Nancy Sensual World

このたび、「染井吉野ナンシーの官能世界」は引っ越しました。新しい世界はこちらになります。今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。 自動では新しい世界に飛びませんので悪しからず……

新着ニュース

まもなく自著も刊行予定

今日も朝日新聞です。

元フィギュアスケート選手の町田樹選手が本を紹介している記事です。

この町田選手、近々あたしの勤務先から書籍を刊行いたします。それが『アーティスティックスポーツ研究序説 フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』です。

フィギュアスケート選手時代の写真ではありません。タイトルからもわかるとおり立派な研究書です。アーティスティックスポーツというと、少し前から名称が変わったシンクロナイズドスイミングが有名など思いますが、こういった、誰にでもわかりやすい数値で順位や勝ち負けが判定されるのではなく、芸術性や表現力などを競う競技はなかなか奥深いものがありますね。

› 続きを読む

最近のRockfield's Diary

店それぞれ

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

距離感が難しい

碧野圭『書店ガール 3』読了。『書店ガール』『書店ガール 2』と読んできて第三作目です。

 

今回もジュンク堂とおぼしき書店チェーンが舞台ですが、主役の二人が一緒に活躍する機会は少ないです。かたや東京で育児と仕事との両立に悩み、かたや仙台で震災との関わり方に悩む、そんなシチュエーションです。ストーリー自体は、この手の作品の宿命として、あくまでも前向きに前向きに、頑張れば結果はついてくる、一生懸命さはきっと誰かが見ていてくれる、という応援メッセージ的なもので、これまでと変わりありません。

ただ、読んでいて、今回は三年たった東日本大震災のことが大きなテーマとして取り上げられていて、被災者との距離の取り方が難しいな、という気がしました。この作品に限らず、被災者を扱ったものにはしばしばこの難しさが感じられます。簡単に言ってしまうと、さほど被害を受けていない東京の人間は震災を忘れた方がよいのか、それとももっと東北の人に何かした方がよいのか、そんなこんな。

この作品に出てくる東北の人の声が、すべての声を代表しているとは思いませんが、こちらが何を思い、何を考えても「所詮、お前たち東京の人間にはわかりっこねえ」と言われているような気がします。そう言われてしまうと、こちらもわかるわけはないし、辛い体験なんてわかりたいとも思わない、と言い返したくなります。どう接すればよいのか、それともむしろ接しない方がよいのか、とりあえずは考えてみるしかないのか、そんな風に思います。

さて、もう一つのテーマは育児と仕事です。どうしても夫婦共働きだと女性にしわ寄せが行ってしまう日本社会。この作品でも子育てと主婦業と書店人としての葛藤が描かれています。出版社の編集がみんながみんな毎日のように深夜まで働いているというのは、いくらなんでも極端だと思いますが、ここに描かれている夫(出版社の編集)は、それでもまだマシな方なんでしょうか?

途中までは両立に悩み、本来の自分を見失っていた主人公も後半はしっかりと未来を見据え、本来の自分を取り戻し、自信を持って周りの人を巻き込んでいきます。この後半の周りの人を巻き込んでいく過程、パート3まで来たこのシリーズの醍醐味でもあるわけですが、実はあたしが一番苦手としていることはこれです。ここが読んでいて一番辛いです。やはり読んでいると、登場人物に自分を置き換えて読んでしまうのですが、このところが一番面倒で、うざったく感じます。もちろん大きなフェアとか、企画を遂行するのには周囲の協力は必要ですが、ここまでの熱意ってないですし、出せません。こんな巻き込み型の人が周囲にいたら、こちらが疲れてしまいそうで、たぶん自然と距離を取るようになるだろうな、と思います。

それにしても、この業界のもっとドン底を、そろそろこのシリーズでも描いてもよいのではないかと、そんな気がします。

もう死んでいるのかも?

先日、紀伊國屋書店で飴屋法水さんのトークイベントのゲスト朝吹真理子さんの『きことわ』を読みました。イベントの前後にちょこっとだけを言葉を交わす機会がありましたが、あたしなんかよりもはるかに落ち着いた感じが漂っていたのですが、あたしよりかなり年下なんですよね。しかし、本作を読むとその独特の言葉遣い、単語の選び方、やはりあたしよりずっと年上に感じられます。

さて『きことわ』ですが、特に何かがあるという作品ではありません。四半世紀も前、母親が管理人をしている物件(別荘)によく来ていたきこ(貴子)と遊んだ想い出を持つとわ(永遠子)。その別荘をきこの家が手放すことになり、解体も近いというので残っている家具などの整理に訪れ四半世紀ぶりに再会を果たします。そして荷造りをして別れる。ただそれだけの話です。

そのあいまに、きこもとわもそれぞれが記憶している想い出の情景がよみがえり、それが挟み込まれて描かれます。よい喩えになっているか不安ですが、誰かと面と向かって話しているのに、その話ながら頭の中では別のことを考えている、そんな感じです。そして、この作品ではその目の前にいる相手の会話を丹念に描きつつ、頭の中の情景も丹念に描いているのです。更には、そんな自分の周囲の様子、目に映るもの、そしてそこから連想されて心に浮かぶもの、そういったものが一つも漏らさず文字にされている、そんな作品です。

と、書いてしまうと簡単なようですが、実際に自分がそれを書いて見ろといわれれば、すぐにでもその難しさがわかるというもの。そして、朝吹さんの筆致のせいなのでしょう、この作品は推さなかった自分が未来を覗き見て(空想して)描いているのか、あるいは齢を重ねた現在の自分が子供のころを懐かしんで書いているのか、どちらが小説の中の「いま」の時間なのかあやふやです。

そして、読み終わった時に感じたのは、もしかして、二十五年後の別荘で再会したというのは嘘ではないのか。きこは既に亡くなっていて、とわが勝手にきこがそこにいるかのように夢想しているだけではないのか。あるいは逆に、とわが既に亡くなっていて、久しぶりに訪れた別荘できこが永遠との想い出に浸っているだけの話なのではないか。そんな気がしてきました。

たぶん、そう解釈してもよいのではないかと、そんな風に思います。