既刊、お持ちですか?
今年も押し迫ったころに配本になる、サンドラ・シスネロスの新刊『サンアントニオの青い月』と、昨年刊行した『マンゴー通り、ときどきさよなら
』です。
読み始めたのですが、たくましく生きている女性が描かれていますね。決して強い女性というわけではありません。時には泣き叫ぶし、心も折れたりしていますが、それでも生きています。しっかり前を向いて、というのともちょっと違うのですが、顔は明後日の方角を向いていても、足は一歩一歩前へ前へと進んでいる、そんな女性たちです。
そんな新刊が配本になるわけですが、既刊『マンゴー通り』の方は、書店の皆さま、在庫はお持ちでしょうか? 当時は並べていたけれど気づいたら棚から無くなっていた、というお店も多いのではないでしょか?
確かに、新刊を買う人は既に既刊も持っている可能性が高いので、並べたとしてもあまり売れないのでは、という意見はごもっともです。でも、必ずしもそうとばかりは言えないのではないでしょうか。つまり、今回の新刊をたまたま目にした人が既刊が出ていたことを初めて知ったという可能性です。
それに、著者や訳者のことはまるで知らないけれど装丁に引かれて手に取ってみたという人だって書店のお客様の中にはたくさんいるはずです。新刊の方は黙っていても配本されてくるだろうと思っている書店の皆さま、いまいちど既刊の方の在庫チェックをお願いします。
今日からの残りの日々をいかに過ごそうか
昨晩は勤務先の忘年会でした。
この時季はどこもかしこも忘年会シーズンだと思うのですが、あたしは昔から違和感を感じていました。
忘年会というのは「その年にあった嫌なことをすべて飲んで(食べて)忘れて、新たな気持ちで新年を迎えよう」といった主旨の会だと思うのですが、その忘年会の後、大晦日までの日に忘れたいような出来事が起こったらどうするのだ、ということです。
いや、はっきり言いましょう。以前のあたしは、こういった飲み会が苦痛で、つまりは忘年会そのものが最も忘れたい出来事だったのです。忘れるために忘れたい行事に出かけて行くなんて、なんという矛盾、皮肉でしょう。
で、思うのは、忘年会は年が明けてから、つまり旧年がすべて終わってからやるべきではないかと。となると、新年を迎えるに当たっての宴席である新年会も、新年を迎えてしまってからやるのでは遅すぎるわけで、旧年のうちにやるべきではないかと、そんな風に思うのであります。
いや、そんな小賢しいことなど考えず、気心の知れた仲間と美味しいものを食べられればそれでよいのではないか、という考え方もあるでしょう。確かにそうです。それを否定するつもりはありません。
ただ、あたしの場合、気心の知れた仲間などおりませんし、親友はおろか友達すらいない現状ですので、あえて誰かと飲もう、食べようなどとは思わないのであります。
年末年始に在庫切れになりそう?
このタイミングで!
朝日新聞に大きくゴルバチョフのインタビュー記事が載っていました。ゴルバチョフと聞いても、若い方はピンと来ないかもしれませんね。あたしくらいの世代ですと、停滞するソ連をなんとか蘇らせようとした改革者というイメージがあります。
となると、記事と併せて読んでいただきたいのがこちら、『ゴルバチョフ その人生と時代(上)』『ゴルバチョフ その人生と時代(下)
』です。
どんな本かと言いますと、
「冷戦終結30年」にして解明される、ゴルバチョフという「謎」。ソ連改革から解体へと導いて「世界を変えた男」を、人間味豊かに描く。ピュリツァー賞と全米批評家協会賞受賞の歴史家による、評伝の決定版
と公式サイトの紹介文にあります。今年は昭和が終わって30年、中国の天安門事件から30年、そしてベルリンの壁崩壊から30年という節目の年。30年前の世界史的な動きのキーバー村の一人がこのゴルバチョフなわけです。
この機会に、年末年始に読書に如何でしょうか?
先日の書評に……
書評が出ると本が売れる、それは一昔前の話、と言う人もいますが、今でも売り上げを押し上げる効果はあります。
確かに10年前、20年前に比べ、書評に出た以降の売り上げの伸びが鈍っているのは事実でしょうが、それは業界全体が縮んでいるので、それと比較したときに、書評効果がそれほど落ちているのか、一概には言えません。
ただし、基本的に書評というのは毎週更新され、新しい本が紹介されるものです。となると、書店としては、書評が出たから注文しても、その本が入荷するころには次の書評が出ているので、どれくらい売れるのか首をかしげてしまうのも理解できます。
とはいえ、毎週毎週新しい書評が出るからといって、翌週になれば前の週の本の注文が途切れるのかといえば、そんなことはありません。毎日のように電話で書店からの注文を受けていると、意外と息の長い書評効果というのを実感することがしばしばです。
読者を馬鹿にするわけではありませんが、書店店頭でよく聞くのは「この前の新聞に出ていたんだけど」と言われてこの一週間の新聞を当たってみたけど見当たらず、更に探したら二、三週間前のものだった、というエピソードです。「この前」といってもこの一週間とは限らず、一か月くらいのスパンを考えておいた方がよいのです。
となると、書評が出てから注文して、一週間近くかかって入荷したとしても、読者から見てそれほど時機を逸してしまっていることにはならないわけです。もちろん、初回のされ方やその本のジャンルにもよるので、すべてがそうだとは言えませんが……
落ち葉の部屋
少し前に、このダイアリーでわが家の近所の黄葉をご紹介しました。
久しぶりに、その同じ場所を撮ってみました。いかがでしょう? すっかり葉が落ちてしまい、丸裸の木が寒そうに立っています。
落葉したわけですから根元には葉が絨毯のように敷き詰められています。イチョウの葉は滑りやすいので歩くときには気をつけなければなりませんね。
シルバー人材センターの方なのか、近所の落ち葉を掃き集めている人を見かけます。寒い中、大変な作業だと思います。集めた落ち葉はどうするのでしょう? どこかで集めて堆肥にでもするのでしょうか? でも、雑菌などが混じっていると、畑にまくというのも難しいのではないでしょうか? それともキレイに洗浄して堆肥にする工場でもあるのでしょうか?
あたし自身は、落ち葉って好きです。特に掃き集めたりしなくても道に落ち葉が落ちているのが好きですし、その落ち葉を踏みしめながら歩くのも好きです。落ち葉の道を歩いているときに、決まって頭の中に流れるのがこのダイアリーのタイトルに使った、沢田聖子の「落ち葉の部屋」です。特に雑木林など歩くと、完全にこの曲の世界に入り込んでしまいがちです。
上にリンクを貼ったYouTubeの音源は、当時のあたしが聴いていたセカンド・アルバム「青春の光と影」(1981年発売)に収録されているものではなく、2013年発売31枚目のアルバム「Singer Song Writer ~GREEN~」に収録されているものだと思われます。もともと曲が大好きなのでこのアレンジも嫌いではないのですが、できればオリジナルで聞いていただきたい一曲です。
でも、当時のアルバムは中古屋にでも行かないと手に入らないと思いますので、ベストアルバム「HISTORY」に収録されていますので、そちらで是非聴いていただければ……
ささやかな暮れのご挨拶?
手土産はカレンダーというのが定番でしょうか? いえ、確かにカレンダーは相変わらず配られていますし、こちらもいただいたカレンダーを重宝しています。それでも世間一般ではどうせなら気に入った柄のカレンダーを部屋に飾りたいと、市販のカレンダーを買っている人も多いようです。
カレンダーも千差万別。文字の大きさにこだわるのか、写真やイラストで選ぶのか、一か月一枚がいいのか、二か月や三か月で一枚になっているものがよいのか? こればかりは好みですね。
そんな暮れの挨拶の手土産ですが、あたしの勤務先では昨年からこのようなものを作って、お世話になっている書店の方に配っています。とはいえ、回りきれない書店も多いので、すべての書店の方に行き渡っているとはとても言えませんが……(汗)
何かと言えば、ポストイットです。こういったものが書店現場では一番喜んでもらえます。それほど高いものでもないので、もらった方が遠慮なく使えますし、お互いにとってWin-Winなのではないでしょうか?
大きさ違い、色違いのポストイット、左側の一番大きなサイズにはロゴや社名も入っています。一応は宣伝物という扱いです(笑)。
昨年は昨年出喜んでいただきましたが、「ちょっと小さいかな」という意見もありました。もちろん昨年のサイズはポストイットの王道、最もポピュラーなサイズだと思うので、これで困るという人は多いわけではないのですが、「ちょっとメモを書いて貼るのには小さい」というのは配布しているこちらでも感じていたことです。
というわけで2019年版がこちらです。
なんとなく、昔懐かしい国際郵便封筒をイメージさせますが、フランス国旗のトリコロールですよね。フランスがあたしの勤務先の代名詞でもあるので、そのあたりは意識しているのではないかと思います。
箱から取り出すと、入っているのはこういうポストイットです。今年はワンサイズでロゴや社名も入っていません。色も一色ですから、昨年の方が凝っていたでしょうか?
でも、メモなどを書き込むにはこのくらいのサイズがないとダメですよね。これなら、ちょっとしたメッセージを書いて同僚のデスクやPCの片隅に貼っておくのに適しています。そういう使い方であれば、色も黄色の方がデスク周りでも目立つでしょう。
で、最近になりまして、書店回りの時にこれらを持ち歩いて、行った先の書店の方に差し上げています。やはり喜んでいただけます。「こういうのがいいんですよね」という感想がほとんどです。喜んでもらえると、こちらとしても嬉しいです
ところで、昨年のポストイットだと小さすぎてメモとか書けないと言われて今年は少し違うのに変えたのですが、両者のサイズの違いが気になりませんか?
最後の写真は、二つを並べてみたものです。今年のポストイットはこの外箱とほぼ同じサイズです。昨年のは二枚目の写真でおわかりのように二つ折りです。やはり、昨年のものと比べると、今年は格段に各スペースが広くなったということがご理解いただけるのではないでしょうか?
物語のない物語
『中央駅』読了。
同著者の(邦訳としての)前作『娘について』は、個人的に面白く、そして非常に考えさせられる作品だったので、本作品も期待して読み始めました。
しかし、読み始めてしばらくするとちょっと面食らいました。
簡単に言ってしまうと、この作品はとある鉄道駅前の広場に巣喰うホームレスの物語です。主人公の「俺」が唐突に現われます。なぜ「俺」がホームレスになったのか、周辺のホームレスの中では比較的若いということが明かされるだけで、それ以外の描写はありません。オタクっぽいのか、病的なのか、あるいは逞しい体つきなのか一切不明です。もちろん容姿も。
そんな「俺」がたまたま知り合った病気持ちの「女」と行きずりの関係を持ち、そこからズルズルと関係を続けていき、底なし沼にハマったかのようにホームレスから抜け出せなくなっていくのです。いや、「俺」にしろ「女」にしろ、本当にその状況から抜け出そうとしているのか、やっていることを見ているととてもそうは思えません。
「乞食は三日やったらやめられない」と言われますが、そんな感じです。周囲から差し伸べられる手もつかもうとせずに振りほどいてしまいます。そしてその手がつかもうとするのは「女」の体です。
最後にどんな結末が待っているのか、たいていの小説はそんなストーリーを意識しながら読むものですが、この作品にはそんな物語があるようには感じられません。別に「俺」と「女」ではなくとも、駅周辺、広場にいるホームレスたちの適当な一瞬を切り取ってつなぎ合わせれば、この作品が成立してしまうような気がします、匿名性というのともちょっと違う気がしますが……
では、壮絶な愛の物語なのか。確かにそういう読み方もできるのでしょう。本書収録の解説にもそう書いてあります。しかし、あたしにはこの作品に愛の物語を感じることはできませんでした。獣の媾いとしか思えません。「俺」の独白でもそんなことを述べていたような気がしますが、これが愛なのか、。あたしには疑問です。それはあたしが、人を愛したり愛されたりしたことがないからなのかも知れませんが。
最後に、疑問というか読み終わって考えたのは、作者はなんでこの作品のタイトルを「中央駅」にしたのだろうか、ということです。作品舞台は駅と言うよりも、その前に広がる「広場」です。作品はほとんどそことその周辺で終始しています。ありきたりかもしれませんが、「広場」というタイトルの方がふさわしいと感じたのですが、そこをあえて「中央駅」にしたのはなぜか、とても気になりました。
この時季の決まり事?
毎年この時季に、わが家の菩提寺へ参ります。
ご先祖様へ暮れの挨拶とお寺へ毎年の管理料を払いに出向くというわけです。今日はとてもよい天気で昼間は暑いくらいの晴天でした。絶好の墓参り日和という表現があるのかどうか知りませんが、とにかく無事墓参りを済ませました。
その帰路、思い出すのは数年前、やはり母と墓参りへ言った帰りの井の頭線です。あたしと母が乗っていた井の頭線の急行電車が高井戸駅を通過するときに人身事故を起こしたのです。
「起こした」と書くと運転手か電車が悪者みたいに聞こえますが、状況を説明するなら通過する井の頭線にホームから人が飛び込んだのです。あたしと母は吉祥寺へ向かう電車の先頭車両に乗っていましたが、ものすごい警笛を鳴らしながら急ブレーキをかける電車と、その直後のドンという軽い衝撃。そして急停止と泣き崩れる乗客。たぶん一番前で進行方向を眺めていて人が飛び込んでくるのを目撃してしまったのでしょうね。そりゃあショッキングなことでしょう。
この時季は、上述のような年中行事があるのでほぼ毎年井の頭線に乗りますが、高井戸駅を通過するたびにあの時の人身事故を思い出します。

