姉妹篇のように感じてしまうのは普通じゃない?

最近、こんな本を買いました。祥伝社新書の『大人処女』です。ちょっとドキッとするタイトルですね。いや、こんなタイトルでドキドキするのは中学生男子だけか……(爆)

それはともかく、この本を書店で見かけたときに思い出したのが、15年ほど前に扶桑社新書から刊行された『中年童貞』です。そしてもう一点、8年前に刊行された幻冬舎新書の『ルポ 中年童貞』です。

両書とも読んでみましたが、涙ぐましいと言いますか、悲壮感も漂わせつつ、なんとか笑い飛ばそうとしているように感じられました。ネガティブなことをいかにポジティブに変換するか、という感じです。

それに比べると『大人処女』は未読ではありますが、惹句などからうかがわれるところでは、非常にポジティブなものに感じられます。力強さも感じます。『大人処女』と『中年童貞』をアマゾンなどのネット書店で検索し、「一緒に買われている本」といった関連図書を見比べますと、男性と女性の違いがよくわかるような気がします。

完結しましたね

ハルキ文庫から『親王殿下のパティシエール』という作品が刊行されています。単行本が先に刊行されたり、どこかの雑誌に連作されていたものをまとめたり、といった作品ではなく、文庫オリジナルのようです。

カバー装画を見ると、少女向けの作品なのかなという気もしますが、清朝の康熙帝時代を舞台にフランス人と中国人のハーフである主人公マリーを中心に描かれる宮廷絵巻。否、正確には康熙帝の息子の屋敷が舞台ですから「宮廷」ではありませんが、上流階級の生活という点で括ってしまえば、皇族も多数登場するので宮廷絵巻と呼んでも構わないでしょう。

そしてそんな清朝の宮廷や歴史的背景、そして首都北京の空気感。これらは多少なりとも中国史をかじっていないと理解しづらいところがあるのかもしれません。そういう意味では、あたしには非常に興味深く、そして面白く読めた作品でした。

その『親王殿下のパティシエール』ですが、このたび刊行された第八巻で完結しました。康熙帝が没して嘉慶帝の世となり、主人公とその主人である皇弟にどんな運命が待ち受けているのか、史実とにらめっこしながら楽しく読んでいました。ちなみに主人公はフランス革命を逃れてフランスの首都パリからはるばる清国へ渡ってきたわけで、当時のヨーロッパ情勢、そして清国における宣教師の生活など、清朝史に感心を持っている人であれば、より楽しめた作品ではないでしょうか。まあ、専門家の目から見ると粗があるのか否か、あたしにはわかりませんが、とにかくエンタメ作品です、楽しめればよしとしましょう。

それにしても、中国史のようにゆったりと進んでいた最初の巻に対し、この最終巻は時間が一気に流れました。こんなに早く終わらせる必要があったのか、もう少しマリーの奮闘、そして周囲の人の物語など描いて欲しかったという憾みが残ります。とはいえ、最後はあたしも目頭を熱くしてしまいました。

単なる偶然なのですが……

この数日読んでいた本、カバンに入れて営業回りの移動中に読んでいたのが、新潮新書の『スサノヲの正体』、そして寝床で読んでいるのが、新潮クレスト・ブックスの『ある犬の飼い主の一日』です。どちらも新潮社の刊行物です。単なる偶然ですが、新潮社でかぶってしまいました。

前者については、なかなか興味深い内容でしたが、あたしが古代史に不案内なもので、この本で語られていることがどれくらい学界で支持されているのか、わかりません。ただ、その点を抜きにしても、いろいろと古代史に関する知見が広がったように感じます。

後者は、あとちょっとで読み終わります。たぶん今晩くらいには読了するかなと思っています。主人公はあたしと同世代、かつて結婚生活を送っていたという点こそ異なりますが、老境に入って独り身の生活というところは、あたしとほぼ同じです(あたしは年老いた母と同居中)。あたしは犬は飼っていませんが、犬好きというところは一緒です。なので、もう少しシンパシーを感じられるかと思いきや、この主人公、枯れるどころか、ますます盛んなご様子。あたしは逆立ちしたってかなわないなあ、と感じました。

似て非なる、否、そもそも似てないか?

松田青子『おばちゃんたちのいるところ』を読んでみました。本作の内容紹介には

追いつめられた現代人のもとへ、おばちゃん(幽霊)たちが一肌脱ぎにやってくる

とあります。幽霊がやって来ると聞いて思い出したのが、『海峡を渡る幽霊』です。

こちらはの内容紹介には

都市化の波に取り残された港町に生きる女性、結婚後の夫との関係に悩む妻、幽霊となって故郷を見守る先住民の女性など、女性の視点から台湾の近代化と社会の問題を描く。李昂の豊饒な文学世界を堪能できる一冊

とあります。女性を助けに幽霊が現われるというモチーフでは似ていると言えなくもないですが、読んでみるとテイストは全く異なります。

むしろ、読んだ感じとしては『冬将軍が来た夏』の方が相通じるものが感じられました。こちらの内容紹介には

レイプ事件で深く傷ついた私のもとに、突然あらわれた終活中の祖母と5人の老女。台中を舞台に繰り広げられる、ひと夏の愛と再生の物語

とありまして、決して幽霊ではないのですが、主人公の女性を助けに現われる女性たちというモチーフが『おばちゃんたちのいるところ』と似ていなくもないと感じられたのです。

それにしてもあたしが挙げたのはいずれも台湾の作品ですが、こういう心温まる怪異譚というのは日台共通のものがあるのでしょうか?

読むべきなのはどれかと問われたら……

《エクス・リブリス》の最新刊『未来散歩練習』を読んでいます。

韓国の作家、パク・ソルメの作品で、《エクス・リブリス》では『もう死んでいる十二人の女たちと』に続いて二つめの作品です。この数年、出版点数が非常に増えている韓流作品の一つです。それにしても、これだけ韓流作品の翻訳が刊行されると、どれを読んだらいいのかわからなくなってしまいそうです。

そんな中、それほどたくさん読んでいるわけでもなければ、韓国文学に詳しいわけでもないあたしが、独断と偏見でお薦めの韓国文学作品を選ぶとするなら、迷うことなくこの二点です。

まずは『こびとが打ち上げた小さなボール』です。あたしが読んだのは単行本ですが、最近文庫になりましたね。手に取りやすくなったのではないでしょうか?

そしてもう一点が、『』です。これは晶文社の《韓国文学のオクリモノ》というシリーズの一冊です。こちらは文庫にはなっていませんし、単行本でも500頁弱もある大作です。

この二作品、とにかく圧倒的です。ノックアウトされそうになるくらいの力を持った作品です。「いやー、韓国文学ってすごいね」というのが、この二つを読んだ後の偽らざる感想でした。

韓流文学は『82年生まれ、キム・ジヨン』を筆頭に、女性の生きづらさとか、韓国社会の閉塞感を描いたような作品が多く紹介されていますが、この二作品は、あたしの印象ではそんな枠には収まりきらないスケールを持った作品だと思います。

ただの西部劇ではない?

《エクス・リブリス》の『終わりのない日々』読了。カバー写真どおり、アメリカの西部を舞台にした作品でした。もちろん時代も南北戦争のころで、現代の物語ではありません。

語り手の主人公は、アイルランドからアメリカ大陸に渡ってきた少年で、炭鉱街の酒場で女装して踊るアルバイトをした後、インディアン討伐の軍隊に入り、更には南北戦争にも従軍するという人生を送ります。主人公の語りで進むからなのか、非常にテンポよく、また闘いのシーンも多いのですが、それほど陰惨な印象は受けず、西部の荒野のようにカラッとした印象で物語は進んで行きます。

ところが、後半、インディアンの娘、ウィノナを迎えてから家族の情愛が生まれたからなのか、物語にもウェットな感じを帯びてきます。そして主人公を待ち受ける、どうしようもなく過酷な運命。

と、ここまで書いて、実はこの作品を彩る大辞な設定について触れていないことを思い出しました。乞食同線の少年だった主人公が出会うのが美少年のジョン・コールです。二人は同性愛の関係になるのですが、そこが強く描かれるわけではありません。むしろ同性愛と言うよりも、主人公の心が女性、つまり今で言うところの性同一性障害なのかな、と思いました。そうなると同性愛ではなく主人公からすれば異性愛になるのだと思います。

そして、この作品を読み終わってあたしが一番強く思ったのは、そして「訳者あとがき」にもうれしい情報が書かれていましたが、主人公二人に愛情を注がれて育つウィノナから見た世界を描いたスピンオフ作品が読みたいということです。なんとウィノナを主人公にした物語『A Thousand Moons』は既にアメリカで刊行されているとのこと。早く邦訳が読みたいものです。

この二点はペアで売りたいですね!

少し前に中公新書の『物語チベットの歴史 天空の仏教国の1400年』を読み終えました。中国共産党の弾圧などチベットの状況は、お隣のウイグルと共に悲惨な状況になっているようですが、そんなチベットだからこそ、まずはその歴史を簡便に知りたいと思って手に取りました。

チベット人の名前に少々苦戦しましたが、非常にわかりやすい記述で、チベットのこれまでが少しは理解できたと思います。それにしても、その過半は大国に翻弄された歴史なんですね。それでも民族の誇りと伝統、そして文化を失わずに歩んできた道のりに畏敬の念を覚えます。

とはいえ、中国共産党による、真綿で首を絞めるような弾圧は徐々にチベット固有の文化を奪っていっていると感じます。多少の武力(暴力)を伴いつつも、これぞ共産党が西側に対して使う「和平演変」ではないかと思われます。

そんなチベットの歴史、同書を読んでいて実は一番興味を惹かれたのはダライ・ラマ六世です。一見すると破戒僧のような人のようですが、それでもチベットの人々からは絶大な支持を得ていたようで、チベット文化の不思議さを感じます。と、そんな風に思っていたら岩波文庫から『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』なんて本が刊行されているではないですか。

中公新書を読んだ人の多くがこの岩波文庫も買ってしまうのではないでしょうか。逆に岩波文庫を読んだ人なら、改めてチベットの歴史をやダライ・ラマ六世とその周辺のことが知りたくなって、中公新書に手を伸ばすのではないかと思います。

重なりますよね?

このところ、ちくま新書やちくま文庫ばかり買っているような気がしていましたが、今月は中公新書も面白いです。ご覧のように、三冊も買ってしまいました。

こういう新書って、読みたくなる、興味があるタイトルがまとまって出るように感じます。昨日今日そう思ったのではなく、以前からの気持ちです。学生時代にも、こっちの新書からも、あっちの新書からも中国に関するものが刊行され、「どうして今月はこんなに中国ものが多いのか!」と思ったことが何度もあります。

もちろん、時事的なネタですと、どの新書も出そうと考えるからでしょう、各社の新書で似たようなタイトルのものが重なることはよくあります。最近ですとウクライナやロシア、プーチンに関するものとか、習近平や中国に関するものでしょうか。

とはいえ、今回の中公新書の場合は、似たようなタイトルというのではなく、あくまであたしの興味のあるタイトルが重なったというだけのことですが、こういうこともよくありますね。

ちょっと気になるんですけど、お値段が……

講談社現代新書の『ドイツ誕生』を読みました。

この場合の「ドイツ」とは「ドイツという概念」「ドイツ人という意識」といったもので、そういう「ドイツ」というまとまりが出来るきっかけになったのが、神聖ローマ帝国を作ったオットー1世であり、彼の一代記が本書です。

神聖ローマ帝国という名称はもちろん知っていましたけど、その初代が誰であったかなんてすっかり忘れていました。その一方でオットー一世という人物名は頭の片隅にあり、これまではその両者がまったく結びついていなかったわけです。あまりにも不勉強でした。

ところで、このオットー一世は広範囲にヨーロッパを駆け巡っていたようですが、特にイタリア遠征は大きな仕事だったようで、紙幅も多く費やされています。

そんなイタリア遠征の記事になると頻出するのがラヴェンナという都市の名前です。この地名には聞き覚えがあります。先日、勤務先から刊行された『ラヴェンナ』です。『ドイツ誕生』を読んでいると、やはりラヴェンナが気になります。どんなところだったのだろう、どういう役割を持った都市だったのだろう、当時の地政学的な位置というのはどんなものだったのだろう、などといった疑問、興味が次々に沸いてきます。

では『ラヴェンナ』も買って読んでみますかと言いたいところですが、ちょっとお値段が張るのですよね。本体価格8700円、税込だと9570円です。すぐには手が出ません(涙)。ただ、カラー図版も豊富で、頁数もありますから、値段以上の価値がある本であることに間違いはないのですが……

令和の文学全集?

姪っ子に小学館の『小学館世界J文学館』を買ってあげました。姪っ子たちは静岡に住んでいるので、ネットで購入して、姪っ子の家へ配達するように注文しましたので、あたしは現物を見ていません。

やや大型本のようですが、これで100冊以上の世界の名作が収録されているのですから驚きです。現物の本は解題集で、実際の作品は電子書籍の形で配信されているのだそうです。となると、姪っ子だけでなく甥っ子も別々の端末で読むことも可能なのでしょうか? ふりがなの振り方や文字の大きさなどもいろいろ選べる、電子書籍の特長を活かしたものになっているようです。

小学館の特設サイトに収録作品の一覧が載っていましたが、あたしもほとんどの作品を読んだことがありません。情けないことです。姪っ子たちはどれくらい読んでくれるのでしょうか? まあ、タイトルを見て気になったものからランダムに読んでいけばよいのでしょう。

この作品リストの中に見覚えのある作品名がありました。

片目のオオカミ』です。この本、あたしの勤務先から出しています。あたしの勤務先から出ているものは、現在品切れなのですが、訳者は末松氷海子さんです。『世界J文学館』に収録されているのは平岡敦訳となっていますので、うちのとは訳文もずいぶんと異なるのでしょう。