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熱中症なのか、単に夏風邪なのか、それともたるんでいるだけなのか、理由はわかりませんが、昼頃から午後はずっと頭が割れるように痛いです。マクサルトの手を借りるのは我慢して、とりあえず市販の頭痛薬を飲んでみましたので、少し治まってきましたが……
いや、もしかしたら、こんな映画を見ていたからなのでしょうか?
「REC/レック」、そして続けざまの「REC/レック 2
」です。「3
」もあるようですが、ストーリーが続いていないらしいので、とりあえずはこの二作を鑑賞しました。
「1」と「2」は完全に前編、後編という感じのストーリーです。消防士の夜勤の様子をリポートするテレビの取材班が緊急出動の要請を受けた出動した消防士たちと共にあるアパートに向かいます。そのアパートでは住人の一人が奇声を発したというのです。ただならぬ声に消防だけでなく警察も出動し、他の住人はアパートの一階に集まっていました。
で、この後は奇声を発した住人がゾンビ化して襲ってくる、噛まれるとその人もゾンビになってしまう。アパートは防疫班か衛生局によって外から封鎖され、中の人は外へ出ることができなくなっています。とにかく、反発しながらも協力してなんとか活路を見いだそうと奮闘するアパート内の人を描いたのパート1です。
このパート1で不思議なのは、この手の事件なのに、早々とアパートが外から封鎖されてしまうという手際のよさです。伝染病のせいで感染した住人が奇声を発したかもしれないという可能性は考えられますが、警察や消防の到着とほとんど差がなく封鎖・隔離されてしまうなんて、もうここでそういうことが起こることがわかっていたみたいな段取りのよさです。
とまあ、こういう疑問を残したままパート2ですが、このゾンビ化の正体がわかります。パート1ではたまたま取材のため同行していたテレビカメラの目で見た事件でしたが、パート2は外から入ってきたSWAT隊の記録カメラから見た映像になります。
さて、保険局の役人らしい人をリーダーにSWAT隊がアパートに入ってきますが、保険局の役人の行動がどうもおかしいのです。中の人を助け出すというのではなく、何か別の使命を帯びているかのようなのです。ゾンビとの闘いの中、とうとうSWAT隊と衝突し、白状したところ、この人は保険局でもなんでもなく、バチカンから派遣された神父だったのです。
パート1の後半でバチカンが関わっているらしい悪魔払い事件の記事などが前ふりとして登場しますが、つまりはいわゆるゾンビではなく、悪魔に取り憑かれた人たちが発症して襲ってきているということです。そしてバチカンは密かにこのアパートの最上階で最初に発症した少女を隔離、監禁して、解毒のためのワクチンを作る実験をしていたわけです。神父はそのサンプルを持ち帰るために遣わされたわけです。
このアパートは、この秘密の実験を知っている人には以前から要監視のアパートだったというわけですね。そして、遂に悪魔が動き出した、発症して人を襲うようになったため迅速に隔離を行なうことができたというわけです。さらに、いかにも頭の悪い高校生みたいな三人組は興味半分で下水口からアパートに入り込んで自体をややこしくしてしまいます。
パート1はゾンビ映画、パート2はエクソシスト、そこにPOVの手法を加味して作ったのがこの映画です。二作とも、目の前の自体を少しでも解決しようとするよりも上層部の命令に従う役人に硬直した思考にはイライラさせられます。あの状況でも「命令がないとダメだ」的なセリフを言えるというのは、ある意味すごい精神力かもしれません。
それと、ああいう場面になるとそうなってしまうのかもしれませんが、どうしてみんなわめき散らすのでしょう。もっと落ち着いて話ができないものかと思います。そして、POV映画でこれを指摘してはいけないのかも知れませんが、どんな状況になっても決してカメラで撮り続ける根性には驚きです。ふつう、あんな状況になったらカメラは落とすと思いますし、録画なんてしてる余裕はないと思うのですがね。そういう意味では、パート2ではSWATのヘルメットに付いている記録用カメラの映像を使うとか、暗視カメラにすると見えないものが見えるようになるという「ワザ」を使うことによって、カメラで撮り続けることの矛盾を和らげようとする工夫が見られます。
既に公開されたパート3はこの続きではないようですし、パート4も間もなく公開されるみたいですが、パート3の続きになるのか、パート2の続きになるのか、まるっきり別の話になるのか、わかりません。ただ、パート2の最後で悪魔はアパートの外へ出られる(出られた?)みたいなので、あとはウィルス的な「悪魔菌」が街中にまき散らされるという展開は予想がつきます。そして、この映画がそこそこヒットするのであれば、何作でも続編が作られるのでしょう。
一番怖いのはヒト?
なんとなく暑さにも慣れてきたのか、夜などはいくぶん寝苦しさから解放されつつあるように感じますが如何でしょう? さて、本日はこんな映画を鑑賞しておりました。
まずは「シャーク・ナイト」です。大学生の男女数名がバカンスに田舎へやってくるというのは、この手の映画のおきまりのパターンです。今回の場合、舞台は海ではなく湖です。「湖なのにサメ?」というところはなかなかの設定だと思うのですが、あまりそれを活かせているとは感じません。淡水でもサメは生息できるのか、それとも浜名湖や宍道湖のように海に近いところにあり、潮の満ち引きで塩水が流れ込むような場所にある湖なのか、そのあたりは映画の中でははっきりしませんが、とにかく海に住むサメが出てきます。
ストーリーとしては、若者たちが一人、また一人とサメに襲われ犠牲になっていく、最後は男女一人ずつが助かるという、やはりこの手の映画のおきまりのパターンですが、なぜサメがいたのか、その理由がこの映画の本当の怖さではないでしょうか? 訪れた湖は学生たちの中の一人の女の子の別荘です。広大な湖の中にある島にぽつりと建っている立派な別荘です。見る限り、その島にはその別荘以外建っていないようです。そして、これもこういう映画のお約束で、都会を離れた孤島の別荘なので携帯電話は繋がらない、という設定です。しかし、別荘に電気やガス(←これはプロパンかも?)が来ているようなので、当然固定電話が引かれていてもよさそうなものですが、それはないのですね。
で、ストーリーは端折って、なんでサメがいるのかですが、地元でかつてダイビングを教えていた主人公の昔の恋人とその悪友、それにこれは途中で正体がばれるようになっていますが、その地区の保安官の三人が、密かに湖にサメを放し、人が襲われるのをビデオ撮影し、動画サイトにアップしてお金儲けをしているというからくりだったのです。ですから、「ジョーズ」のようにホオジロザメ一匹ではなく、いろいろなサメが出てきますし、決してありえないほど巨大なサメが出てくるわけでもありません。
結局、サメに尾触れたのを助けてくれたようなふりをした彼ら三人に騙され、若者たちは次々に鮫の餌にされていくという内容で、最後は見事に形勢逆転、主人公とそのボーイフレンド候補のような男子が生き残り、彼ら悪徳三人組を逆にサメの餌食にして助かるというお話です。結局、一連の「ジョーズ」のように自然界のサメが襲って来るというのではなく、人間によって持ち込まれたサメが人を襲うわけで、なおかつそれを撮影して愉しんでいる輩がいるという、非常にブラックなストーリーでした。
続きましては、こちらです。
「アラクノフォビア」です。クモが襲ってくるお話です。田舎町に越してきて開業した医師一家の回りで突然死が頻発し、田舎の人は「ドクター・デス」と言って主人公を冷たい目で見ます。ただ、それも束の間、突然死の正体が毒グモのせいだとわかり、こんどは一転、クモとの攻防の話になります。
このクモ、ベネズエラのジャングルで見つかった新種で、ベネズエラで噛まれて死んだカメラマンの棺に紛れ込んでこの街まで運ばれてきたのです。そして、この街のクモと交配し子供が産まれ増えていったというわけです。一般のクモは働くだけで毒は持っていても子孫を残すことはなく、すぐに死ぬわけで、肝心なのは女王蜂ならぬ、女王クモを探し出して、その巣もろとも処分するということです。主人公の開業医がクモ恐怖症であるという設定が必要だったのかどうか、後半の活躍を見ると必要性を感じませんが、この医者とクモ研究者の博士、その助手、そして害虫駆除業者で、なんとか街のクモを退治しようと乗り出します。が、博士は早々にクモの餌食になってしまいます。それにしても、チクッという一咬みですぐに人を死に至らしめるとは、ものすごい毒性です。
博士の助手が意外といい仕事をし害虫駆除業者が頼りなさそうでいて、結経強力な武器を携えてクモをやっつけるところは、爽快ではありますが、ストーリーの緊張をややそぐ嫌いがあります。そして、うまいこと主人公は咬まれず、女王グモを退治できたわけですが、クモってあれほどの知能を持っているのでしょうか? 完全に人の動きを察知して行動しています。新種だから設定はどうにでもなるのでしょうか? いや、でも所詮は昆虫なわけだし……
靖国神社って……
総理大臣や主要閣僚が参拝するのかしないのかで毎年騒ぎになる靖国神社。あたし自身は参拝したことはありませんし、しようとも思いません。なぜなら、幸いにしてあたしの親戚には先の戦争で亡くなった者はおらず、あたしの知る限り、靖国神社に祀られている先祖などもいないからです。
ですから、個人として、自分のおじいちゃんとか夫とか、兄弟が祀られているという人なら、たぶんはっきりとした命日もわかっていないことが多いでしょうし、故郷のお墓には遺骨すら入っていない人もいるのでしょうから、終戦記念日の8月15日に靖国神社にお参りに来るという気持ちはわかります。それこそ安倍晋三や石原慎太郎が言うように、亡くなった人を弔うのは自然な感情だ、と言うこともその意味では正しいと思います。
でも、そういう気持ちでお参りに来る人が果たして「お国のために命を捧げた人の霊を慰める」ためにお参りしているのかどうか、あたしには疑問です。上に書いたような、ごくごく一般の人はあくまで自分の身近な人に逢いに来るのであって、そこには「お国のため」といった感情はほとんど入り込んでこないような気がするのです。
ところで、今回の終戦の日の式典。戦後68年ですから68回目です。果たして、いつまでやり続けるのでしょうか?
先の戦争の惨禍を忘れないためだ、というのであれば、別に毎年8月15日に靖国神社なり千鳥ヶ淵なりに行く必要性を感じません。もっと他の方法があると思います。ただ、それよりも68年もやり続けたのだから、もういいんじゃないの、という気がします。だって、親が死んだとしても、法事ってせいぜい三十三回忌で終わりでしょ。そのくらいで法要としての祭祀は終わりにしてもよいのではないかと思います。
いや、そんなことではいけない。あの戦争の悲惨さは未来永劫伝えていかなければ、という意見もあるでしょう。伝えていかなければならないということについては賛成ですが、あたしが言いたいのは、それが靖国神社へ行くことなのか、武道館などで式典を行なうことなのか、ということです。そういう意見、テレビや新聞でもほとんど聞かれないのですが、少し議論されてもよいのではないでしょうか?
あと、自民党の政治家などに見られる意見で、いつまで中国や韓国に対して謝り続ければいいんだ、というものがあります。加害者側がよくもそんなセリフを言えるなあと思いますし、あなた方のそんな言動が相手側の反発を招いているってわからないのかあ、と思います。
それはそうと、朝日新聞などでも戦争を語り継ごうといった特集をやっています。いまだに戦争の悲惨さを伝えようとしているわけで、侵略側の日本ですらそういう活動をしているというのに、侵略された側である中国や韓国を初めとしたアジアの人が、そう簡単にやられたことを忘れたり、歴史の向こうに追いやったりするものでしょうか? そのあたりの想像力が自民党の政治か連中には決定的に欠けている気がします。
もちろん中国や韓国が自分たちに都合のよい歴史を主張しているのはわかりますが、それは歴史学者の仕事であり、政治家が口を挟むことではないと個人的には思います。
暑くても海はイヤ!
もう何年も海へ行っていません。いや、何年どころか、何十年と言った方がよいかもしれません。それくらい海には行ってないです。
海そのものに行ってないということではなく、海のそばまでとか、波打ち際までは行ったことがありますが、それも何年前のことかすぐには答えられないくらい昔の話です。いわゆる海水浴として水着を着て海に入ったのは、中学のころが最後ではないかと思います。
日焼けもイヤではありますが、海ってベタベタするから嫌いなんです。塩水のせいですよね。そう言えば、少し前の新聞に、最近は若者を中心に海水浴離れが深刻なんだとか。理由はあたしが書いたとおりです。プールであれば行くみたいですから、泳ぎに行くことが嫌いなわけではなく、塩水のベタベタが嫌われているのでしょう。
それに加えて昨今は危険な生物のニュースもよく聞きます。昔だったら日本近海にはいないとか、人が泳ぐ浅瀬にはやってこなかったと言われるような生物による事故、ケガの報告が相次いでいます。あんなのをニュースで見せられたら、小さい子供を持つ親は気軽に海水浴になんか行けなくなりますよね。
あと、あたしが海水浴が嫌いな理由は、現実に信じているわけではありませんが、心の片隅でたぶんジョーズの影響を受けているからだと思います。やはり衝撃的な映画でした。
若きスピルバーグが低予算で撮り上げた、といった講釈は抜きにして、子供心にはやはり海の恐怖、サメの恐怖を大いに感じさせた作品です。もちろん映画館で見たわけではなく、公開後かなりたってからテレビで放映されたのを見たわけで、当時のテレビ放映ですから、たぶん何分間かはカットされていたシーンもあったと思いますが、とにかく海は怖いと思い込まされました。
とはいえ、この手の映画は好きなので、その後の「ジョーズ」シリーズも機会があれば見てました。そして、少し前にスカパー!でやっていたのがこちらです。
本日鑑賞したのは「3」ですが、これも以前に見た記憶があります。1と2と4は一連の作品という感じでしたが、kono3はまるっきり別個の作品ですね。それに、水中公園が舞台なのですが、本当に水中にセットを作っているわけではないのであくまでCGです。そのCGがあまりにもちゃちです。おまけに襲ってくるサメもちゃちです。怖くもなんともありません。なんでこんな作品を作ってしまったのでしょうか?
でもって、この「ジョーズ」シリーズは基本的には海のレジャーランドを作って設けようとしているデベロッパー、それと組んでうまい汁を吸おうとしている政治家に対し、人々をサメから守ろうと奮闘する主人公という構図がおきまりのパターンです。本作も同じです。確かに、現実問題として日本でもいきなり体調10メートルクラスのサメが現われたと言われても信じる人は少ないでしょうが、もう少し「カネ、カネ、カネ」じゃない態度ってとれないものでしょうか?
なお、本作の海洋レジャーランドではシャチを飼っていました。芸をするほど飼い慣らされてしまっているので野生の本能がどれだけ残っているのかわかりませんが、シャチを放せばサメを退治してくれたのではないかな、イルカですらあんなに頑張っていたのだから、と見ながら思ったのはあたしだけでしょうか?
見たことある?
暑い夏には怪談、とは昔から言われますが、だからということで、録っておいたホラー作品を鑑賞。まずはこちら。
「サイレントヒル」です。ゲームが原作の映画であるということは知っていましたが、ゲームはやったことも見たことも、どんなゲームであるかということすら知りません。まあ、結論から言えば、それでも映画の鑑賞には支障はありませんでしたが。
夢遊病の娘が時々口にする「サイレントヒル」という街が実際に存在するということを知った母親が、娘の病気を治療する手がかりになるかもしれないと、その街を訪れるわけですが、そもそもそこへ行ったからといってどんな解決になるのか、素人でも疑問を持ちそうな流れですが……
とりあえず、その街へ到着するのですが、そこはゴーストタウン。かつて街を襲った大火災により多くの人が亡くなり廃墟となったそうで、街の地下では今も石炭がくすぶっているのだとか。つまりは炭鉱町だったということですかね。そして、一時は栄えたものの、その後は寂れてしまった、日本にもありそうな設定です。
さて、あらすじをざっと書いてしまうと、この町には今も住んでいる人がいて、カリスマ的な初老の女性に率いられています。そして主人公の娘というのは実は幼女で、かつてこの町で魔女とされ、火あぶりにあった女性が産み落とした子供(の子供だったかな?)なわけです。これで、一応、娘がサイレントヒルという名前を口にした理由がわかりました。
ところが、街の人たちはその娘をも魔女だと見なし殺そうとします。まあ、魔女の娘なんですから魔女と見なすのは当たり前ですよね。が、母親が体を張って娘を助けようとするというストーリーです。主人公は、火あぶりにされた魔女の力を借りて、街を支配する人々を血祭りに上げ、最終的には娘を助けることに成功したわけです。ただ、娘を助けるためとはいえ、魔女(本当に魔女であったのか、それとも濡れ衣であったのかは作品中では明かされません)とタッグを組むなんて、この母親、悪魔に魂を売り渡してしまったのでしょうか? それに、あそこまで残酷に街の人を殺さなくても(殺したのはあくまで魔女、つまりは魔女の復讐に主人公が手を貸したわけ)よかったのではないか、とも思います。
そして、娘を連れて主人公はマイホームへと戻るのですが、ここでパラレル・ワールドが展開し、主人公と娘は夫の待つ世界へとは帰れない状態で映画は終わります。自分たちが別の世界へ来てしまっていることに主人公は気づいたのかどうか、それすらも定かではありません。魔女に魂を売った時点で、あちら側の人になってしまったのか。ゲーム的にはこれでいいのでしょうか? 夫はなんのために存在していたのか……
続きましては、こちら。
「ホーンティング」です。見始めてじきに「あれ、これ見たことあるんじゃないかな」と感じましたが、とりあえず最後まで鑑賞。結論から言うと、一度見たことありました。
ストーリーは不眠症の実験と称して集められた主人公を含めた三人の男女が、人里離れた装飾過剰な屋敷で恐怖体験をするというもの。その屋敷はかつてその一帯を支配した男性が建てたもので、妻を娶り子供と仲良く暮らそうと発てたものですが、産まれてくる子供はすべて死産で妻も自殺、という曰く付きの屋敷です。なおかつ、その屋敷では男性が近隣の子供を連れて来ては屋敷に閉じ込めて殺すということが行なわれていたらしいのです。
主人公には殺された子供たちの声が聞こえ、おびえながらも勇気を振り絞って、死んだ後もこの屋敷を支配している男性に立ち向かうという内容。なんで主人公がそんなことをするのかと言えば、実は男性の妻が最後に産み落とした子供の孫が主人公であるという血のつながりがあったわけです。
そのあたりの事情が、偶然のような感じで主人公の知るところとなるのですが、最初のうちは明らかに主人公の妄想の世界のように描かれ、そのうちそれが本当に起こっている話だと他の人々にも理解されるわけですが、時既に遅しです。何人か犠牲者が出てしまいました。
結局主人公は、この屋敷を支配する、自分の先祖を退治し、囚われていた子供たちの魂を救い出し、自分も死んでしまうわけですね。なんか、ちょっと後味が悪いです。
美を愛でるこころ~和様の書~
本日より三日間の盆休み。
休みの日は出かけずに自宅で録りためた映画などを見て過ごすのが習いとなっているのですが、今日は違います。東京国利博物館へ「和様の書」を見に行ってきました。
さて、本展覧会、はっきり言ってしまえば書道の展覧会です。来ている方はやや年配の方が多いかなと言う気がしますし、皆さん、書道を稽古されていらっしゃるのでしょうか? ふと感じた疑問は、見に来ている方のうち、どれくらいの人が展示されている名筆の数々を読めるのかということです。つまりは崩し字です。
書ですから、やはり読めなかったら面白さは半減してしまうのではないか、否、そもそも読めない人に書のよさがわかるのか、という意見もあるかと思います。あたしもその意見にうなずかないわけではなく、やはり一文字一文字しっかり読める楷書が好みといえば好みです。
ただ、その一方、たとえば連綿で、何と書いてあるのかまるっきり読めない作品でも、懐紙・料紙がが美しく、その美しさを引き立て、あるいは引き立てられているような作品は美しいなあと感じます。今回の展示品でいうならば、竹生島経のようなすっきりとした、読みやすい文字の作品が個人的な好みではあるのですが、元永本古今和歌集のような作品も好きです。
この流れで言えば、当然のことながら平家納経は別格の美しさですし、紺紙金泥や金銀交書の法華経などもやはり美しいなあと感じられます。逆に、能書家の作品だと解説に書かれていても、平凡な、草食のない料紙に書かれているものにはあまり惹かれません。正直、いったいどこがいいんだろう、と思うこともしばしばです。
ところで、多くの作品は鑑賞用、特に茶の席での掛け軸だったりするわけですが、当時の人、そして江戸・明治くらいまでの文化人ならば、こういう崩し字も難なく読めたわけですよね? であればこそ、こういった作品が床の間に飾ってあっても、それを賞翫できるわけで、飾った主人の方も鼻高々となるわけでしょう。
でも、現代人の場合、読める人ってどれくらいいるのでしょう。この展覧会を見に来た人はさすがに読める人の割合が高いのだと思いますが、たぶん、上野の駅前でランダムにインタビューしたら9割以上の人が読めない(作品にもよるでしょうが…)のではないかと思います。そうなると、和様の書って、現代人はどういう風に鑑賞したらよいのか。上に書いたように、料紙との対比など、ただただ美的に鑑賞すればよいのでしょうか。
もちろん、あたしは先に読みやすい字が好きだと書きました。お経などは一文字一文字は何という漢字だか見ればわかります。でもお経として読めるのか、となると話は別で、結局、文章として読めないのであれば、連綿の崩し字が読めないことと大差ないのではないかとも思います。
その思いは、東博の後に銀座線で表参道へ向かい、根津美術館で「曼荼羅展」を見た時に改めて感じました。
あたしは曼荼羅とかチベット仏教のタンカなどが好きで、過去にも何度か展覧会を見に行っています。色や意匠、とにかく毎回目を奪われますが、ではあたしは曼荼羅が表わしているもの、描いているものを理解しているのかと問われれば、否と答えるしかありません。決して仏教的な理解に基づいて鑑賞しているわけではなく、ただ単純に美術品として好みであるというだけのことです。
となると、和様の書が読めないということも、別に鑑賞する、好ましく思うという時に、決して間違った態度ではないのかな、という気もします。もちろん曼荼羅を見るにはしっかりとした知識の裏付けを持って見るべきだという意見もあるでしょうし、それを言われたら返す言葉もありません。でも、わからなくてもなんかいいなあと感じる、それで十分なのではないかな、と思えば、なんて書いてあるか読めない名筆でも、とにかく眺めていればよいのではないかと思います。
ところで、「和様の書」展で最後に思ったのですが、中国の影響を受けつつも日本独自の進化・発展を遂げたのが和様の書であるというならば、
今日も暑いですね
→ 今日も暑ぃτ〃すね
→ 今日も暑レヽτ〃すЙё
→ 今日м○暑レヽτ〃£Йё
といった描き方をする、現代の通称ギャル文字は和様の書の最末端に位置する現象なのではないかと感じました。最後の一角で、これらギャル文字の展示があれば、「おお、トーハクも変わったなあ」と感じられたのでしょうけど。
ちなみに、文字は読めなくたってよいのだそうです。
同館副館長島谷氏の『書の美』にそう書いてありました。
さあ盆休み!
チクるのはいけないことなのか?
昨夜の日本テレビ系ドラマ「斉藤さん2」はいつものカラッとした笑いではなく、ちょっと重い内容でした。斉藤さんの息子、潤一がクラスでイジメに遭っているのです。
きっかけはささいなことです。クラスのリーダー格の大和くんが校庭から教室に投げ込んだサッカーボールがクラスメートの女子にあたり、その子が鼻血を出してしまったということです。「何があったんだ」と問う先生に潤一くんは「大和くんが投げ込んだボールが当たった」と正直に話したのです。それを大和くんは「お前、チクったな」と逆恨み。
小中学校などではよくある、先生にチクった、という話です。
この「チクる」という行為、どうも昔からチクった生徒に分が悪いですね? なぜなんでしょう? 子供のころからあたしは不思議です。というか、あたしもチクるタイプだったので。だから、クラスで嫌われていたのでしょうけど。
例えば、A君がいたずらなり悪いことなりをしてそれをB君が先生に報告したとします。とりあえずA君のやった事柄の大きさはおくとして、一般的には、この時点では客観的には誰が見てもA君が悪い、非難されてしかるべきだと思います。ところが、B君がそれを先生に報告・告発したとすると、その途端に「B君は先生にチクった」として、形勢逆転、A君は何も悪いことなどしなかったかのようにB君を非難します。
クラスメートの中にはチクられるようなことをしたA君が悪いと理解している生徒もいるのでしょうけど、ドラマなどでは往々にしてチクった生徒が悪い、として弾劾され、いじめられ、仲間はずれにされます。どうしてなんでしょう?
社会で強盗や泥棒など犯罪を見たらおまわりさんに通報するように、クラスで悪いことが行なわれたらそれを先生に報告するのはごく自然な行為だと思うのですが、なぜそれをするといじめられるのでしょうか?
チクるという言葉がよくないのでしょうね。告げ口のようなマイナスのイメージを持ちすぎています。本来、正しい指摘だったはずなのに。もちろん、上の例で言えば、B君は先生にではなく、まずはA君に意見すべきだったということなのかもしれませんが、先生から「何があった」と聞かれれば正直に答えるのが筋でしょうし。
少なくとも、あたしはどんなことであれ、チクられるようなことをした人が悪いと思っています。
先に逝くな!
自宅のネットワークHDDの調子がいけません。PCからも使うのですが、テレビの録画用としても使っていました。録画したドラマなどを見ていると、時々映像がぶれたり、乱れたりして、それは最初はアンテナのレベルのせいかなと思っていたのですが、あるときまるっきりHDDにアクセスできなくなり、本体を見たところ赤いランプが点灯しているのを見て、HDD本体の不調に気づいたというわけです。
使用説明書などを見ると、使用温度は5度から35度と書いてあります。HDDを置いている部屋はクーラーなどなく、たぶん日中は35度近くになっているのではないかと思われます。それでお釈迦になってしまったのかもしれません。
何度か電源のON/OFFを繰り返しているのですが、起動状態を示すランプの点滅がずーっと続き、PCからはHDDが認識できません。どうやら完全に逝ってしまったのでしょうか? 買い換えるような出費は避けたいところです。
とりあえず、中のデータは大したものは入ってなく、消えても構わないものばかりなのですが……
このHDDを買ったのは昨年の6月です。一年でダメになるものでしょうか? もちろんネットワーク型なので一日中電源はオンの状態ですから多少熱を持つのは仕方ないとしても、そもそもネットワーク型なので常に電源オンなのはメーカー側も承知の上の設計のはずですよね。
やはり、この夏の異常気象のせいでしょうか? あたしの部屋が暑すぎるのね? USB接続の扇風機で少しでも冷やした方がよかったのかしら?