あぽやん

先週から始まったTBS系ドラマ「あぽやん」を見ました。

なんてったって、あたしの大好きな桐谷美玲ちゃんが出ていますから見ないわけがありません。それに見てみたら、これまたあたしの好きな女優さんの一人、中村ゆりちゃんも出ているではないですか! あの透明感、いいですね。

それはそうと、この第一回の中で、あたしにはとても印象的なシーンがありました。主人公の伊藤淳史と桐谷美玲ちゃんが初めて出会う場面です。ぶつかって美玲ちゃんの鏡を割ってしまう伊藤淳史ですが、その時の美玲ちゃんは出勤時なので私服です。髪も下ろしています。そしてしばらくたったシーン。配属となり、スタッフに紹介される伊藤淳史が再び美玲ちゃんと顔を合わせるシーンです。

その時の美玲ちゃんは制服を着て、髪はひっつめた感じと言ってわかっていただけるでしょうか?

美玲ちゃんの顔を見た伊藤淳史は思わず「あっ」と声をあげますが、これが疑問です。

服装も全然違う、髪形も全く異なるのに、すぐわかるものでしょうか? いや、直前に逢っているでしょうと言われそうですが、そうはいっても、これだけかわってしまったら同一人物だと認識できないのではないでしょうか? あたしなら確実に認識できません。自信があります。

そんなシーンが非常に印象に残っています。

 

こんな街の賑わいが苦手

Facebookにも書きましたように、昨晩はとなる書店員さん(女子!)の結婚披露パーティーがありまして、夕方から外出しました。若干頭が痛かったのは昼過ぎに風邪薬を飲んだので徐々に和らぎましたが、朝からお腹の調子がよくなくて、そちらの方が心配でした。なので、立食パーティーではありましたが、食事は一切せず、乾杯のビールを一杯いただいただけにしておきました。

さて、会場は池袋サンシャインシティの水族館、こういう場所でこんなパーティーを開くことができるなんて知りませんでした。食事込みでいったいいくらくらいするのでしょうね? 上述のようにお腹の調子が悪かったので食事は楽しめませんでしたが、水族館の動物たちは楽しめました。この水族館には初めて来ましたが、そもそも水族館なんて、何年ぶりでしょうか? いや、そもそも生まれてこの方、水族館って来たことがあるのか、そこからして記憶が定かではありません。動物園ならまだしも、水族館は何十年ぶりになると思います。

さて、版のパーティーでしたから自宅を出たのは5時すぎでした。休みの日に、こんな時間から外出するなんていうのは何年ぶりでしょうか? 基本的に外出は早々と済ませ、特に日の短い冬ですから、寒くならないうちに帰宅するのがパターンで、わざわざ暗くなってから出かけるなんて、いつものあたしからすれば、ほとんど狂気の沙汰です。

わが家からですと中央線で新宿経由、山手線あるいは埼京線で池袋というルートになります。土曜の晩の新宿や池袋って、やはり人が多いですね。全員が全員とは言いませんが、だいたいが二人連れだったりします。夫婦、恋人同士もたくさんいますが、友達同士というのも多いです。仲よさそうにワイワイと楽しげに週末の夜を過ごしている姿は、どうも馴染めません。

昔から友達がほとんどいなくて、従って、休みの日に友達と出かけるなんてことを、ほとんど全くしたことがないあたしには、休みの日の寒空にわざわざ街へ出かけてくるなんて理解できません。なんか街にあふれるそういう人たちを見ていると、心が荒むと言いますか、荒れてくると言いますか、ささくれ立ってきてしまいます。一年後や数年後、否、半年後に、まだその相手と楽しい関係が続いているかどうかもわからないのに、どうしてそんな刹那的な快楽に溺れることができるのでしょう?

金曜の晩や土曜の晩は特に享楽的な空気が繁華街には充溢するので、そういったものが苦手なあたしは出来るだけ近づかないようにしてきました。苦手と言うよりもそういったものに縁がないと言った方がより正確かもしれません。いずれにせよ、今回みたいな、出かけなければならない用事でもない限り、わざわざ外出するなんてことはありえないわけで、目的地へ向かう途上、徐々に心にトゲが生えてくるのがわかる、そんな晩でした。

幸せな二人の門出を祝福しなければならないはずが、向かう途中で既に心に悪魔が棲みついてしまっていました。

 

通過しそうな勢い

ふだん乗っている東京の大動脈、JR中央線。いま「大動脈」と書きましたが、恐らく山手線と双璧をなす、東京で最も大切な路線でしょう。基本的に10両編成で走っていて、あたしは通勤にはほぼ中程の車両に乗っています。ところが、このたび、たまたま前の方の車両に乗る機会がありました。

それがどうした、と言われそうですが、これはこれで新鮮な驚きでした。

何に驚いたのか。

それは駅に着くたびに感じました。

列車のスピードです。

いつも乗っている当たりの車両ですと、ホームに滑り込んだ時、いかにも駅に停まるな、というくらい減速しています。もう何年も毎日のようにその車両に乗り慣れているので、だいたい駅に着く時のスピードもわかっているつもりです。

ところが、前の方の車両ですと、駅のホームに滑り込んでいく時のスピードがかなり速いのです。「えっ、こんなスピードで入線して、停まれるの? もしかして、この駅、通過?」と思えるような速度でした。

まあ、考えてみますと、10両ある電車の前の方と中程では、駅のホームに入ってきた時のスピードが違うのは当然のことで、頭で考えればすぐに理解できることです。でも、やはりふだん乗り慣れてしまっていると、こういうとっさの時に、頭で考えるよりも先に体が感じてしまっていると、対応できないものです。

たぶん、こんどは電車の後ろの方に乗ったら、また違った感覚を味わえるのでしょう。

 

自動発注

不景気なので書店も人が減っているのはこの数年来の傾向です。大手書店も街の小さな書店も同じです。どこも数年前に比べ、ずいぶんと人が減りました。もちろん出版社も減っています。出版社の人数が減ると、営業に外へ出る人の人数が減り、そうなると一人当たりの担当する書店の数が増え、その結果、書店を訪問する頻度が少なくなります。数年前までは一ヶ月一度は顔を出していた書店に、一ヶ月半に一度、あるいは二ヶ月一度しか行けなくなります。地方出張も以前なら年に6回行っていたのに現在は3回になった、あるいは地方や県、都市によっては数年に一度行けばよい方、という事態も生じています。

話は戻って書店の場合、出版社の立場から見ますと、以前ならレジはバイトが担当し、棚担当(たいていは正社員や準社員)の人は自分の担当する棚のあたりで書棚をいじくっていることが多かったものです。そこへお邪魔して、並んでいる本を眺めながら、ああでもないこうでもない、こうしようかああしようか、と話に花が咲いたものです。

それが最近は、棚担当の人がレジに入っていることが多くなりました。お客様あっての商売ですから、レジの仕事を投げ出して我々出版社の営業と話し込むわけにはいきません。それでも、比較的空いている時であれば(レジに何人も張り付いていなくても済むような時には)、レジからちょっと出てきて話をすることもできますし、そうしてくれる書店員の方も大勢いらっしゃいます。ただ、年々、そういうケースは減り、レジから出られない、ということが増えているようです。

書店の仕事はレジだけではなく、入ってきた本を棚に入れる、要らない本を棚から抜くという作業があり、本来、書店員の仕事のメインはこれだと思いますし、何をどこに入れ、何を抜くかが書店員の棚作り、腕の見せどころだと思います。結果的にこの時間が減ってしまい腕も見せることもなく、とにかく本を空いているところに差し込むだけ、という事態になっている書店も多々あるようで、バイトにやらせているお店も見受けられます。

そうなると、新刊は入ってきているけれど、本来棚に置いておくべき商品が抜けてしまっていても気づかない、ということになります。気の利いたベテランのアルバイトなら十分社員のフォローもできるでしょうけれど、そうでなければ、棚はどんどん荒れ放題です。

この状況を少しでも効率化しようという試みの一つに自動発注という仕組みがあります。商品が売れると、その記録が取次に転送され、取次の倉庫から自動的に補充されるという仕組みです。取次の倉庫になければ出版社に注文が来るわけです。うん、これは便利、これなら売れてから入荷するまでの数日の空きはできてしまうけど、棚のラインナップは自動的に維持されます。

と思いたいところですが、そうは問屋が卸さないのです。

書店を回っていて棚を見ると、自分のところの基本的な本が抜けているお店がよくあります。お店の方に指摘すると、対応はだいたい4パターンです。「あ、では補充してください」「いま、自動発注で回っています」「もう棚に入らないのでいいです」「売れないからいいです」というもの。最後の返答の場合、返品したのでもない限り、売れたから棚にないわけで、そういう本は棚に置かれるべき商品であり、「売れない」という返答がそもそもおかしなものだと思います。そして、こういう返答をされると、こちらとしては営業する気力が萎えます。

「棚に入らない」というのは、書店によって判断は異なるでしょうけど、棚に置くべき、揃えるべき銘柄の選択は正しいのか、そこが問題です。たとえば語学書の場合、あたしの勤務先は主として英語以外の語学を出していますが、うちとしてはどんなに売れていると主張しても、その語学はその店では扱っていないのであれば仕方ありません。昨今は中国語や韓国語が売れているのが全般的な傾向ですが(尖閣・竹島以降、ちょっと変わった?)、お店によっては中韓はさっぱりでフランス語やイタリア語が売れるというところもあります。

で、実は一番の食わせ物が二番目の「自動発注」で、次に行った時にはきちんと補充されているお店も多いのですが、補充されていないお店もやはりそれなりにあります。もしかすると、その間にちゃんと入ってきたけれどまた売れてしまったのかもしれませんが、そうかどうかはお店の雰囲気や店員さんの様子を見ればだいたいわかります。そもそも、そんなに売れる本なら一冊ではなく常に二冊棚に置いておいた方が、売り逃しがなくなるというものです。

それでも、出版社の営業としては「自動発注で回しています」と言われてしまうと、相当仲のよい書店員さんではないと、次の効果的な一手が打てません。それに仲良しの書店員さんなら自動発注で回しているなんて言い方はしないものです。

この自動発注という言葉、この五年から十年くらいの間に急送に使われるようになった気がします。それにはもちろん出版流通の改革、効率化という事態があったからですが、効率化はともかく、果たして状況は「改善」されているのでしょうか?

新聞の読書欄のこと

この前の日曜日は、あっちこっちの新聞の書評欄で、あたしの勤務先の書籍が取り上げられ、注文も増えました。でない時はパッタリ出ないこともあるのに、出る時はこうして何紙にも同時に出てしまうとは……

で、次回は朝日と読売で出ることが既に予告されております。

何紙にも書評が出るということは、いろいろな本を出しているから、という点もありますが、ある本ばかりがあっちにもこっちにも出るということもあります。それだけ評価が高いわけで、こちらとしても嬉しいですが、ただ個人的には、一読者としては、それでは各新聞の個性というものが消えてしまわないだろうか、という気もします。

出版社のたちからすれば、どの新聞にも出るのが一番嬉しいですが、読者からすると、あの新聞が取り上げたならうちは取り上げないぞ、という気概があってもいいのではないか。そんな気がします。

雪かき

たぶん首都圏の交通網が大混乱になったので、全国的に報道されていると思いますが、昨日の東京は大雪でした。ニュース番組で、街頭インタビューを聞いていると「こんな大雪になるとは思わなかった」と言っている人が多かったです。でも、ニュースや天気予報では確かにまとまった雪になることは伝えていました。きちんと確認していなかったあんたが悪いだけだよ、とテレビに向かってあたしはつぶやいていました。

ただ、街の人をあえて弁護するなら、天気予報では確かにまとまった寮の雪になるとは言っていましたが、降り始めは午後、あるいは夕方からという言い方をしていましたので、それを信じて朝から出かけていた人も多かったのではないでしょうか? あるいは東京から地元へ帰ろうと考えていた人とか。

ところが、雪は午前中から降ってきました。都下にあるわが家の方では9時くらいから雪になっていましたし、10時、11時にはもう本格的な雪、これは積もるぞという勢いで、現に積もり始めていました。この時点で出かけていた人も不要不急であれば帰宅するべきだったかもしれません。昼くらいまでならまだ電車も普通に動いていましたから。

さてその雪ですが、ふつう雪が積もっても、少し小降りになったら雪かきなどするものです。あるいは雪がやんだら家の前とか通りの雪かきをするものですが、昨日の場合、雪がやんだのは夕方でした。この時季ですから夕方もあっという間に暗くなってしまいます。とても雪かきなどするような時間はなかったと思います。それに加え、昨日の場合、雪がやんだのではなく、夕方になって雪から雨に変わっただけで、雨が降っていてはとても雪かきなどする気も起きないというものです。

そのせいか、今朝はあまり雪かきが十分できていないところが多かったです。仕方ない面もありますね。

ただ、わが家の近所、どうも一部の家は、雪かきをしようという考えがないようです。今回に限らず、毎年雪が降っても全くやろうとしません。自分の家の前だけでなく、少しはみんなが通るところも雪かきしておこうという親切心のかけらもない人が多いようです。それでもまだ戸建てはよい方です。自分の家の前はやる人がいます。それが繋がっていけば、いちおうは雪かきされた道ができます。

しかしマンション、アパートなどでは誰もやろうとしないところが散見されます。そういうところの住人って、イマドキの常識知らずの若い人が多いのでしょうか? それとも雪かきなどできそうもないお年寄りが多いのでしょうか?

骨壺

またしても、アイドルB級ホラー映画の視聴。今回は「骨壺」です。

AKBやアイドリングのメンバーがメインを張っている映画で、そういう意味ではそれぞれのグループのファンを取り込もうという大人の事情が透けて見える、あざとい映画とも言えます。ちなみに視聴したのは昨日で、いまこのダイアリーを書いている時に、フジテレビで浅見光彦シリーズが再放送されていますが、そのテーマが遺骨、骨壺であるというシンクロが起こっております。

さて話は戻って「骨壺」です。これも原作は山田悠介で、「リアル鬼ごっこ」もそうですが、基本的には謎解きというほどのミステリーや推理ものではなく、ホラーといっても小中学生や怖がりな人なら驚かせることができるだろうというレベルです。ストーリーも、作者は意識的にこういう作品を書いているのでしょうが、かなり荒唐無稽です。

とある惨殺事件で殺された人(女性)の遺骨、と言うより遺灰を食べると呪われて死ぬという都市伝説があり、遺灰を手に入れた主人公の周りで、誤って、あるいは故意に口にした人々が死んでいくというもの。死に方は突然発作が起きて死ぬ、ということですが、必ず死体の一部がなくなっています。それは惨殺された女性のお腹には子供がいて、その女性がせめて子供だけはこの世に生み出させてあげたいという思いを抱いて死んだからであると説明されます。つまり、体のパーツを集めて、もう一つの人間(?)を作り出し、それを自分のお腹の中の子供に見立てるという寸法です。

なんで何人も殺してパーツを集めなければならないのか理解不能ですし、年齢や性別もバラバラな遺体を集めてつなぎ合わせるという無茶なこともしています。何人か人が死んでいき、最後は一連の事件の原因を作ってしまった罪の意識から、主人公も遺灰を飲み、時分が最後のパーツ、頭部の提供者になります。パーツが揃ったところで呪いは消えたのか、いや、そもそもそんなことで呪いが消えるのか、この点は理解できませんし、謎解きもされていません。

そもそもが理解できない設定ですが、せめて呪いの対象は妊娠している女性にのみ向けられる(=嫉妬)とか、赤ん坊ばかりを狙うとかでないと、惨殺された女性の悲哀や悲しみが伝わらないのではないでしょうか? それに、そもそも恨みを抱いて死んだとはいえ、本来恨むべきは自分を惨殺した犯人でしょう。作品中ではその事件は未解決とされています。一連の呪い殺人が真犯人を暴き出す、追い詰めるとか、犯人に復讐するという目的に向かっているわけでもありません。これもまた共感できないところです。

さて、映画だけを見て、原作を読まずに批判してはいけないと思いますが、もしこの作品が山田悠介の原作に忠実なのだとしたら、あまりにもB級作家という気がしてしまいます。もちろん、主たる読者対象たる中学生あたりにターゲットを絞って書いているということを踏まえれば、そういった年頃の子供たちの気持ちを鷲摑みにする、極めて頭のよい作家だとも言えると思います。仕事柄、ヤングアダルト世代の話を聞く機会がしばしばありますが、彼らの好きな作家では山田悠介の名前が頻繁に挙がりますから、やはり作品作りがうまいんだろうなあ、と思うわけです。

今年は……

年明け最初の一週間が大過なく過ぎました。例年と比べて特に変わったことない新年になっています。業界としても明るいとか暗いとか、そういった感じもなく、あえて言うべきことの見つからない年明けという気がします。そんな感度の悪いことでいいのか、という気がしなくもないですが、これが偽らざる気持ちです。

年々、年賀状を減らしているということは既に書いたと思いますが、年が明け出社すると、会社宛の年賀状も多少は届いております。あたしの場合、社外の出版団体の会にも参加しているので、そういうところのメンバーから年賀状がそこそこ届いています。ほぼ例外なく、会社の社用年賀状に名前を書き添えたり、「ことよろ」的な一句を書き添えたりしただけのものばかりですが、皆さん律儀ですね。こういう年賀状を出す方というのは、たぶん会のメンバー全員に出しているのではないでしょうか? そして、ふだん回っている書店の方にも出しているのではないかと思われます。

あたしですか? あたしは全く出しません。出し始めると際限なく増えてしまうことになりますから、一切出しません。こちらから出さないと向こうからも来なくなりますから、あたしはそれでよいと思っています。それではまあ、あんまりだと思われるかもしれませんので、あたしの個人的な年賀状を画像にして出しておきます。

今年はかなりシンプルにしました。だって、この数十年、年末にこの一年を振り返ることもしなければ、年頭に当たって今年の抱負や目標を立てるようなこともしていませんので。あたしの場合、単なるちょっと長めのお休み、今月から来月に変わるだけのこと、というのが、ここ数十年の年末年始です。

年賀状を出さないからといって、あたしは別に声高に虚礼廃止を訴えたいわけではありません。年が明け、会社ではきちんと新年のあいさつを同僚や出入りの業者の方にはしております。それは当然だと思いますし、大事なことだと思っています。書店の場合、タイミングが悪く逢えない方もいましたけど、新年の数日で主だったところにはできるだけ顔を出すようにしていますので(東京以外の書店員さん、ゴメンナサイ)、それをもって換えさせていただいております。

なんでこうなってしまったか。

たぶん20代の後半から30歳目前くらいのころ、そろそろ結婚だよなあと漠然と考えていて、毎年のように「今年は結婚」のような目標を密かに心の中で立てていましたが、ことごとく虚しい結果となり、いつしか無駄なことはやめようという気分になってしまったのだと分析しております。

ちなみに、当時、付き合っていた異性がいたとか、意中の人がいたというわけではありません。20代後半は、痴呆が進んだ父を、母と二人で介護していましたので、それどころではありませんでした。ただ、そういう言い訳を除いたとしても、生まれてこの方、あたしは恋人ができたことがなく、異性とお付き合いしたこともありませんので、当時の新年の目標・抱負というのは、常に画餅であったわけですが(汗)。

たぶん、今年どころか一生このままなのではないかと思います。

ところでお気づきですか? 上掲の年賀状、「癸巳」の「癸」が「葵」になってしまっているのを!

携帯とはいえ

休みの日の恒例行事と呼んでしまっては、あまりにもあたしの日常が哀しいかもしれませんが、とはいえ、寒い日に出かけるのも嫌ですし、自宅でぼんやり映画鑑賞です。

 

携帯彼氏+(プラス)」と「携帯彼女+(プラス)」の2本です。同じ話の違う立場から見た映画なのかと思っていましたが、それぞれ別の作品でした。ホラーと呼ぶにはあまりにも幼稚なストーリーではありますが、確かにイマドキなテーマであり、シチュエーションだとは覆います。

前者は、女子高生の間で流行っているスマホ・アプリ「家庭教師+(プラス)」に、メーカー純正のアプリとは別のアプリが存在し、それは実は死んだ体罰教師の怨念によって生み出されたものであるという趣向。途中、アドレス帳から友達を選ばせる設問があり、それがこのアプリの伝播の仕方となっていて、そんなところはかつての「着信アリ」的な伝染の仕方に思えますが、「自分が次のターゲットを選んでしまった」という罪悪感を抱かせるところがいっそう罪深い気もしました。

最終的には、合わせ鏡で霊の通り道を作り、それによって邪悪な教師の怨念を追い払い、成功したかに見えてまだダメで、3Dで教師が出現する元となっているARカードを燃やしてしまうことで、その教師を退治するというエンディングです。ARカードを使うなんていうのは、さらにイマドキで、ケータイ(ガラケー)ならできない業、やはりスマホでないと成り立たないアイデアですね。

後者は、同じくスマホ・アプリではありますが、こんどは家庭教師ではなく、バーチャルアイドルの育成です。このアプリのすごいところは、自分のスマホで作り出したアイドルがARカードなしでもスマホ越しに見えるところ、そして、このアプリで他人が作ったアイドルも見えるというところでしょうか。端から見るとアイドルオタクの男子たちがウジャウジャいる場面も、そのスマホ越しに見ると男子一人一人にアイドルが付き添っていうように見えるのは、なんとも不思議というか、気持ちの悪い光景です。

このアプリの場合、主人公のゲームオタクの男子生徒と、中学時代の同級生から突然送りつけられたこのアプリのせいでイライラしているイマドキの女子生徒の、アプリの恐怖を通じて芽生えるほのかな恋模様もストーリーの軸ではあります。この女子生徒役は逢沢りなで、男子生徒のアプリの中野アイドル役は荻野可鈴でした。あくまで映画の中に映るイメージでは現実の女子生徒よりも、バーチャルアイドルの方がかわいかったと感じたのはあたしだけでしょうか?

さて、こちらの映画は、アイドルを育成して点数を稼ぐわけですが、要らなくなったアイドルをスカウトに出す(=捨てる)こともできるというのが、なかなかシュールです。ただし24時間いないに別に人にスカウトされないと、元の主人のところに戻ってきて、さらに点数も減点されるという巧妙さです。点数がゼロになるとプレーヤーは皆自分で首にナイフを突き立てるなどして自殺してしまいます。スマホ越しにはアイドルに殺されるのが見えるのですが、世間からは自殺しているようにしか見えないのです。逆に点数がたまってゲームをクリアすると、バーチャルの世界に行ってしまうようです。この男子生徒と女子生徒も意図したわけではなく、バーチャルの世界に迷い込んでしまいますが、なんとか現実世界との通路を見つけ出し(←これも男子生徒が通常のゲームをやりながらつぶやくセリフにヒントが伏線として隠されています)、無事に戻ってくるのですが、別にそのアプリを壊したとか、バーチャルの世界を潰したというわけではありません。あくまで自分たちだけが逃れてきたというだけのことです。

この両作品、ネット発のさくひんなわけで、非常に底の浅いものです。いかにも中高校生の間で流行りそうな、たわいのない噂話、いわゆる都市伝説的な内容です。いつでも身近に置いておけるという意味では「携帯」というタイトルは正しいのですが、携帯電話という意味で使っているのであれば、既に作品の中でも使われているのはスマホですから、時代はどんどん先へ進んでいることを実感させられます。かといって、「スマホ彼氏」「スマホ彼女」では据わりが悪い気もしますし……