そんなに猫が好きですか?
イヌ派、ネコ派とよく言いますが、実際の好き嫌い、どちらの方が多いのでしょう? 男はイヌ派が多く、女性はネコ派が多いような気もしますが、あくまで印象であって、なんら確証や傍証があるわけではありません。
書店を回っていると、書店員は女子が多いからなのか、ネコ好きな方が多いように見受けられます。表紙にネコの写真やイラストが使われているというだけで、少しでも長く置いておこう、それも平積みや面陳で置いておこうという意識が働くと聞いたことがあります。もちろん内容や売れ行きありきではありますが、同じような条件でどちらか一方を棚から外さないとならないという場合、ネコものを残すことになりがちだそうです。
あたしはキティラーなんですが、ネコはあまり好きではありません。こんなネクタイまで締めているのに、実はそれほど好きではないんです。子供の頃、家で飼っていたインコを野良猫に殺されて以来、ネコはむしろ嫌いかもしれません。一時期は、ネコを見るたびに石を投げつけていたくらいです。
逆に犬は好きです。これは昔も今も替わらないです。ただ、犬を家の中で飼うのは嫌いです。小型の室内犬などもあまり好きではありません。イヌはどんなに可愛がっても動物です、人間はありません。そこの一線は守りたいと思っています。これまで、あたしの人生において、ネコもイヌも飼ったことはなく、ネコを飼うつもりはありませんが、もしイヌを飼うとしても、庭で飼う、大型犬が飼いたいです。シェパードとかコリーとか、そういった犬種です。とはいえ、そんな余裕、わが家の経済状況ではとてもありませんが……
でも、あたしの勤務先は、やはりと言いますか、イヌよりもネコ派の方が多いみたいです。ウェブサイトにはこんな連載があります。今でこそ、石を投げつけることもなく、人並みにネコをカワイイと思えるようにはなりましたが、やはり飼おうという気は起こらないですね。ネコ好きで、猫を飼っている有名人と言えば、あたしの好きな女子アナウンサー、TBSの久保田アナのブログが有名ですが、いつか勤務先のウェブサイトも久保田アナとコラボできるとよいのですが。
クスッとした笑い
『ぼくは覚えている』読了。
開くとわかるように、「ぼくは覚えている」で始まる文章を並べた作品です。詩のようにも見えます。確かに詩のように、リズミカルに読めるところもあります。でもすべてを読み終わると、これが作者の学生時代を中心とした自伝的な作品であると思えてきます。否、思えるのではなく、実際のところ、そうなのでしょう。
子供の頃から学生時代にかけての、作者の記憶に残った細々とした事柄が、「ぼくは覚えている」という書き出しの後に、延々と書き綴られます。作者の年齢を反映して、描かれる世界は1950年代が中心のようで、あたしにはちょっとわからないところもあります。また年代の問題だけでなく、あたしがアメリカ文化やアメリカ社会に対して知識が無いことから理解できない項目も多々あります。そして、何と言ってもこれが最大の原因ではないかと思いますが、作者がやはりかなり変わった人物であることによる理解の難しさもあります。確か作者はゲイだったはずです。同性愛の描写も散見されます。
そんな理解の困難さはあるものの、やはりクスッと笑ってしまう項目、うんうん、その感じ、わかる、という描写が全体の多数を占めています。ちょっとエッチな描写など、思春期を通り越してきた世代であれば、誰でも多かれ少なかれこんな経験をしたり、こんな妄想を抱いたりしたことがあるのではないでしょうか?
高校生や大学生が読んだらどんな感想を抱くのか興味深いですが、青春をはるか昔に終えた世代が読んだら、ちょっぴり懐かしく、当時の青臭かった自分を思い出せるのではないでしょうか?
痴漢かしら?
久しぶりに井の頭線に乗りました。
吉祥寺で乗ってドア付近の、シートの端の席に座り本を読み始め、しばらくすると一人の女性があたしの隣に座りました。座席は埋まりつつあり、あたしの隣の席の、さらに隣には既に別の女性が座っていて、その女性は一つぽっかりと空いていた、あたしの隣の席に腰を下ろしたわけです。
このこと自体は別にどうということはありませんが、その女性の態度がなんとなくおかしいのです。その女性のすぐ後に男性が歩いていて、女性が座ると自分もそのそばに座ろうかという勢いだったのです。てっきりあたしはその二人が連れなのかと思いました。カップルなのか夫婦なのかはわかりませんが、とにかく二人一緒なのだろうと最初は思ったのです。
ただ、その刹那、妙な違和感を覚えました。後から歩いてきた男性はチェッという感じで周囲を徘徊、結局どこにも座ることなくその場から離れ、女性の方もその男性を気遣う風でもなかったのです。最初に感じた違和感、そう、それは連れと言うよりも、その女性があの男性に追われていて、その男性から逃げてきたという感じなのです。この推測が正解なのか確かめるすべはありませんが、少なくともその時点で二人並んで座れる場所は車内にまだ残っていたわけで、二人が連れであるならばそちらに座ればよかったのでしょうけど、あえて一つだけ空いていたどころにわざわざ入り込んできたという座り方でした。つまり、その女性にとっては、右だろうと左だろうと、あの男性が隣に座ることのないような場所に腰を落ち着けたかったのではないかと思います。
その後女性は俯いて寝てしまったのか、寝ているふりをしていたのか、とにかく顔を上げずにいました。あたしもずっと本を読んでいたので気にしていませんでしたが、しばらくすると隣の女性があたしにもたれかかってきました。あら、本当に寝てしまったのかしら、という感じでしたが、あたしもそろそろ下りる駅がちが付いてきたので顔を上げたら、なんとあの男性が比較的近いところに立っているではありませんか。
既に座席は埋まっていますから、車内には立っている人が何人もいます。ただ、あたしが後者のために席を立ったら、間違いなくその男性があたしの座っていた席、つまり例の女性の隣の席に座りそうな様子です。そして現実にそうなりました。
あたしが下りる駅に着いたので席を立つと、その男性が猛然と、という言い方は大袈裟にしても、少なくともあたしの席のすぐ近くに立っていた人があたしの座っていた席に座るのをなんとしても阻止するぞという勢いでやってきて腰を下ろしたのです。あたしの隣で眠りにつき、もたれかかってきた女性が、あたしが席を立ったこと、そしてあの男性が隣に座ったことに気づいたのか、目を覚ましたのか、今となってはわかりません。
すべてがあたしの思い過ごし、勘違い、気のせい、勝手な妄想であってくれればよいのですが、あの男性の目つきとか様子、態度を見ると、あたしの推測が外れているとは思えないのです。痴漢であればその女性も騒ぐでしょうから、もしかするとストーカー的な行為に遭っていたのかもしれないですね。いずれにせよ、あたしは下りる駅を乗り過ごしても、その女性の隣を死守すべきだったのか、あるいは下りる時にさりげなくその女性を起こしてあげるべきだったのか、後味の悪い井の頭線でした。
今日の配本(12/12/13)
今日の配本(12/12/12)
アダムとイブ
『アダムとイヴ 語り継がれる「中心の神話」』読了。日本人ですら、わが国の伊弉諾、伊弉冉よりもこっちの方に親しみを持っているというのは皮肉なものですが、こうして語られると、アダムとイブについても知らないことが多かったということがわかります。
著者お得意の美術から文学などにわたるアダムとイブ像の変遷を豊富な図版を交えて書いているのでわかりやすいことこの上ないですが、あえて言えば、せっかくの図版が小さすぎることでしょうか。図版によってはもう少し大きく載せてくれないと、本文で注目しているところがどこなのかよくわかりません。
個人的には、カインとアベルがアダムとイブの子供だったと初めて知ったり、さらにその二人の下にもう一人子供がいて、アダムがイブよりも先に死んでしまったことなど、キリスト教や西洋文化史に詳しい人なら常識のようなことをこの本で知りました。そして、なんとなく「エデンの東」は西でも南でも北でもなく、なんで東なのかわかったような気がしました。
今日の配本(12/12/10)
映画鑑賞
土日は、特に出かける用事がなければ、自宅でのんびりと、スカパー!なやWOWOWで録画しておいた映画を鑑賞しております。最近視たのはこれらです。
まずは前者「ローズマリーの赤ちゃん」です。
ずっとずっと以前に、たぶんテレビで放映されたのだと思いますが、視たことのある作品です。ただ、ホラーと言うよりもよくわからない内容の作品だったという記憶しかなかったので、久々に放映されていたので見直しました。で、結論から言いますと、やっぱりよくわかりません。当時としてはこういったシチュエーションや状況設定、ストーリー展開は新鮮だったのかも知れません。だから本作はホラー映画史の中でも名作と呼ばれているのだと思います。
しかし、結局は主人公である若妻の妄想なのではないか、という気がしないでもないです。最後まで見て、悪魔崇拝だという決定的な証拠はありません。単にうざったいだけの隣人でしかなく、どこをとっても若妻の妊娠期における精神不安定がなせるものとしか言えないと思います。最後のシーンも、どこまでが現実でどこまでが主人公の妄想の中のことなのかわからずじまいのエンディングです。これではストレスだけが残る終わり方です。
次はアイドル映画ですね、「王様ゲーム」です。個人的にはW主役の一人、鈴木愛理ちゃんが可愛いと思います。本作でも重要な鍵を握る人物のように描かれていますが、最後はあっけないです。もっと見せ場が欲しかったところです。と言うよりも、この作品自体があっけないです。一連のゲームが何らかの呪いのようなものによって引き起こされているというところまでは明かされますが、作品中では呪いの原因、どうしてこういう惨劇が始まったのか、なにもわからずじまいです。せっかく事件が始まった場所まで行ったのに、わかったことがあれだけでは、あの場面を出した意味がわかりません。
たとえ荒唐無稽な呪いとはいえ、やはりなぜそんな呪いの惨劇が始まったのか、何を目的としているのか、映画の中でわかるように描いて欲しかったな、というのが率直な感想です。所詮はアイドル映画だからというのは言い訳にはならないと思いますが。
最後は「麒麟の翼」。もうWOWOWで放送か、という気もします。感想を一言で言うと、なんか偶然というか、うまい具合に阿部寛の思ったとおりに事が運びすぎる、いくらなんでも都合よすぎるでしょ、ということに尽きます。よく練られた伏線という感じもしませんし、トリックが意表を突くというわけでもなく、結局はくだらない事件だったんだな、というのが偽らざる感想です。
それでも中井貴一は存在感がすばらしいですし、ガッキーは文句なくカワイイです。それがなにより。
アカデミズム
本日は東京駅八重洲北口を出てすぐのところにあるサピアタワーの中にある立命館大学東京キャンパスへ行って来ました。行って見て初めて知ったのですが、このタワーには立命以外にもいくつかの大学のキャンパスが入っているのですね。こんな都心の一等地にキャンパスを構えるなんて、私学はやはりお金を持っているものだと思います。
さて、なんでそんなところへ行ったかと言いますと、立命館孔子学院の公開講座「中国(語)をぼやく」を聞くためです。内容は『白水社中国語辞典』の編集でたいへんお世話になった中川正之、杉村博文、木村英樹の三先生による鼎談でした。このところ、本屋営業が主になり、大学の先生回りだとか学界などへの出展がほとんどなったかので、こういった学問的な話から離れて久しかったです。ですので、なかなか頭がついていかないところもありますが、やはり刺激的で、聞いているのは楽しかったです。我ながら、勉強というか、学ぶこと考えることが好きなんだなと思います。
話柄の中で興味深かった話題はいくつかありましたが、その中から一つ二つ取り上げるとしますと、「漢字不滅、中国必亡」という中国文のこと。「漢字が滅びなければ、中国が亡ぶ」という魯迅の比較的有名な言葉です。識字率とか近代教育だとか、当時の中国のさまざまな困難を前にして、魯迅なりに出した結論の一つなのでしょう。まあ、魯迅以外にも漢字廃止論を唱えた識者はたくさんいましたから、取り立てて奇異なものでも突飛な言説でもありません。
この文章、特に接続詞はありませんが、何々ならば何々というふうに、条件として解釈するのが一般的です。ところが最近の学生は「漢字が滅びることはないが、中国は必ず亡びる」という解釈をすることが多いそうです。これだと逆接に結んでいる構文となります。中国語の場合、逆接に読むためには、それを示す接続詞が必要になるので、この解釈は間違っているというのが教室での教え方になるわけですが、なぜに条件だと接続詞はなくてもよいのに、逆接だと接続詞が必要になるのか、やはり条件とか因果の関係の方が普通の流れだからなのでしょうか?
また中国語の「初恋」には「初めての恋」という意味と「恋愛の初めの頃」という二つの意味があるのに、日本人は得てして二つ目の意味を忘れたり知らなかったりするそうです。言われてみると、「初夏」と言った時、それは「夏の初めの頃」を指すのであって、「初めての夏」という意味で使うことは、日本語ではまずありませんね。「田舎から東京へ出てきて初めての夏]という意味で、日本語の場合、「初夏」という言葉を使うでしょうか? たぶん使わないでしょう。
また、「このレポートを5時までに提出しなさい」と言えば、5時きっかりまでに出さないといけなくて、5時10分でも、5時50分でもアウトです。それに対して「5日までに出しなさい」と言われた場合、4日のうちに出す必要はなく、5日であれば朝一番で出してもお昼に出しても、あとちょっとで6日になるという夜中に提出してもOKです。「時」と「日」の持っている幅の違いが感じられる好例です。
中国を話柄にしながらも、言葉そのものについて考える愉しい一時でした。