セキュリティ

今週も三連休です。前回と異なり、今回は天気にも恵まれそうですね。ただし、次の台風が来襲にはやってくるような、来ないような気配ですけど。

さて、三連休ですので仕事がらみのメールはパタッと来なくなります。まあ、出版社はほとんどが土日は休みでしょうからわかるとして、書店の方からもメールも意外と少なくなります。まあ、書店からのメールの場合、こちらが休みですから、フェアの相談などでしたらまだしも、急な問い合わせや発注にはこちらが対応できませんので、連絡しても意味がないと思っているのでしょう。

ただ、それとは別に、これは書店回りの時の話などで言われることも多々ありますが、土日など休みの時はメールが見られないと思っている人が多いようなのです。あたしのようにウェブサイトをやっていたり、Facebookなどをやっていると、とりあえず「友達」ならば連絡を取れなくはないと言えますが、そうでなければ週が明けて会社に出てくるまではメールを出してもみてもらえないと思っている人が多いようなのです。

ですから、あたしが土日祝日など明らかに会社が休みの時にメールの返信などをすると、「休日出勤?」と勘違いされる方も時にいらっしゃいます。決してそんなことはありません。もちろん全く休日出勤をしないわけではありませんが、基本的には自宅のパソコンでメールをチェックし、必要ならば返信しております。つまり、会社のアカウントを自宅でもチェックしていると言うことです。

これは会社によってはできないところもあるようです。セキュリティのためでしょう、会社のアカウントのメールは、会社内のパソコンでしか送受信ができないような設定になっている会社も多いようです。会社外では受信はできるけど送信はできないという設定もあるそうです。幸いなのかどうかわかりませんが、あたしの勤務先の場合、自宅でも会社アカウントのメールの送受信ができます。ちなみに、外出時に持ち歩いているタブレットでも可能です。

ですから、午後からの営業回りでも、電車を待つ間とかのちょっとした時間を見つけてメールのチェックをしたりすることがあります。出張中ももちろんできます。一番怖いのはタブレットノバってエリーが切れた場合ですが。

そんなわけで、土日祝日でも遠慮なくご連絡ください、と言いたいのではありません。取り立てて社外秘と言うほどの情報をメールでやりとりしているわけではありませんが、それでも一歩下がって考えてみた場合、セキュリティとして大丈夫なのか、という思いはあります。もちろん、メールを会社でしかチェックできないとしたら相当不便でやってられないと思いますね。

それに、現状、多くの起業では社員はほとんどケータイかスマホを持っていて、そのアカウントを使っていろいろなやりとりをしているわけですから、会社アカウントのメールだけできないようにしても、あまり意味がないのではないかとも思うのですが、どうでしょう?

 

今年も

9月18日。

柳条湖事件の日。

つまりは、満州事変。

個人的には、満洲は「満州」ではなく、「満洲」と書きたいので、「満洲事変」と表記したいところ。

やはり、日本人として忘れてはならない昭和史の一頁。

線路を爆破するなんて、現代の日本人の感覚からすると全く思いも付かない方法ですが、あの当時の日本人の多くは中国側のしでかした事件だと思わされていたのでしょうね。

当時のことを書いた書物などを読んでいると、やはり日本にとって南下してくるソ連は相当な脅威で、それは現在の北方領土を挟んで睨み合っているなんていう緊張感を遙かに上回るものであったことは容易に想像ができます。それに対して防波堤になってもらいたい中国は頼りにならないどころか、独立国家の体をなしていない状態、こうなれば日本自身が出ていってなんとかしないと満洲から朝鮮半島まで一気にソ連に奪われてしまう、そういう潜在的な恐怖があったのだと思われます。

そういう恐怖感を持った日本が選択した行動として満洲事変以降の一連のやり方が歴史的に見て間違っていたとは思いますが、なぜその道を選んでしまったのか、どこの時点ならまだ引き返せたのか、そういったことを考えるのが歴史に学ぶということなのではないでしょうか? 7月7日の盧溝橋事件などと共に、やはりいろいろ考えさせられる日です。

 

 

台風一過

思いのほか足早に過ぎていった台風。雨、風邪共に甚大な被害が出ていますが、幸いに多摩地区は大きな被害のニュースは入っていないようです。電車が止まったりしたようですが、今朝の状況ではそもそも外出する人も少なかったでしょうし。そして夕方にはきれいな夕焼け。まさしく台風一過という言葉どおり、明日からは素敵な秋晴れになることを予感させる空の色でした。

と、いま述べた台風一過、あたしは昔、この言葉を「台風一家」だと思っていました。どんな一家なのかと言うと、人の家に遊びに来て、散らかすだけ散らかして帰って行く、とても迷惑な家族のことです。なんとなく、あたしが小さい頃、そういう感じの親戚とか知り合いがいて、その人たちが帰るとホッとして散らかっている部屋を片づけていた記憶があるのです。

子供の頃のあたしには、ニュースで耳にする「たいふういっか」という単語に「台風一過」という漢字を当てはめるだけの知識がなく、「台風一家」だと思い込んでいたわけです。テレビのニュースで台風が去った後、窓ガラスが割れ、電柱が倒され、といった被害の状況を見るにつけ、あの人たちが帰った後のわが家と同じだと感じ、ああいう台風みたいな家族のことを台風一家と言うのだと思い込んでいたのです。

状況が状況だけに、このあたしの認識の誤りが正されるのにはそれなりに長い年月がかかってしまったのは言うまでもありません(汗)。

 

意外と……

晴れましたね、今日。

あたしん家の方では、明け方5時頃から雨の降りが強くなり、それで目が覚めてしまった感じでした。まあ、いつもそのくらいには起きているので、取り立てて朝早く起こされたという気はしませんが。

で、朝方はそれなりに強く降っていたものの、昼頃からはよい天気になり、午後などは照りつける日差しがジリジリとかなり暑くなりました。もちろん雨上がりなので、日陰は涼しかったですが、日なたはまだまだ真夏の余韻を残している風でした。

いったい台風をどこへ行ったのだ、という気がしますが、天気予報を見る限り確実に近づいている模様。明日の朝には東海地方か関東に上陸だそうです。今のところそんな風には感じられない天気ですが、たぶん夜中には強い雨が降り出すのでしょうね。それにしても、今年の夏の雨は異常な降り方ばかりでした。「経験したことのない」なんて形容詞を使っていいのでしょうか? それって「想定外」を言い換えただけではないのでしょうか?

自然と友達に?

土曜の晩はたいてい日本テレビ系の「斉藤さん2」を見ています。今し方まで見ていたのですが、あたしの大好きな桐谷美玲ちゃんがだいぶ日焼けしたなあと感じた回でした。あれだけの炎天下、たぶん埼玉のレイクタウンでやっているとおぼしきロケ。あれではどんなにUVケアをしても日焼けは防げないでしょうね。

そんな「斉藤さん」で、桐谷美玲ちゃんはここ数回、自分は果たして斉藤さんの友達になれたのか、斉藤さんは自分のことを友達として見てくれているのか、不安に感じています。で、今回、エンディングに近いところで桐谷美玲ちゃんの夫役・田辺誠一が「子供の頃はいつの間にか友達になっていただろ。友達かどうかなんて考えないだろ」というようなセリフで美玲ちゃんを励ましていました。

うーん、美しい夫婦の愛、と感心している場合ではありません。あたしには納得できません。

確かに、子供の頃はそんなことは考えなかったというところは正しいです。でも、あたしはその小学生の頃にいじめられたり、嫌われたりしていました。その時、こちらが友達だと思っているだけでは友達にはなれないんだと実感しました。必ず相手からの承認を取り付けないと、友達だと思っているのはあくまでこちらの一方的な気持ちでしかなく、双方向で友達であるという認識が共有されているわけではないんだと。

それ以来、小学校卒業まで、そして卒業後もずっと、あたしは他人に対して友達であるか否かを確認したことはありません。確認したいとも思いません。答えを聞くのが怖いと言ってもいいかもしれませんが、その一方で、あたしなんかを友達と思ってくれるような人はいないだろうなあという諦めの気持ちも混じっています。確認してやっぱり相手はそう思ってくれていなかったら悲劇です。それにいったいいつまで友達と思ってくれているのかの保証もありません。そんなあやふやなもののために自分の感情をかき乱されるのはたくさんです。

だから、あたしには小学校以来、友達と言える人は存在しないのです。知り合いなら、これだけの年数を生きてきましたから、仕事もしていますし、それなりに増えましたが、どれも知り合い、顔見知りであって、友達ではないですね。田辺誠一みたいな脳天気なセリフ、あたしにはとても口にできないと感じだ視聴後の感想です。

 

どうして人文書が売れないのか?

どのジャンルも売れてないと言ってしまえばその通りなんですが、「人文書は売れない」という台詞もこの業界の人口に膾炙して久しいものです。でも、ふと思いました。いまの日本の政治と同じなのか、と。

どういうことか? 民主党政権って、異論はあると思いますが、あたしの印象では青臭い理想を掲げた政治をやろうとしていたんじゃないかと思います。官僚から政治を取り戻す、金権体質の自民党政治に訣別などなど、少し前の日本だったら馬鹿にされそうなくらい青臭いセリフだったと思います。でも、国民はそれに乗ってみることにしたわけです。

でも、結局、それでは腹の足しにはならない、誰がこの国の舵取りをやってもいいから、とにかく満足に食べられるようにしてくれ、という国民の声が強くなり、結局は何を食わせてくれるのかわかりませんが、とにかく腹に入るものを出すと約束してくれた自民党に、国民は再び賭けてみたわけです。

で、あたしの感覚では、民主党時代は哲学を語ろうとした時代だったのではないか、という印象なんです。その哲学の中味がどういうものであったか、後世の人の検証に耐えるほどの中味を持っていたのか否かは今は問いません。とにかく民主党は哲学で政治をやろうとしていたのではないか、少なくとも前半においては。

それが国民にそっぽを向かれたわけで、それってつまり国民は哲学なんて求めていない、もっとすぐに役に立つような本が読みたいんだという動きとシンクロしているような気がするんです。ダイエットなんかの本は相変わらず売れていますから。

でも、逆に考えると、民主党の掲げた哲学が稚拙だったから国民はそっぽを向いただけで、もし哲学と呼ぶにふさわしい内容を備えていたならば、こうも早々と自民党に政権を奪還されなかったかもしれないとも思えます。つまり、人文書も本当によいものなら売れるはずだという、もう何十年も言われ続けている、ありきたりの結論に行き着いてしまうわけですが……(爆)

やはり、腰が痛いとろくなことを考えませんね。