フェアが始まります!
注目して欲しいの真ん中のポスターです。
人文会の創立50周年記念フェアが10月から始まります。
人文会とは何か、については公式サイトをご覧いただくとして、19社の書物が一堂に会します。
紀伊國屋書店ですから普段から棚に並んでいるかも知れませんが、やはり棚にあるだけでは見逃してしまいがちです。こういう機会に目に付きやすい場所に出していただくことで、「へえー、こんな本があったんだ」という発見があると思います。
始まりまでもう少しです。しばしお待ちを!
ちなみに、ポスターの上部に描かれているのは人文会のロゴです。
あたしの場合は韓非子だった
昨日試写会を見に行った『ライ麦畑で出会ったら』ですが、つまりは悶々とした学生時代に『ライ麦畑でつかまえて』を読んで大感激した主人公の話なわけです。恐らく、アメリカだけでも同じような青春時代を送った少年少女は数え切れないほどいるのでしょう。そして翻訳された各国でも。
別に『ライ麦』でなくとも、青春時代に出会って、人生観が変わったと言ったら言いすぎかも知れませんが、その当時の心境としてはそれくらいの衝撃を受けた本というのは、多くの人にあるのではないでしょうか?
あたしの場合、それは中国古典の『韓非子』でした。
あたしも、どちらかと言えば嫌われ者といった存在で、親しい友達もいなくて、孤独な学生時代でした。時代が異なるので昨今のような陰湿なイジメこそ受けていませんが、それなりにツラい時もありました。
そんなときに出会ったのが『韓非子』です。他人を信じてはいけない、他人は絶対に裏切るから裏切られないように注意しないといけないといった徹底的なリアリストぶりに震えました。感動なんていう言葉で言い表わせないほどの衝撃でした。
それ以来、『韓非子』はあたしのバイブルです。『韓非子』に出会ったのが高校の頃で、その影響で大学は中国哲学を専攻したくらいですから。
今日の配本(18/09/26)
あまりに甘酸っぱい青春?
何の用事かと言いますと、映画『ライ麦畑で出会ったら』の試写会を見に行ったのです。映画の公開は10月27日の予定です。
ストーリーは、いろいろ紹介されているように、監督自身のほぼ実話だそうです。ただ、どこまでが実際に起こったことなのか……
さて、高校時代、ちょっといじめられっ子だった主人公(つまり監督)が、そんな自分の境遇そっくりだとのめり込んでいたのがサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』です。そして校内の演劇コンクールで『ライ麦畑でつかまえて』を上演しようと思いつき脚本を書きます。
そしてサリンジャーに上演許可を求めようとエージェントを訪ね取次を頼みますが、物の見事に断わられます。その時にサリンジャーの住んでいる街を書いた雑誌をこっそり手に入れ、それだけを頼りにサリンジャー本人に許可を取るべく訪ねていくという話です。
住んでいるとおぼしき街へ着いても、住民が全員「そんな人、このあたりじゃ聞いたことないなあ」という反応。「みんなで口裏合わせをしているんだ」と判断した主人公は、それでも諦めずに探しまわります。
果たして、サリンジャーの住む家は見つかるのか? 見つかったとしてサリンジャーは会ってくれるのか? 会ってくれたとして上演を許可してくれるのか?
このあたりは実際に映画を見ていただくとして、実はあっと驚くようなどんでん返しはありません。ただ、とにかく映像といいBGMといい、非常に青臭い青春映画そのものです。青臭いというのは褒め言葉のつもりです。
個人的にはダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」を思い出しました。古いと言われるかも知れませんが、最近の映画は知らないので、こんなグダグダした主人公の雰囲気は、「卒業」ほホフマンによく似ていると感じました。
主人公がサリンジャーを探しに行く時の風景もとてもきれいな映像で、上にも書いたBGMが非常にマッチしていて、懐かしさを覚えます。あたしのように『ライ麦』を読んでいなくても十二分に楽しめる映画でした。
来日時のインタビュー記事が載りました
《エクス・リブリス》の新刊『ここにいる』の著者、王聡威さんが少し前に台湾から来日されました。
トークイベントも東京で行なわれたのですが、そんな合間にインタビューを受けていて、その記事が土曜日の読売新聞夕刊に載りました。
それにしても、大阪で起きた事件に興味を持たれ、それをいろいろ調べ、舞台を台北に移して小説化するなんて、ネット社会だからこその作品という気がします。ネットで情報が世界中を駆け巡る時代だから、台湾在住の王聡威さんが大阪の事件を知ることができたわけですし、ネットがあるからその後の展開などを調べることもできたと思うのです。
そして、そんな環境があればこそ生まれた作品は、もとになった事件そのものが、誰とでもつながれるネット社会だからこそ起こったような事件で、いかにも今の時代の作品なんだと感じます。
未読の方はこの機会に是非!
ご自身の紹介記事と書籍の紹介記事が連続で読売に!
ちょうど『風の演劇 評伝別役実』が刊行されたばかりでしたので、非常にタイムリーでした。
その別役さん、闘病中とは聞いていましたが、読売新聞に掲載された写真でもずいぶんと痩せてしまっているような気がします。早くよくなってほしいものです。祈るくらいしかできませんが。
その別役さんの評伝、『風の演劇』は同じ読売新聞の日曜日、読書欄で紹介されました。
こちらのカバーはでは若かりし頃(?)の別役さんが格好よくタバコを咥えている写真です。
タバコはやはり体に毒ですよね。
今日の配本(18/09/25)
上に政策あれば下に対策あり、下に対策あれば……
このところウイグルの状況はあまりニュースで取り上げられることが少なかったので気にしていませんでしたが、相変わらず中国政府による弾圧、圧力は続いているようですね。社説の中にあるように、そもそも自由に取材をさせないというのでは検証のしようもなく、だからいくら中国政府が言い張ってもそこに説得力や裏付けを見出すことができません。
今日の朝日新聞には、これ以外にも香港まで延伸された高速鉄道の駅などで中国の法律が適用されることになり、一国二制度が骨抜きにされるという懸念を伝える記事もありました。
ただ単純に中国大陸へ旅行や仕事で出かける人の大多数にとっては、もともと当局に怪しまれるところはないのですから法律の法律だろうと香港の法律だろうと関係なのでしょう。だから、所要時間が短くなる今回の開通は両手を挙げて大歓迎なのだと思います。そんな風にジワジワと庶民を取り込んでいく中国政府のやり方は汚いとも思います。
民主派が抵抗しても、そんなことは織り込み済みで次の手を打ってくるのが最近の中国当局です。
更には、ローマ法王が中国にすり寄っているのではないか、といった記事もありました。これにはバチカン内外でかなりの反発や批判が起こっているようですが、記事を読む限り法王自身は関係修復に向けて一直線のようです。
これも中国大陸にいる信者を人質に取られているようなもので、結局は中国政府のやり方が巧いと言えるのだと思います。
この数年、否、十数年、中国政府は国際社会に対し非常に傲岸不遜になってきていると感じます。これまでの国際ルールを無視し、自分たちの好きなように振る舞って、最後は巨大市場と人口圧力にものを言わせて言うことを聞かせる、という戦略に見えます。欧米先進国も中国の巨大市場から閉め出されては大変と中国政府の顔色をうかがい機嫌を損ねないような対応に終始していると感じます。アメリカもまずは自国の利益、商売のことしか眼中にないトランプが大統領ですから推して知るべしです。
かつて中国が日本の国交を回復するにあたって、時の首脳であった毛沢東と周恩来は、悪いのは戦争を起こした日本の一部政治家や軍人であって、塗炭の苦しみをなめた日本国民は中国人と同じ被害者なのだというロジックで国民を納得させました。そのお陰なのか、「日本人は好きだけど日本政府は嫌い」という中国人は多いようです。
現在は日本でも、中国人は好きだけど中国政府は嫌い、という日本人が増えているのではないでしょうか? これだけ旅行者が増えている昨今、庶民レベルではお互いの国を訪問して親切にされたり楽しく嬉しい体験をした人も多いでしょう。が、こういったニュースになると途端に嫌悪を催させるようなことばかり……
確かにモヤモヤしています
実はあたしもちょっとモヤモヤしたものを感じていました。
ここまで活躍する以前の大阪大坂選手に対しては、もちろんスポーツ紙などの紙面で表立って言われることはなかったと思いますが、多くの日本人が「彼女は半分日本人じゃないから」という気持ちを持っていたのではないでしょうか? そして外国人だから身体能力が高いのか否か知りませんが、比較的単純に「ハーフだから巧いんだ」といった意見も囁かれていたのではなかったかと思います。「純粋な日本人だったらあそこまで勝ち上がれないよ」といった声も居酒屋のサラリーマンの会話では聞こえてきそうです。
「純粋な日本人」って何だ? という疑問に対して、文化的あるいは科学的に答えることはあたしには到底無理ですが、「黒人だから運動が達者」という言説に対しては既にこんな本が出されています。書店で大阪大坂選手の活躍を伝える本や雑誌でフェアをやるのであれば、こういうものも並べてもよいのではないでしょうか?
それにしても、『人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか』『黒人アスリートはなぜ強いのか?
』『黒人はなぜ足が速いのか
』というのは、ずいぶんストレートなタイトルですね。
大阪大坂選手を離れてみても、ハーフの人はたくさんいますし、大阪大坂選手のように日本語がたどたどしい日本人、ほとんど日本では暮らしたことのない日本人だって世界中にたくさんいるのだと思います。その一方、両親共に外国人ではあっても日本で生まれ日本で暮らし日本語しか話せない人も日本にはたくさんいます。
時々ドキュメンタリーでも取り上げられますが、母国の政情不安から日本へ逃れてきた両親の子どもが、見かけこそ日本人っぽくはありませんが、話す言葉も感性もまるっきり日本人と変わらない、という例だって現在では枚挙に暇がないでしょう。首都圏では、少し前に通学の途中で殺害されたベトナムの少女はごくごくフツーに日本の小学校に通っていたわけで、たぶんベトナム語はあまり話せなかったのではないでしょうか。
留学とかではなく、日本社会にベースのある人がここまで増えてくると、何をもって日本人と呼ぶのか、昔のような定義は通用しないのではないでしょうか。紙面にもある「もやもや」、あたしは決して否定的に捉えたくはありません。異なる文化が交わる時に多少の衝突は付きものだと歴史は教えてくれます。時には血みどろの争いになってしまうこともありますが、多くはいつの間にか融合し、新しい文化が生まれてくるのではないでしょうか?




