7月 2013のアーカイブ
文庫になっちゃった!
こんな本が書店の店頭で目立ちます。
『愛する伴侶を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』です。本書の隣には、『加賀乙彦 自伝
』が並んでいることが多い気もします。
でも個人的には『紅梅』を並べてもらいたいところですが、この本、少し前に文庫になってしまったんですよね。やはりどこの書店も単行本と文庫本を並べるのはあまりやりたがらないようですね。もちろん単行本もまだ在庫はあるでしょうから並べられないことはないと思うのですが、難しいようですね。
値段が違いすぎますよね。それにしても、単行本の刊行から文庫化までちょうど2年ですね。
晶文社からサリンジャーの評伝
関西ならでは?
『恋都の狐さん』読了。
本書を知ったのは先日の関西出張の折でした。自分の勤務先がもっぱら海外文学ばかりで、ほとんど日本文学を敢行していないので、ふだんの営業でも海外文学の棚は目にしていますが、日本文学の棚はそれほど注意深く見ることはありません。が、出張に出た時に、担当の人を待っていたりする時、何気なく日本文学の棚も見ることがありまして、これは東京にいる時もそうなのですが、この本に限って言えば、「こんな本、見たことないなあ」という感じで目に飛び込んできたのです。
帯に書いてある梗概を読めば納得です。この本はまずは奈良を中心とした関西で売れるだろうなあという気がしました。なにせ舞台は奈良。主人公の女子大生が、人生初の恋に目覚めるというストーリーなわけですから。関西のとある書店さんで、熱の籠もったポップ付きでこの本が平積みされていたのです。
で、既に本書は発売から少し時間がたっていまして、既に第二弾と言いますか続編と言いますか、『美都で恋めぐり』という作品も刊行されています。こちらはこれから読む予定ですが、どちらも、装丁があたし好みです。
とりあえず第一弾の方ですが、人物の心理描写が途中から駆け足になるというか、恋に目覚めると「暴走機関車」と化すのか、ややドタバタして慌ただしく、急ぎ足になってしまい残念なのですが、世間を見るとなにかにつけて羨ましく感じられ、どんなカップルにも嫉妬の炎を燃やしてしまう情けない主人公には、前半はものすごく感情移入が出来ました。
ただ、そんなことより本書を読むと、改めて奈良の街をゆっくり歩いてみたいなあという気分にさせてくれます。観光客が多すぎる京都ではなく、奈良を敢えて歩きたくなる、そんな本です。神社仏閣の行事に関する蘊蓄がうまい具合に織り込まれている割りに、街の雰囲気の描写が少ないのが玉に瑕だと思いますが、それでも奈良を見直すきっかけにはなりそうです。
そして嵐がやってきた
相変わらず、あんた誰?
昨夕の梓会の親睦会。
もう何回目かの参加ですので、顔見知りの人もずいぶんと増えました。それでも「ご無沙汰です」と挨拶されても誰だったか全く思い出せない人がほとんどという体たらく。胸に名札を付けていたので、名前を確認すると「ああ、確か某某の会の時にご一緒しましたね」と言う程度には思い出せたりするのですが、名前を見ても思い出せない方も何人か……
それにしても、遠くで見かけたということをカウントしなければ、お互いに顔を合わせた回数というのは同じはずです。それなのに、こちらは覚えていないのに、向こうはあたしのことを覚えている。人間としての認識能力に超えられない差があるのでしょうか?
あたしが逢った人のことを覚えないというのは、偉そうに言えることではありませんし、もちろん偉そうに言うつもりは毛頭なく、あくまで事実の正確な記述としてここに書いているわけですが、とにかくこのことはあたしの周囲では有名な話です。平均すると3回か4回は逢わないと覚えられません。
逆に、相手はあたしのことを覚えているんですよね。あたしの記憶では一回しか逢ったことのない人でも、なぜかあたしをしっかり覚えていてくれたりします。営業職としてそれはかけがえのないアドバンテージであるとは同僚にも先輩にも他社の人にも言われますが、こちらが相手を覚えていないわけですからたちが悪いです。
それにしても、なんで皆さん、あんなに相手のことを覚えているのでしょう。もちろん、営業先の書店でこういう話になると、「自分も覚えるの苦手で、何度も来てくれる出版社の人をなかなか覚えられないんです」という方も多々いらっしゃいます。うん、あたしだけではないんだ、と勇気をもらいます。ただ、その逆に、本当に一回逢っただけなのにしっかり相手を覚えている、まさしく営業の鑑のような人も存在するのも事実で、ドラマでホテルや旅館のスタッフが顧客の顔と名前を数百人から数千人覚えているなんて設定になっていることがありますが、まさしくそれを地でいくようなすごい人がいるのも事実です。
あたしなりに、相手のことを覚えられない理由の一端は自覚しています。それは、他人に対する興味です。別に自分が大好き、自分にしか関心がないというわけではなく、ただ単に他人に興味を持っていない、他人が好きではない、という基本的な姿勢によるものです。特に業界の集まりのような場ですと、この場でしか逢うことはない、今後も仕事上で関わることはほぼないだろうという判断が働くと、相手に対する興味はほぼゼロになってしまいます。もちろん、そんな態度を露骨に出すことはしませんが、時には「二度と逢うことはないんだろうなあ」と心の中で思いながら会話をしていることも多いです。
一期一会、という言葉があります。多くの人が座右の銘にあげたりする言葉です。茶道の言葉ですよね。一つ一つの出会いを大切にする、というような意味です。でも、あたしの場合この言葉は、今回きりの出逢いだから、その場だけ適当にやり過ごせばいいや、という意味で、むしろ金輪際に近いニュアンスでとらえてしまいます。
他人に興味がないから、友人も恋人もいないわけですが、そんなあたしでも、知っている人に似た人だったりすると比較的すぐに覚えたりは出来ます。似ていると言っても、それはあたしが似ていると感じているだけで、並べてみたら全然似ていない場合も多いでしょうが、あたし的には似ていると感じる、それで十分なわけです。あとは、男性でも女性でも好みのタイプなら、やはり覚えやすいでしょうか。このあたりは世間一般の人とあまり変わらないのではないでしょうか?
ところで、よく趣味に「人間観察」なんて言っている人がいますけど、それって何が楽しいのか、と思います。人間なんて観察すればするほど嫌なところしか見えてこないものではないでしょうか?
時代はリンカン?
今日の配本(13/07/26)
深爪
この一ヶ月、出張などいろいろあって、回るべき書店に顔を出せていなかったものですから、本日久しぶりに営業に行きました。
あら、ナンシー、久しぶり!
と顔では笑いつつも、「あんた、最近ご無沙汰じゃない」と、心の中では場末のスナックのママよろしく毒づかれていたのではないかと戦々恐々でした。
ただ、あたしの方では、実は人差し指を深爪していまして、それがジンジン痛むので、時々意識が爪の方へ向かってしまうこともあって大変でした。
一昨日の晩の風呂上がりに、伸びているなあと気づいたので切ったのです。昨日は特に大過なく過ごしたのに今朝から一本だけ切りすぎてしまったようで、とても痛いです。
ちなみに、爪が光っているのはマニキュアと塗っているからです。乙女の身だしなみです。
ところで、あたしって手が大きいでしょうか? たぶん清朝の割りには大きい方だと思いますし、まず背丈が同じくらいの人と比べたら、あたしより手の大きい人ってほぼいないと思います。
特に、手がでかいだけでなく、指が長いとも言われます。だからといって、ピアノが得意だということもなければ、バスケットボールを片手で持てるということもなく、もちろんフォークボールがよく落ちる、ということもありません。
特に人並み外れて長いのは小指です。普通の人の中指くらいはあります。試しにiPod Classicと比べてみるとご覧の通りです。
順番に伝わったわけでは……
最近のニュースの中で個人的に気になったのは、北朝鮮のケソン工業団地のニュースです。
とりあえず、ケソンと書きましたが、ニュースでは「開城」と表記されていることが多いですよね。つまり「開城」の朝鮮語読みが「ケソン」なんでしょう。とすると、「開」が「ケ」で、「城」が「ソン」ですかね?
さて、漢字は中国発祥で、朝鮮半島から日本へ伝わったものと考えられています。当然、文字だけでなく、その発音もそのように伝わってきたものだと思われます。だとすると、伝わった当時の中国での発音に最も近いのが朝鮮での発音、そこから伝わった日本の発音は原音からは離れてしまっている、と考えるのが妥当だと思われます。つまりは伝言ゲームの要領です。伝えられるうちに、だんだんと変容していくということです。
ところが、現在の発音で比較すると、「開城」は中国語では「カイチョン」、日本語なら「カイジョウ」です。現在の発音で比較するのは学術的ではないかもしれませんが、「ケソン」も現在の発音ですから、開き直ってこの三者を比べると、中国の発音と日本の発音の方が近く、朝鮮の発音の方が遠い、という印象を持つのはあたしだけではないと思います。
もちろん、日本への漢字の伝来は必ずしも朝鮮を経由失せず、東シナ海を渡って直接もたらされたことも多々あったでしょうが、伝播全体を100とすれば、90くらいは朝鮮半島経由だと思うのですが、どうでしょう?
そういう点から考えると、この「開城」の発音の伝播と、その後の各国での変化は実に興味深い現象だなあと、ニュースを見ながら、聞きながら思うのでした。


