思わぬところで人文会コラボ?

新刊『ホーム・ラン』が予想どおり好調なミルハウザー。訳者はいつもどおり柴田元幸さん。

ミルハウザーの翻訳は、あたしの勤務先からほとんど出ていますが、それらをすらーっと並べてみました。想定を眺めているだけでも楽しいです。この機会に、あたしの勤務先では、ミルハウザーのミニフェアなどを書店に働きかけています。

さて、訳者の柴田さんと言えば、朝日新聞での連載も始まったので、あたしの勤務先ではこの機会に柴田さんの翻訳書フェアなんて如何でしょう、というオススメもしています。前に立てているのは、そのフェア用のポップです。

話は変わって、二枚目の写真。

ちくま新書の『香港と日本』です。中国好きとしては、そして昨今の香港情勢に関心を持つものとしては読まずにはいられません。その中に一箇所だけですが、「チョンキンマンション」が登場します。特にないように大きく関わってくるわけではないですが、「いま話題のチョンキンマンションか」と読みながら思いました。

そしてその『チョンキンマンションのボスは知っている』です。こちらは春秋社の一冊。筑摩書房と春秋社と言えば、人文会仲間です。なんか嬉しくなるコラボ(?)です。

それはさておき、着眼点が異なるからかも知れませんが、『チョンキンマンションのボスは知っている』を読むと、中国人の影は薄いですし香港政府もほぼ出て来ません。ましてや中国共産党など影も形もありません。香港のアフリカ人にとっては、共産党など眼中にないのでしょうか? そのあたりが非常に不思議でした。

共通するのは欧羅巴?

宅配便が届くと、荷物の隙間を埋めるのにエアキャップとか、大きなフランクフルトのようなエアキャップ(?)が入ってくることがあります。放っておくとたまってしまいますし、処分に困ります。

なので、あたしの場合、勤務先へ持って行くことにしています。勤務先は荷物をいろいろと発送するので、そういった詰め物はいくらあっても大丈夫です。むしろウェルカムです。

しかし、重さがほとんどなく、それでいてかさばるエアキャップは少ない量であれば袋に入れたり、カバンの隙間に押し込んだりして持って行くこともできますが、大量になってくると普段の通勤時に持って行くのはちょっと大変です。

そこで、あたしは時折、休日に自家用車でそれを運んだりしています。今朝もそうでした。

朝目が覚めたら行って来ようと昨晩心に決めていたのですが、目が覚めたのが2時。外はまだ真っ暗です。歯を磨いて顔を洗って出発です。道は空いていますので片道ほぼ一時間、今回はエアキャップを置いてくるだけなので、勤務先には5分も滞在せずにとんぼ返り。4時過ぎに自宅へ到着、ようやく朝食です。

そんな土曜日の始まりですが、昨日、頼んで置いた本が届きました。中公新書3点です。通勤電車のお供です。

3点とは、『エリザベス女王』『ビザンツ帝国』『カール・シュミット』です。なんか、脈絡があるような、ないような……

あえて言えば、ヨーロッパものかな、というくらいでしょうか?

見つからない!

河出文庫から『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』が出たので、買おうかな、どうしようかなと思っていました。

でも、確かこの本、読んだことあったはず、とちょっとうろ覚え。なんでうろ覚えなのかというと、『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』という似たタイトルの別の本があって、どちらかは間違いなく読んでことがあったのですが、それがどっちだったかが思い出せなかったからです。

まあ、文庫だからダブってしまってもいいかと思って、買おうとしたのですが、やはりどっちを読んでいたのかが気になって、ちょっと内容紹介などを読んでみたら、あたしが読んだのは前者、つまり今回文庫になったものだと思い出しました。

というわけで、文庫になった『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』を買うのはひとまずペンディングにしているわけです。でも気になるのが、かつて読んだという単行本のことです。図書館で借りたわけでも、誰かから借りたわけでもありません。自分で買って読んだはずなのです。となると、わが家の書架に文庫になる前の、いわゆる単行本があるはず。

ということで少し前から書架を探しているのですが、これが見つかりません。何度も書架を見回しましたが出て来ません。装丁は単行本も今回の文庫もほぼ同じデザイン、イラストですね。文庫が出たときに、この装丁に見覚えがありましたから。なのに、わが家の書架には見当たりません。

誰かに貸しているのか、とも思いましたが、こういうジャンルを読みたがりそうな人はあたしの周囲にはいないので、貸し出し中という可能性は低い、いや、ほぼゼロパーセントだと思っています。もちろん古本屋に売ったり、誰かにあげてしまうということもないので、絶対にわが家の書架にあるはずなのですが……

このところ機会があるたびに書架を眺めているのですが、やはり見つかりません。これが気になって気になって仕方ないのが今日この頃です。

1年も持たなかった?

右の写真は、昨年の7月に撮影したわが家の書架です。

わが家は戸建てですが、一階にあたしの部屋(7畳洋間)があって、そこに机やパソコンなども置いてあるのですが、その部屋は既に16本の書架が並んでいて、新たに書架を置くスペースなどどこにもない状態です。

あたしが寝ているのは二階にある、もとは納戸だった部屋(3畳)で、そこにもベッドを避けるように書架が3本、ベッド下にも小振りの書架が2本置いてあります。

仕方なく二階の廊下に薄型の書架を置いたのですが、それが右の写真というわけです。この時点でほぼ一杯になっています。ですから、この写真の奥の方、廊下を挟んだ向かいにも書架が一つ置かれているのです、写真には写っていませんが……

そんな状態だったので、写真の手前にもう一つ書架を購入したと、昨年7月のダイアリーでご報告したわけです。それが左の写真です。

買ったばかりなのでまだ空っぽでした。壁にはライトのスイッチがあったので、書架の裏板に穴を開け、スイッチが隠れてしまわないように工夫もしました。

昨年のダイアリーでは、この一本を買い足したことで書籍の収蔵はあと2年は持つのではないかと書きました。何か根拠があって書いたわけではありませんが、そのくらいは持ってもらわないと困ると思って、ある意味、自分の希望を書いたようなものでした。

そして本日です。

右の写真は一枚目の写真と同じ書架です。満杯になっているのは同じです。なんとなく見えている書籍も同じものが並んでいると思います。

とはいえ、文庫や新書などが増えてくると、できるだけ同じレーベルは一緒に並べておきたいと思うのが人情ですから、並べ替えや収蔵場所移動を時々やったりしています。なので、厳密に言えば、同じ書架を移した写真ですが、並んでいる書籍に若干の異同があります。それはこの書架だけでなく、一階と二階でも移動したりしますし、一階の中、二階の中でも行ないます。

そして、最後の写真が、昨年買い足した書架の現在です。

満杯までは行っていませんが、かなり埋まってしまいました。レーベルを揃えて並べるためにこちらへ移動したものもあるので、既存の書架に多少のスペースができた部分もありますので、わが家全体で考えた場合、一年も持たずにこれだけ増えたというわけではありません。

とはいえ、やはりかなりのペースで増えています。「のぎどこ」「乃木中」のBlu-rayも一緒に並んでいたりするところはご愛嬌として、空いている棚は一番下くらいしかないですね。ここが埋まるのにどれくらいの時間がかかるのでしょうか? いや、「かかる」と言うよりも、やはり「持つ」と表現したが方が実情を正確に表わせるでしょうか。

昨日、本の整理をしていて、この書架がもうここまで埋まってしまっていたことにちょっと驚きました、そんなに本を買っていたのかと。家計支出に占める食費の割合を示すエンゲル係数というものがありますが、支出に占める書籍代の割合を示す言葉ってないのでしょうか? などと思ってしまう今日この頃でした。

思わぬところで……

話題の韓国文学『アーモンド』読了。

感情を司る扁桃体の発達が不十分で、怖いとか恐ろしい、悲しいといった感情が理解できない少年が主人公の物語。クリスマスイブの晩、目の前で暴漢に襲われて祖母を亡くし、母は寝たきりの植物人間になってしまいます。そんな彼が母の残した古本屋を細々と営みながら学校に通い、そこで出会った「怪物」と接するうちに徐々に変化していくわけです。

この作品の中に直接的にタイトルは出て来ないのですが、名作『ライ麦畑でつかまえて』について主人公が言及する場面があります。主人公はこの本を何度も読んでいるそうです。そう言えば映画「天気の子」でも主人公が家出をしたときに一冊だけ持っていた本が『ライ麦』でしたね。やはり思春期の少年のバイブルなのでしょうか?

さて、本作の結末がどうなるかは読んでのお楽しみにするとして、本作もやはりこの後主人公がどんな大人になったのか、「怪物」とはその後どんな交流が続いたのか、仲良くなった女の子との淡い想い出のエピソードはいつか回収されるのか、そんなことを考えてしまいました。

なお、本書は第一部から第四部まであり、最後にエピローグがあります。それぞれの扉ページは同じデザインなのですが、全体の網掛けの濃度が異なります。最初は黒に近い濃い灰色、それが徐々に薄くなり、エピローグでは真っ白になります。主人公の変化、心の帳が取れていく過程を象徴するような粋なデザインだと思いました。

さて、主人公の母が営んでいた古本屋、その本やのシーンで主人公はこんな感想を漏らします。

本は、僕が行くことのできない場所に一瞬のうちに僕を連れて行ってくれた。会うことのできない人の告白を聞かせてくれ、見ることのできない人の人生を見せてくれた。僕が感じられない感情、経験できない事件が、本の中にはぎっしりと詰まっていた。それは、テレビや映画とはまるで違っていた。(P.49)

本というもの、読書体験というのもの本質と言いますか、これぞ醍醐味ですね。主人公はさらに続けて

映画やドラマ、あるいはマンガの世界は、具体的すぎて、もうそれ以上僕が口をはさむ余地がない。映像の中の物語は、ただ撮られている通りに、描かれている通りにだけ存在している。……(中略)……本は違う。本は空間だらけだ。文字と文字の間も空いているし、行と行の間にも隙間がある。僕はその中に入っていって、座ったり、歩いたり、自分の思ったことを書くこともできる。意味がわからなくても関係ない。どのページでも、開けばとりあえず本を読む目的の半分は達成している。

そうそう、本は想像力を養ってくれるのですよね。本作中でははっきりとは書いていませんが、主人公の母親が古本屋を開いたのも主人公の症例に読書が少しでもよい影響を及ぼすのではないかと期待していたからなのではないでしょうか? そんな気がしました。