知るところだと思います。

結局のところ、グループアイドルの人気というのは正確には測れないものなのでしょう。もちろん、大きな傾向はつかめるとは思いますが、この斎藤ちはるのような、いわゆる「ボーダーメン」と言われるメンバーになると、同じような立場のメンバーは何人もいて、その中での順位などわからないものだと思います。握手会に並ぶ人数などを見れば推測も出来そうですが、会場によって(地元人気?)違いもあるでしょうし……

で、グループを卒業後、タレントとして生き残るのはかなり厳しい道でしょうが、テレビ局に正社員として採用されるのであれば、これは勝ち組と呼んでもよいのではないでしょうか?

台湾の1949年、こりゃ併売・併読ですよね?

東方書店の新刊『1949礼賛 中華民国の南遷と新生台湾の命運』です。

 

ウェブサイトの内容紹介によりますと

1949年は、大陸では中華人民共和国が誕生した一方、台湾では、中華民国政府がそっくり遷移してきた年であり、台湾が「全身に傷を負った」年でもある。著者の楊儒賓は、台中生まれの台湾人で、「1949」後の台湾の苦悩を知る世代であるが、本書では、1949年の中華民国政府の「南遷」をポジティブにとらえ、それがあったことによって、台湾にそれまでになかった「国家意識」が生まれ、民国の学術――中国の伝統的文化――をそのまままるごと受け継ぎ、60年以上をかけて民主的な新しい台湾を作り出しえたとする。統一派からも本土派からも議論が湧き出た問題の書。王徳威と陳怡蓁の「後序」を掲載する。

とあります。大陸と台湾、1949年にスポットをあてた著作と言いますと『台湾海峡一九四九』が思い起こされます。ちなみに、こちらの内容紹介はこんな感じです。

1949年、国共内戦に敗れた国民党政府軍と戦乱を逃れた民間人とが大挙して台湾へ押し寄せた。その数ざっと200万。一方、50年にわたる日本の統治期を経て、「外省人」という新たな勢力の大波にのみ込まれた台湾人。互いに痛みを抱えながらこの小さな島に暮らしてきた外省人と台湾人の「原点」を、60年が過ぎたいま、見つめ直す。

著者はほぼ同世代ですが、1949年を見つめる眼差しはちょっと異なるようです。是非読み比べたいペアではないでしょうか?

ナチの亡霊は現代にも?

今朝の朝日新聞の読書欄に『ナチズムに囚われた子どもたち(上)』『ナチズムに囚われた子どもたち(下)』が掲載されました。

恥ずかしながら、最初にこの本を手に取った時はナチによる洗脳、ヒトラーユーゲントに関する本なのかなと思っていました。しかし、本書はそういう内容ではなく優生学に関する、家族の崩壊をテーマにしたものでした。

 

いや、そんな簡単なまとめではこの歴史の悲劇を表わしきれないのはわかっています。今回の紹介文を読んでから副題の「人種主義が踏みにじった欧州と家族」を見直すと改めてナチの犯罪の怖さが思い起こされます。

しかし、今回の評にもあるようにナチと同類の考え方はつい最近まで日本でも見られたわけであり、正直なところ、恐らく今でも、世界中でこういう考え方は残っているのだと思います。そのことの方がもっと怖い気がします。