海外文学と中国

藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』を読んでいて、アメリカ的なものを背負わない作家が増えているということはわかります。アメリカ生まれアメリカ育ちの、まさしくアメリカ人作家もそうですし、外国からアメリカに渡ってきて英語で執筆するようになった作家ももちろん増えているようです。

誰もが普通に英語を使い、英語で執筆する、それがグローバル化なのだと言われてしまえばそうなのかもしれませんし、今後のアメリカ文学の流れ、ひいては世界の文学の潮流、藤井さんも楽しみながら眺めているのではないかと思います。

さて、こういう文章を読んでいてあたしが思うのは中国のことです。フランスなどは英語を使うのを減らそうと躍起になっているようですが、やはりヨーロッパの共通語は英語だと思いますし、アメリカのスタイルがスタンダードになっていると思います。アメリカと争った共産圏もアメリカ文化の軍門に降ったと言えると思います。

テロの掃討がうまく行かない中東だって、結局は英語を使い、アメリカ文化の影響は著しいものを感じます。だからこそのアイデンティティの確認、そして極端なテロ行為なんだと思います。

ですが、中国です。

これまで世界の国々はアメリカに対峙して、結局はアメリカに飲み込まれていった、アメリカの影響下に置かれるようになってしまったわけですが、中国だけはそれに抗して、独自の立場を貫こうとしているように感じます。

いや、中国だって、政府高官の子どもはみんなアメリカに留学しているし、エリートはおしなべて英語が話せるし、身の回りのものはアメリカを中心とした欧米の製品ばかりです。

それでも、中国は、これまでアメリカが対峙してきた諸国とはやはり違うと感じます。アメリカへの挑戦の仕方が異なるというのでしょうか、とにかく、あたしにはそう感じられます。それが、アメリカにはない歴史の重みなのか、歴史を背景とした自国文化に対する揺るぎない自信なのか、それはわかりません。

そんな中国の文学が、世界文学に加わったら、文学にどんな影響を与えるのでしょうか? 既に莫言のノーベル文学賞受賞のように世界に認められている中国文学ですが、世界の作家にどれだけの影響を与えているのか、となるとまだまだなのかもしれません。

中国文学は英語に屈せず独自の道を歩むのか、それとも英語に取り込まれてしまうのか、とても気になります。そんなことを考えながら読み終わりました。

母語で……

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

国際文芸フェス絡みの記事です。フェスは既に終わっていますし、この業界外の人、海外文学に興味のない人には「へえ、そんなイベントがあったんだ……」という程度のものでしょうが、やはり海外文学好きには一大イベントです。数日間とはいえ短期のイベントなので、どうしても一過性になってしまいますが、書店でフェアをやったり、こうして少したってからでも新聞などに記事が載れば、それなりに盛り上がりの一助になります。

さて、記事で取り上げられているのはイーユン・リーさん。中国出身ながら英語で執筆している作家です。その、母語ではない言語で執筆していることについて語っていますので非常に興味深いです。

  

この母語では書けないというリーさんの問題意識と、ある部分では重なりつつも、また異なった視点を与えてくれるのは温又柔さんではないでしょうか?

  

そしてそこまで話しが及ぶなら、温さんの『台湾生まれ 日本語育ち』について沼野充義さんが書評で触れていたように、『文盲』のアゴタ・クリストフや『べつの言葉で』のジュンパ・ラヒリなどに触れざるを得ないのではないでしょうか?

そして、何語で書くのかということに拘るのであれば、藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』の一読をお勧めします。

自転車、Bicycle、チャリ

藤井光さんの『ターミナルから荒れ地へ』の98ページに自転車を称揚するところがあります。

自動車社会のアメリカであえて自転車を持ち上げるという意味は同書に譲るとして、日本でも確かに3.11以降、省エネという面からも自転車が見直され、書店でもクルマやバイクよりも自転車の雑誌がの方が多いという話も聞きます。

そういった自転車の意味付けも理解できますが、最近の日本では、自転車による交通事故が多発し、自転車用の保険も契約が伸びているとも聞きます。

こうなると、「自転車って何だ?」という感じもしてきますね。

一期一会の我流解釈

今日は多くの学校で入学式だそうですね。

春は別れと出会いの季節、いや、出会いと別れの季節でしたっけ、とにかくそんな風に言われ、しばしば聞かれるのが「一期一会」という成語です。自分の好きな言葉や座右の銘でこの言葉を挙げる人も多いです。

この一期一会、辞書的な意味を述べれば

この機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるから、大切に、誠意をもって相手に向かい合わなければならない

といったところでしょうか?

でも、あたしってひねくれものなのか、そうは思えないんですよね。

この人との出会いはこれっきりだから、別にどうでもいいや、と思ってしまうのです。たぶん二度と会うことがない人だと予想がつくと、相手のことを覚えていようなどという気はさらさら起きず、恐らく一時間後にはすっかり忘れている可能性が大です。

そういうときに、あたしはこの「一期一会」という言葉を思い出します。「それっきりだから、適当に流してしまおう」という感じです。