今日のネクタイ~壹佰零玖本目。~[2015.1]

このところ、あたしのこのダイアリーにやたらとパスワード制限がかかっていることに多くの皆さまお気づきのことと思います。とある身近なところから、業界や仕事に関わることを誰でも見られるところに書くな、というクレームが来たための措置ですので悪しからずご了承ください。

で、会社のサイトでやっていた「今日のネクタイ」も辞めました。

それでも、ファンの方は大勢いるので、時々、こちらで継続させていただきます。

今回はこんなネクタイです。自撮りなのでちょっとボケていますがご寛恕ください。ブラウスは見たことある方も多いと思いますが和柄です。

ネクタイをもう少しアップというか鮮明にしたのが上掲の写真です。はい、おわかりのように本棚です。あたしん家の本棚ではありません。ネットで購入したものなのでどこの誰の本棚なのかはわかりません。実際にあるのか、あくまでグラフィックソフトで作ったものなのか、それすらも不明です。

対人的なスペース?

河出文庫の『異性』を読んでいます。

角田さんと穂村さんのやりとり、面白いです。でも、参考になるのかと問われると、うーん、あたしみたいに交際経験のない人にはわからないことも多いです。なんだかんだ言っても、角田さんも穂村さんもこれまでに何回か恋愛をして、恋人もでき、お付き合いもしてきている二人です。だからこそわかる、言えるという部分はあるにせよ、あたしのような未経験者には、結局「勝者の語り」にしか聞こえないところも多々あります。

そんな本書の中に「対人的なスペース」という言葉が出てきます。「モテ要素であるところのスペース」なんて言われています。あるいは「異性進入用のスペース」とも言っています。つまりは内面的な余裕のようなもので、これが他人から見えるから、そこに他人が入り込んでくるということらしいです。で、モテない人はこのスペースが小さいとか無いとか、そういうことになっているみたいです。

あたしの場合、たぶん他人を寄せ付けないところがあるので、あたし自身にはこのスペースはほとんどないと思います。だから入ってくる人なんていないでしょう。いや、スペースがそもそも無いから入れないのですよね。また逆に、あたしが誰かのスペースを見つけることがあるか、あったかというと、これもまたわかりません。そんなスペースを他人が持っているなんて考えたこともないですから。

あえて言えば、もしそういうスペースを見つけられたとしても、あたしには入る資格がないと判断するでしょう。この人のスペースには入れるのはあたし以外の誰かだろう、あたしを入れてくれるスペースを持っている人なんてこの世にはいないだろう、そう思います。だって、あたし自身があたしを入れたいと思いませんから。もちろん、そんなスペースを見たことも入ったこともないあたしが思っていることですけど……

あと、本書には「主電源」という言葉も出てきます。これもモテの話題に出てくるタームで、主電源がオフになっている人はいくら格好つけてもダメなんだそうです。まずは自分の主電源をオンにしろ、というのが穂村さんのご高説のようです。ただ、ここであたしが穂村さんや角田さんに言いたいのは、「その主電源とやら、本当に誰にでもあるのですか?」ということ。

あたしが思うに、そもそもこの主電源が付いていない人ってのもいると思うのです。生まれつき付いていない人、持っていない人は、そもそもオン・オフ以前の問題ではないでしょうか? 穂村さんも角田さんもその可能性については何も言及していませんが、もしかして誰にでも付いているもの、誰でも持っているものと思っているのでしょうか? それはあまりにも脳天気ではないかと、あたしなどは思ってしまうのです。

新刊が多すぎる件について

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20年前のこと

阪神大震災、いや、阪神淡路大事震災と呼ぶべきなのでしょうか? 当時は呼称についても論議がありました。どの地震や災害でもそうですが、呼称一つで国からの復興予算とか、その他もろもろ差がついてしまうそうです。この時も「淡路」が入るか入らないかで、淡路島の被災に対する国の対応が変わるのだとか聞きました。なんともくだらない話ですが……

さて、阪神大震災から今日で20年です。先日、成人を迎えた芸能人のニュースなどが流れていましたが、彼ら、彼女らが生まれた年にあの震災は起きた、と言ってよいのでしょう、事実上。他の地区はともかく、阪神地区の成人については、「あの震災がなかったら、この式典に参列していたはずの人」がこの20年、毎年ある程度の人数はいるんですよね。不思議な感覚です。

あの震災のころ、あたしはとうに社会人でした。白水社に入社して、伊地智先生の『中国語辞典』の担当をしていました。毎月のように大阪枚方市の先生のご自宅へ伺って校正と原稿整理を行なっていて、お手伝いいただいている先生方もほぼ全員が関西在住の方でした。

いつものようにラジオが付いているわが家でした、その朝は神戸で大きな地震が起きた模様という第一報が入ってきて、ただ、映像もなければ朝も早くて情報がなかなか入ってこず、東京では「まあ、大きな地震と言っても、震度4とか、そんなもんでしょ」くらいの気分でしたが。

ところが時間がたつにつれ、神戸がとんでもないことになっているというのが伝わってきました。テレビも他のニュースを飛ばして神戸からの中継、たぶんヘリからの空撮だったと思いますが、そういう映像に切り替わりました。とはいえ、東京はなんともないですから、まずは出社です。中途半端な情報で出社したあたしでしたが、出社後に入ってくる情報では、それこそあたしの感覚では古今未曾有の震災という感じで、伊地智先生をはじめとした先生方の安否が気遣われました。

伊地智先生は、上にも書いたように枚方という大阪の東の方ですので、それだけ神戸からも離れている分ほとんど被害はなかったようです。関西への電話が繋がりにくい中、電話が繋がったときはホッとしました。その他、大阪や京都に住んでいる先生方はほぼ深刻な被害もなく連絡が取れましたが、何人かの神戸の先生方については、結局その日のうちには連絡が付かなかった方もいらっしゃいました。が、幸いにも全員無事が確認でき、ホッと胸を撫で下ろしました。

ところで、毎月のように大阪へ行っていたのとは別に、年に二回くらい、その先生方に集まっていただいて辞典の編集会議も開いていました。実は年が明けたので1月にその会議を開く予定でしたが、こんな状況で開けるのか、いったん中止、あるいは延期しなければと思っていました。しかし、伊地智先生に相談したところ、「集まれる人だけでやりましょう」とのことで、先生方に連絡を出し、震災から2週間後に大阪で、確かに梅田に近いところだったと思いますが、そこで会議がありました。神戸からも編者の先生方駆けつけてくれましたが、曰く、あの瓦礫の山の神戸から梅田に来てみたら、いつもと変わらない週末の光景にビックリした、とのこと。

そうなんです。あの時、梅田のデパートはさしたる被害もなく、あたしが大阪へ行った震災2週間後の土日は普段通りの営業をしていたのです。電車で数十分も行けばついてしまう三宮があんな状況になっているというのに、梅田とのこのギャップはすさまじいものです。ただし、神戸の先生方は、あの神戸の街を見ている気が滅入るけど、普段通りの梅田の街を見ると、気が紛れると話していました。伊地智先生もそういった効果を考えて、あえてあの時期に会議を開いたのではなかったでしょうか。

とまあ、あたしにとって阪神大震災は体験はしていないのですが、非常に身近な災害として記憶しています。ただ、瓦礫の山となった神戸に、あたしは一度も足を踏み入れていません。踏み入れられなかった、といった殊勝な気持ちではなく、単に機会を作れなかったというだけなのですが、神戸の先生方は、確かに交通手段など厳しいけれど、あの光景は見ておいた方がよかっただろう、と語ってくれました。その機会を失してしまったのが、やはり残念といっては不謹慎ですが、多少の悔やむ気持ちは抱き続けています。

答えは簡単?

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最後のKISS

角田光代さんの『おまえじゃなきゃだめなんだ』を読み始めました。たぶん、明日には読み終わると思います。

感想は改めて書きますが、作品の一つに「最後のキス」というタイトルのものがあり、谷村有美のこの歌を思い出してしまいました(汗)。恋人とさよならすることになって、まだ寝ている彼に最後のキスをして部屋を出て行く、という歌詞の歌です。小説の方はそういうストーリーではありませんが……

さて、これは短篇連作集で、ほぼすべての作品が、もう若くはない女性たちの恋愛模様を綴っています。家庭を持って幸せに暮らす人、いまだ独身で仕事に打ち込んでいる人、あるいは新しい恋を見つけようとしている人、別れを乗り越え次の恋に向おうとしている人、さまざまです。

毎回こういう作品を読んでいて思うのは、とりあえず作品中の時間軸で主人公に現在進行形の恋人・配偶者がいるか、いないかに関係なく、すべての主人公が一度や二度は恋愛を経験しているということに対する違和感です。

いや、それなりに人生を送ってきたら恋愛の一つや二つしていて普通でしょ、という意見はわかりますし、もっともだと思います。でも、本当に世の中の人は、それなりに生きていれば、一度や二度は異性と付き合ったことがあるものなのでしょうか? そうでない人だっているのではないか、そう思います。と言うより、かく言うあたしがそうなんです。いわゆる「恋人イナイ歴=年齢」っていうやつです。

作品中で「もう何年、恋人いないのだろう」なんてセリフを読むと、あたしの場合、「ああ、それはかわいそうね」と思うよりも、「何年か前にはちゃんと恋人がいたんでしょ?」と思ってしまいます。たとえ、いま恋人がいなくたって、かつていたことがあるならいいじゃない、それで満足しなさいよ、と思っちゃうのです。世の中には生まれてこの方恋人ができたことがない人だっているのよ、それを考えたら、たとえ一時期とはいえ恋人がいたことのあるあんたは幸せじゃない、そう思うのです。

この作品中で、恋人も作らず仕事に打ち込んでいる女性が、恋愛し結婚した女性に対して、バカにし見下す感情を抱き、それが嫉妬だとその時は気づいていなかった、というような場面があります。恋人がいない人は往々にして「恋にうつつを抜かしているなんてバカのすることだ」と見下して自分が精神的に優位に立とうとする傾向があるものです。

でも、あたしはそうではありませんでした。むしろ「恋人はおろか、友達も作れないあたしって、ダメな人間なんだ、人間としてどこかおかしいんだ」と考え、見下すというよりは自分を卑下する方に奔りがちでした。たぶん、それは正しい自己分析だと思います。恐らく、あたしは人間として、どこか欠けている、何かが足りないのだと思います。