エスファハーンは世界の半分、なのかしら?

米国がイランの核施設をミサイル攻撃したというニュース。国際法違反だといくら多くの国が言ったとしても、トランプ大統領には馬耳東風なのでしょう。ここまで世界の秩序を壊したリーダーというのも歴史上数えるほどではないでしょうか。

それはさておき、今回攻撃された三か所はフォルドゥ、ナタンズ、イスファハンだそうです。多くの日本人にとって、この三か所の地名はほとんど馴染みのない、聞いたこともない地名だったのではないかと思います。あたしにとってもそうです。ただ一か所、イスファハンはエスファハーンのことですよね、これだけは見覚えがありました。

それが新刊『盲目の梟』所収の紀行文「エスファハーンは世界の半分」です。これを読んだ時、さらに思い出したのは『傷ついた世界の歩き方』です。同書はニコラ・ブーヴィエ『世界の使い方』を読んだ著者が自分も同じようにイランを旅した記録です。この中にもエスファハーンが出てくるのです。

政情不安やイスラム革命など、いろいろ問題を抱えるイランですが、両書とも歴史ある国の時の流れを感じられる紀行文で、現在のイスラエルや米国との戦争の影は見えません。こういう文学作品を読めば、今回のような攻撃をしようなどと思うことはないと思うのですが。

すべての本屋さんへ、困難な時にあってもみなさんはわれわれに心の糧を与えてくれる

新刊の『ムーア人による報告』を寝床で読んでいます。舞台は大航海時代で、スペインから派遣されたアメリカ大陸探検隊の物語です。この時代については詳しくもなければ、取り立てて興味を持っているわけでもありませんが、とても読みやすく、グイグイと引っ張られます。

ようやく4分の1を読み終えたところでしょうか。これから主人公にどんな運命が待ち受けているのか。ワクワクと言うには、落ち着いて淡々とした筆致なので相応しくないように感じますが、ストーリーの先行きには非常に興味を持って読んでいます。

その一方、ほぼ同じ時に刊行されたもう一つの新刊、『本と歩く人』も評判がよく、早くも重版が決定しました。まだ刊行から一週間です。すごい反響です。

そこで、いったん『ムーア人による報告』を脇において『本と歩く人』を読み始めてみました。すると、こちらもすばらしい作品ですね。まだほんの数ページしか読んでいないのですが、本好きなら引き込まれること間違いなしです。

主人公と客たちが交わす会話のことばも気取りがないのに、とても洒落ています。そうそうとうなずいたり、ふむふむと感心しながら読んでいます。この後、少女が登場するわけですが、さて、いったいどんなストーリーが紡がれるのでしょう。

読み方がずいぶんと変わりますね

岩波文庫から『自殺について』の新訳が刊行されました。新訳ということで訳者も変わっているのですね。そしてこれは揚げ足取りのようなものですが、実は著者も変わっているのです。

二枚目の写真が、これまで岩波文庫で刊行されていたショーペンハウアーの邦訳で、今回はそのうちの一冊、『自殺について 他四篇』が新訳となったわけです。よーく見てください。訳者が斎藤信治さんから藤野寛さんに代わったのはわかりやすいところでしょう。しかし、著者を見てください。ショウペンハウエルからショーペンハウアーに変わっているのです。

しかしこれまで出ていた3点もショウペンハウエル、ショーペンハウエルと統一されていません。外国の方の名前は英語読みするか、原語読みするか、それによってずいぶん異なります。カエサルとシーザー、ジョンとヨハンとか、まるで別人と思えるようなこともあります。今回の場合は、まだわかりやすい方ではないでしょうか。

ちなみに、あたしの勤務先でもショーペンハウアーの作品は何点か出していますが、ほとんどがアルトゥール・ショーペンハウアー表記です。

脈絡がなさすぎる?

今月のちくま新書、あたしはこの二点を落手しました。

一方は昆虫の本、もう一方は語学。これを同じ人間が買うということはよくあることなのか、あまりないことなのか、あたしにはよくわかりません。ただ、こういう購入の仕方をネット書店ですると「この本を購入した人はこんな本も購入しています」と勧められがちです。

ちくま新書ファンであれば、そのまま購入に結びつくでしょうが、昆虫が好きな人が『英語と明治維新』を買うとは思えませんし、その逆も同様でしょう。

でも、広い世間にはあたしと同じような嗜好を持っている人もそれなりの人数がいるのではないかと思っています。

元沿線住民です!

いま現在、あたしは東京都の小平市に住んでいるのですが、学生時代は杉並区に住んでいました。一番長く住んでいるのは現在の家ですが、青春時代を過ごしたと言えば杉並区になります。

杉並区と言っても広いですが、あたしは井の頭線の高井戸駅から徒歩10分くらいのところに住んでいました。どこかへ出かける時には必ず井の頭線を使っていました。

吉祥寺や渋谷へ行くのであれば井の頭線だけでOKですが、新宿へ行くには同じ京王電鉄の京王線を使っていましたので、京王線、井の頭線には非常に愛着を感じます。そんなあたしが最近見つけたのが『京王沿線怪談』という文庫です。

住宅街もあれば、畑をはじめとした緑豊かな土地も広がっている沿線なのでとても怪談があるようには思えません。とはいえ京王線ホラーと言えば、少し前に『眼下は昏い京王線です』を読んでいましたので、もちろんフィクションとはいえ、意外とホラーが合っている沿線なのかなあと思いました。

ちなみに『京王沿線怪談』には他にもいろいろな沿線怪談シリーズが出ていまして、以前に関西ツアーへ行った折りに現地で『阪急沿線怪談』を買っておりました。

阪急線の方は、沿線にあまり馴染みがないので、怪談と相性がよいのか、よくないのかよくわかりません。なので読んでも「うーん、○○駅はそんなところなのか」という印象しかありませんでした。

でも、京王線の方は降りたことがある駅も多く、駅やその周囲の雰囲気も知っているところが多いので、こういった作品は非常にリアルに感じられますね。この手の本って、やはりまずは沿線住民やかつての住民が読者、購買者になるのでしょう。

というわけで、『京王沿線怪談』は京王線を舞台にした怪談話ですが、『いつも駅からだった』は京王沿線を舞台にした謎解きになります。無料配布されていた小冊子をまとめて一冊の文庫になったものです。

そう言えば、阪急線と言えば映画にもなった『阪急電車』という作品もありましたね。こういう路線を舞台とした小説って、探したらどれくらいあるのでしょう。やはり作品になりやすい路線とそうでない路線があるのでしょうか。

最後に一つ、あたしが子供のころって京王電鉄は京王帝都電鉄という名将でしたね。いつ変わったのか覚えていませんが……

できることなら新書か選書で読みたいのです!

中公新書の『コミンテルン』を読了しました。中国近代史を学んでいたときには、コミンテルンとは絶大な力をもっている組織ように感じられましたが、本書を読むとそうでもない事がわかりましたし、ソ連共産党に翻弄され、右往左往していたようにさえ思えてきました。

それはおくとして、ソ連による共産革命によって、共産主義=マルクス主義のように見なされがちですが、たぶんレーニン、そしてスターリンによって作られたものはマルクス主義ではないのでしょう。たぶんマルクスが生きていたら、そう言うのではないかと思います。そうなると共産主義とは何なのか、マルクス主義とは何が異なるのか、ということが気になります。

共産主義の一つの方法としてマルクス主義があるのだとすれば、マルクス主義以外の共産主義にはどのようものがあり、それぞれの違いはどんなところにあるのか、それが非常に気になります。確か、マルクス以前に既に(概念としての?)社会主義や共産主義は存在していたはずですから。

また『コミンテルン』を読んでいると、社会主義も共産主義とはちょっと違うようですし、社会民主主義となると盛って異なるもののように描かれています。言葉が違う以上、その中味も違うのは理解できますが、ならばそれぞれはどう違うのか、そこが知りたくなってきます。

『コミンテルン』を読了して、一番に思ったことはそういうことでした。社会主義と共産主義、社会民主主義、そういったものの違いをコンパクトにまとめている書籍はないものでしょうか。つい先日、書店の人文担当の方とそんな話をしていました。たぶん専門書を渉猟すれば見つかるのでしょうが、そこまで詳し事を求めているわけではありません。新書か、せいぜい選書くらいの手軽さで読めるようなものはないものでしょうか。

ところで、国分寺のクイーンズ伊勢丹で、話題のイチゴ、あまりんが売られていました。噂に違わず美味しいイチゴでした。

いちばん幸せな思い出

《エクス・リブリス》の新刊『ブリス・モンタージュ』は、『断絶』のリン・マーの作品で、短篇集です。『断絶』がコロナの流行を予言したかのような作品として話題になりましたが、本作はそれとはまるで異なるテイストに感じられました。

と言いますか、これらの短篇をどう理解したらよいのか、異世界ものっぽくもあり、SFなのかしら、という感じもしましたし、それぞれの作品が繋がっているようでいて、まるで別次元の話だったり、とにかく一言言い表わすのが難しい短篇集でした。

そんな中、「北京ダック」という作品の中にリディア・デイヴィスの「一番幸せな思い出」という小品が引用されています。このリディア・デイヴィスの作品は、Uブックスの『サミュエル・ジョンソンが怒っている』に収録されていますので、ご興味のある方はこちらも是非手に取っていただけると嬉しいです。

それにしても、この『ブリス・モンタージュ』という作品、異郷に暮らす中国人の居心地の悪さというのがベースにあるものの、それを超えたものを感じます。別に中国人でなくともこういう気分になることを、こういう感情を抱えて生きている人って多いのだろうなあ、と思わせてくれる作品でした。そんな心のモヤモヤが発露されると、SFっぽかったり、異世界譚ぽかったりするのでしょうか。

こういう読み合わせ?

食べ物には「食い合わせ」という言葉があります。これとこれを一緒に食べるとよいとか、よくないとか、そういった昔から言われていることがあります。同じように、本にも読み合わせというのがあるのか否か知りませんが、最近のあたしの通勤読書はこんな感じです。

まず数日前まで読んでいたのが、河出新書の『天皇問答』です。明治以降の天皇という存在、天皇制について奥泉光と原武史(敬称略)が縦横に語る対談本です。

お二人とも、基本的には天皇制反対論者のようですが、だからこそこのまま何も決められずに行けば、近い将来日本から天皇という存在がなくなってしまうことを真剣に考えているようです。ちなみに、あたしはどちらかと言えば天皇には親近感を持っているタイプです。

でも、女系天皇には反対です。ワンポイントの女性天皇は認めるとしても、女系はお断わりしたいです。「そうなると、いずれ天皇制は消滅するよ」と言われても、あたしは「はい、そうなったらそうなったで構いません」という立場です。つまり皇室典範も改正せず、いまどきのジェンダー平等にも与せず、天皇制はあくまで伝統に従っていればよいと思っています。

そして、この『天皇問答』の後に読み始めたのが、中公新書の『コミンテルン』です。右から左へ一気に跳んだ感がありますが、あたしの中では特に矛盾もなければ、自己撞着も起こしていません。興味の赴くままに本を手に取っているだけです。

ちなみに、同じ月の中公新書には『皇室典範』なんていう一冊も発売されていましたね。もちろん購入済みです。いずれ読むつもりです。

話は戻って「コミンテルン」ですが、中国史をやっていた身からすると、初期の中国共産党を取り仕切って無理矢理言うことを聞かせていた、強権的なイメージがあります。しかし、読み始めてみると、なんとも頼りなく、定まらない組織だなあという印象です。まだ読み始めたばかりなので、この後は徐々に強くなっていくのでしょうか。

最後に、最近買った本のご紹介、『影犬は時間の約束を破らない』です。いみじくも『天皇問答』と同じ河出書房新社の本です。著者は韓国の作家パク・ソルメです。実はあたしの勤務先では、これまでパク・ソルメの作品を二冊出しているのです。しかし、どういう大人の事情があったのかわかりませんが、今回の作品は河出書房新社から出ることになりました。まあ、うちが版権を録り損なったということなのでしょう。

タイトルもそうですが、あたしの勤務先から出した二点とは装丁もずいぶんと印象が異なる本ですね。これも読むのが楽しみな一冊です。ちなみに、あたしの勤務先から出ている既刊二点は『もう死んでいる十二人の女たちと』と『未来散歩練習』です。もちろんすべて斎藤真理子さんの翻訳です。

こういう本の買い方は……

すっかり忘れていましたが、先日の関西ツアーでこんな本、否、雑誌を買ったのです。それが一枚目の写真です。

京都の大垣書店が発行している『KYOTOZINE』の第二号です。写真の左が以前買った創刊号で、右側が今回買った第二号です。

雑誌とはいえ、かなり豪華な造りの本です。そして第二号の特集は京都の食でした。ほとんどが行ったことない、食べたことない、買ったことのないものばかりでしたので、いつかは口にする機会を得たいものです。

ところで本を買ったといえば、つい最近、新宿の紀伊國屋書店が買ったのが二枚目の写真です。紀伊國屋書店限定カバーの『与田祐希写真集』と中国小説『城南旧事』の二点です。

しばしばネット書店で「この本を買った人は、こんな本を一緒に買っています」と勧められることがありますが、こういう組み合わせはAI泣かせではないでしょうか。これはリアル書店で買ったので、そういう記録がどこまで残っているのかわかりませんが……

そう言えば、もう十年か二十年前に、アマゾンでアイドルの写真集と一緒に中国古典の学術書を買ったことがあります。しばらくアマゾンでその学術書を見ると一緒に買った本にアイドルの写真集が載っていて、そんな買い方するのは日本国内にあたしくらいしかいないだろうと思われたものです。

似ているような、全然違うような……

最近買ったガイブンが二点。『水曜生まれの子』と『ブリス・モンタージュ』です。

『水曜生まれの子』はイーユン・リー、『ブリス・モンタージュ』はリン・マーの作品です。で、お気づきでしょうか、どちらも中国系米国作家の作品なのです。

イーユン・リーは版元サイトに掲載されている情報によりますと

1972年北京生まれ。北京大学卒業後渡米、アイオワ大学に学ぶ。2005年『千年の祈り』でフランク・オコナー国際短編賞、PEN/ヘミングウェイ賞などを受賞。プリンストン大学で創作を教えている。

とあり、その一方、リン・マーは

1983年、中国福建省三明市に生まれ、幼少期に家族とともに渡米する。シカゴ大学を卒業後、ジャーナリストや編集者の職を経て、コーネル大学の大学院創作科で学ぶ。現在はシカゴ大学英文学科で教職に就いている。

とあります。11歳差ですから一世代違うと言ってよいと思いますが、大学を出てから渡米したイーユン・リーと幼少期に渡米して米国で教育を受けて育ったリン・マーという違いがあります。

中国系米国作家と一括りにしてしまえば似ているように見えますが、この育った環境の違いは二人に大きな影響を及ぼしているのでしょうか。両作品を読んで比べてみるのが一番なのでしょうか。ちなみに、どちらも短篇集という共通点があります。