2011年11月15日

魔都上海に生きた女間諜

魔都上海に生きた女間諜』読了。

著者が学者、研究者ではないため、だからこそわかりやすくまとめられていると思います。

鄭蘋如については、テレビのドキュメンタリーで見たことがあり、名前などは知っていましたが、川島喜子に比べるとやはり日本での知名度はかなり落ちますし、実際にスパイとしてやったこと、できたことはそれほどのことでもないという印象です。本書を読んでもそれは変わりません。

ですから、本書は彼女の伝記・評伝としてではなく、当時の上海における謀略戦の略史として読んだ方がよいのではないでしょうか。

それにしても、その謀略戦の最前線にいた日本人が、中国を理解しているが故に日中戦争の無謀さを自覚していたというのは皮肉なものですし、そういう情報や知見が生かされなかった当時の軍部や日本政府の構造というものは、今から見ても歴史の鑑になると感じます。

2011年9月16日

彼我の差

文春新書『松井石根と南京事件の真実』読了。

たぶん、多くの日本人は「松井石根」という四文字だけを見たら、これが人名だとは思わないだろうし、「まつい・いわね」と正しく読むこともできないでしょう。しかし、中国では、特に南京では誰でも知っている(←という表現にかなりの誇張はあるかも知れませんが)単語であり、そこには「日本のヒトラー」という枕詞が付くようであります。



中国の歴史認識や歴史教育についてはいろいろ問題があるわけですが、今はそういった問題をおくとして、本書を読むと松井石根という人の生涯がほぼわかります。ただ、タイトルにある「南京事件」についてはさらっと書いてあるだけで、「つまり、真実は?」と問い返したくなる内容でした。

南京事件、一般には南京大虐殺と言った方がわかりやすいのかも知れませんが、そのことが至極あっさりと、否、ほとんど触れられていないという本書の記述は、つまりは世間で言われているような、あるいは中国政府がことさら強調するような計画的、集団的虐殺はなかったということを示しています。

確かに、これは松井石根自身も認めていることですが、末端の兵士が中国の一般人に対して略奪、暴行、殺人を行なったことは事実でしょう。ただ、それは筆写も書いているようにどこの戦場でも見られる範囲でしかなかったと思われます。避難区域(国際安全区域)への日本軍の侵略、これはかつて北京で見た映画「南京大屠殺」(←VHSでは「南京1937」というタイトルですが、あたしが北京で見たときには確かにこのタイトルでした。日本の女優・早乙女愛が主演でした)にも描かれていましたが、ある程度はあったのでしょう。なにせ、中国軍の方が国際法違反を犯して民間人に紛れ込んでいたわけですから、それの掃討をしないと日本軍としては安心して統治できません。

などなど、大虐殺はあったのか、なかったのか、どちらの側に立つにせよ、あたしは松井石根がこれほど中国を愛していた、中国のことを案じていたのなら、どうして中国の人々の気持ちを汲めなかったのだろうか、と思います。一部の(大多数の?)中国蔑視にとらわれた軍人や日本人はいざ知らず、松井石根をはじめ中国に知己もおり、中国の行く末を案じている日本人の知中派、親中派が、もう少し中国人の気持ちを斟酌して大陸政策を立てられなかったものかと思います。

そこが、松井石根をはじめとした、当時の中国通の限界だったのでしょうけど。

2011年9月 4日

一人っ子政策

莫言『蛙鳴』読了。

 

中国現代文学に慣れていない人、あるいは中国史などにさほど関心のない方は、この作品を楽しめたのでしょうか? もちろん、楽しめるような内容の作品ではありませんが、いわゆる文学作品として堪能できたのかということです。

それなりに評判になっているようですが、文学作品として楽しめたのかと言われると、この作品が莫言自身の体験をベースにしているためルポルタージュを読んでいるような錯覚さえ覚え、文学作品なんだという気がしません。

かといってルポルタージュとしては、描かれた内容の背景がほとんど説明されていませんから、当時の中国農村の原状、中国が置かれた現実、そして中国社会特有のしがらみなどを抜きに、この作品の重たい空気が伝わるのだろうかという気もします。

海外文学を読むとき、人によって判断や評価は異なるでしょうけど、その国の社会や歴史を踏まえていないと作品を理解できないというのはどうなんでしょう、という気がします。もちろん、その国のことを知っているからこそより楽しめる、より味わえるという事実を否定するつもりはありません。でも、そこを踏まえていないと作品の面白さが半減してしまうというのは、なかなか外国で受け入れられるのかという切実な問題を抱えているような気がします。



で、あたしとしてはこの作品を楽しめました。前半から中盤はちょっとダラダラとしていて、もう少し刈り込めるのではないかと思います。却って後半からエンディングにかけての方が、代理母という問題を扱っているだけに、中国社会の現実などを離れ、日本人でも共感できたのではないでしょうか?

そもそもこの作品が作品自身の中味よりも、「一人っ子政策を正面から扱った作品である」という点で論評されていることに(先日の朝日新聞のインタビュー記事など)、文学作品として評価されているのか、という思いを抱いてしまいます。

中国学を専攻した人間として、どんな形でもいいから中国文学にスポットが当たるのは嬉しいですが、もっと欧米の作品と同じような目線、論調で評価される時が来てくれることを願っています。それは80後、90後の作品を論評するときに「中国でもこういう作品が作られるようになったんだ」ということだけで評価されるのを乗り越えることと同じではないでしょうか。

ちなみに、作者の故郷でもあり、作品の舞台となったのは下図のあたりです。


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山東省ですから、日本人にもそれなりに馴染みがあるでしょうか? 青島ビール、山東出兵、泰山、孔子の故郷、水滸伝などなど。

2011年5月30日

官製ではなく官制

集英社新書『モノ言う中国人』読了。

こういった中国モノ、いま現在の中国を題材とした本って、「まえがき」とか「あとがき」で、ほとんどの著者が、最近の中国本は盲目的に中国を賛美したり、あるいは逆に中国を悲観的描いたりと両極端で、どちらも真実の中国を描き切れていない、と書いています。そして、そういう著者なりの不満を解消し、真実の中国を日本人に知らしめようという思いから書かれたものがほとんどで、本書もその一つです。

しかし、これだけよくもまあいろいろな人が、お互いに中国の真実の姿をとらえていないと言い合えるものですね。不思議です。逆に言えば、これだけ本が出ているのに、日本人一般にはあまり伝わっていないということなのでしょうか? だとしたら、その原因はどこにあるのでしょう? これだけ次から次へと、実のところ内容的には大差のない中国モノが出版されているのに、日本人の中国認識があまり変わらない原因を分析した本の方が必要かも知れません。

さてさて、本書です。

著者は中国で大使館勤務だったようです。本書では知識人や知的エリートではなく、もっとごくフツーの中国人がインターネットという武器を手にすることによって、政治や社会のあり方に口を挟むようになってきた、意見表明するようになってきたということを紹介しています。ネットに表われた状況の分析としてはそれでよいのかも知れませんが、本書を読んでいる限り、著者が、そのフツーの中国人の中に分け入ってインタビューしたり、取材をしているような感じは受けません。もちろんネットの匿名性がありますから、本当に書き込んだ人に逢えるとは限りませんが、それでも、もう少し取材、足で稼いだものが欲しかったです。

さて、本書を読みながら感じたのは、著者が書いているように反日デモに代表されるような中国民衆の示威行動が「官製」ではない、ということに関してはあたしも賛成ですし、そう思います。ただ、政府や党中央などがやらせているのではないけれど、必要なところはしっかりコントロールしているという意味で「官制」だとは思っています。そして、そのコントロールできている部分が徐々に少なくなっている、なかなか言うことをきかなくなっている、とも思っています。

国有企業と国営企業の違いではないですが、例えば中国のデモ一つとっても、日本で「上がやらせているんだ」と言ったときに、それが「官製」というニュアンスなのか、「官制」という意味なのか、新聞や週刊誌も神経を使って書いて欲しいものだと思います。

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