何冊目の論語?

現代日本語に翻訳されている古典は洋の東西を問わず数多くありますが、その中でも『論語』は他の追随を許さないほどの現代語訳が刊行されているのではないでしょうか。日本に『論語』が請来されて以来、多くの学者、文人が注釈を施し、和訳したりしてきましたが、明治以降に限ってみても断トツだと思います。わが家にもいったい何冊の『論語』が書架に並んでいることでしょう。

そんな『論語』にまた一つ邦訳が加わりました。光文社古典新訳文庫の新刊です。『論語』が出たからには、古典新訳文庫で『孟子』『老子』『荘子』なども続いて刊行されるのでしょうか。ちょっと期待しています。

ずいぶん前に祥伝社新書で『高校生が感動した「論語」』という本が刊行されていましたが、『論語』は大人から子どもまで、どの世代にも受け入れられる古典ということなのでしょう。ただ、こんな質問は愚問なのでしょうが、『論語』はどの世代が読むのが一番よいのでしょう。高校の時に読むべきなのか、サラリーマンが読むべきなのか。

中国古典を学んでいた立場の独断と偏見で言わせてもらいますと、高校生は『韓非子』を読め、サラリーマンは『老子』がお薦め、『論語』を読むなら老後がよいのではないか、と思っています。受験競争やイジメ問題など何かと人間関係で悩みがちな学生時代は『韓非子』のドライな考え方に救われると思います。何かとストレスの多いビジネス社会を生きるには『老子』の生き方が参考になるはずです。

そんな山あり谷ありの人生がようやく終盤にさしかかったころ、『論語』の言葉が心にしみるのではないかと思います。まあ、興味を持ったら、その時に読んでみるのが一番なのであり、繰り返し読んでいると受け止め方も変わってくると思います。

2025年9月15日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

新書と言うより、もはや単行本?

ちくま新書の新刊『蒋介石』を落手しました。このタイトル、あたしのことを知っている人であれば、絶対に買うだろうと予想できたと思います。確かに、余程のトンデモ本でもない限り、タイトルだけで購入決定ですね。

ところで、この『蒋介石』、ずいぶんと厚い一冊だと思いませんか。なんと約500頁もあります。これはかなりの読み応えがありそうです。もちろん、これから読みますが。

画像を見ていただくと、『蒋介石』が分厚いのでわかりにくいかも知れませんが、既刊のちくま新書も新書としてはそこそこの厚みがああります。写っているのでは『アラン』くらいが新書らしい厚みではないでしょうか。

最近のちくま新書が、シリーズ全体的な傾向として厚くなっているのか、もう少し前のちくま新書を見てみますと、確かに厚いちくま新書が散見されます。あたしの、あくまで個人的な印象ですが、講談社現代新書は厚い、と思っていました。もちろん新書らしい厚みのタイトルもたくさんありますが、講談社現代新書は以前から時々分厚いのが出ることがあったと記憶しています。

とはいえ、今回の『蒋介石』はやはり他社の新書と比べても厚さのベストテンに入りそうな厚みです。ここまで厚くなると逆にどうして新書という体裁を選んだのだろうか、単行本でよかったのではないか、という気もしてきます。

2025年8月16日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

マイナーな時代に光を当てる?

日本で応仁の乱とか観応の擾乱とか、室町時代が注目されるようになったのはいつごろでしょうか。もちろん中世に興味を持つ人は以前からいましたけど、源氏三代や楠木正成など武士の活躍や足利義満の金閣、そんな輝かしい、比較的派手なところが中心だったような気がします。

少なくとも、あたしが小中高で歴史を学んでいた当時は、専門家の世界はいざ知らず、一般的にはそんな感じでした。一般向けの歴史雑誌などの特集も戦国や幕末が中心で、室町時代が扱われることなんてほとんどないように記憶しています。

あたしが専門に学んでいた中国史も同様です。諸子百家が活躍した春秋戦国時代、楚漢興亡の史記の時代、そして三国志が中心だったと思います。王朝を創始したファーストエンペラーの出世譚はそれなりに興味を惹きますが、やはり日本史同様、地味な時代は不人気なのか書籍の刊行も少なかったものです。

こういう書き方をすると、その時代に興味を持っている方や専門家の方には失礼かも知れませんが、それがこの数年ずいぶんと様変わりしました。そんな象徴的なものの一つが最近刊行されたハヤカワ新書の『五胡十六国時代』です。あたしが学生時代を思い返すと、気軽な新書で「五胡十六国」をタイトルとするような書籍が刊行されるなんて想像もできませんでした。

数年前には中公新書から『南北朝時代』というタイトルも刊行されています。こちらは日本の南北朝時代ではなく、中国の南北朝時代です。五胡十六国時代に後、隋唐へと続く時代を扱った一冊です。この本が刊行された時にも、まさか中公新書からこんな時代を扱った中国史の本が出るなんて、と思ったものです。

こうなると五代十国とか遼金元史といったタイトルの新書が刊行される日もそれほど遠くないのではないでしょうか。密かに期待しております。もちろん時代だけでなく、これまであまり脚光を浴びてこなかった人物や事件に関する本も大いに期待したいところです。

さて、日本史では戦国と並ぶ人気の時代、幕末に活躍した坂本龍馬の故郷、高知県の酒を買ってきました。土佐酒造の桂月です。土佐で桂と聞けば桂浜を思い浮かべますが、月の名所でもあるのですね。同社のウェブサイトに桂月の由来として書いてありました。読みやすい日本酒ですね。

2025年7月21日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

七七事変

七七事変というタイトルにしましたが、つまりは盧溝橋事件のことです。7月7日に起きた事件なので、こういう風にも呼ばれます。

盧溝橋は言うまでもなく、中国の首都北京郊外にある橋の名で、あたしは過去に二度訪れたことがあります。最初に訪れた時の写真がこちら、二度目の訪問の時の写真がこちらになります。この二回の訪問には約10年ほどのインターバルがありますが、行った印象はそれほど変わっていないなあ、という感じです。二回目の方が抗日博物館などもきれいになっていたかな、というくらいです。

でも、あれからさらに二十年近い年月が経っていますので、全然変わってしまっているでしょうね。そもそも盧溝橋なんて、周りには何もない辺鄙なところという印象でしたが、たぶん現在は巨大化した北京市に取り込まれて、周囲には近代的なビルや建物が建ち並んでいるのではないでしょうか。

七夕もいいですが、こういうことを思い出してみるのも必要なことではないでしょうか。

2025年7月7日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

この夏は干からびて死んでしまうかもしれない

わが家であたしがPCを操作している部屋はPCを並べているところ以外は、天井まで本棚が壁面を埋めています。部屋の真ん中にも背中合わせに本棚を並べているので、非常に狭苦しい部屋です。

そんな状況なので、いわゆるエアコンを壁に付けることができません。そんなスペースは、この部屋の壁には残っていないのです。仕方ないので、あまり大きくない窓に、窓用のクーラーを取り付けて、もう十年以上も使っています。それがこの夏、動かなくなってしまったのです!

この暑さの中、扇風機だけではとても耐えられませんが、もうどうしようもありません。買い換えるにしても、最近は窓用のクーラーって売っていませんよね、どうしましょう?

そんな夏本番が既に訪れているような、この数日の東京ですが、わが家の玄関先ではネジリバナが咲き始めました。特に肥料をやったりしているわけでもなく、放りっぱなしなので、痩せ細ったネジリバナですが、それでも毎年咲いてくれます。

話は変わって、注文しておいた角川ソフィア文庫の『史記』下巻が届きました。全三巻がこれで完結です。表紙カバーは兵馬俑が三体です。兵馬俑坑へ行った時、あたしもこんな写真を撮ったなあという思い出がよみがえってきます。

それにしても、既に品切れになっているものもあるでしょうが、『史記』の邦訳っていったい何種類出ているのでしょうね。

2025年6月17日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

浅学菲才どころか無学無才です

中公新書の『二十四史』に関連して、架蔵している書籍をご紹介しましたが、同書で紹介されている和書についても架蔵しているのがありましたので、またまたご紹介いたします。

まずは名著、内藤湖南の『支那史学史』です。刊行当初はどういう感じだったのかはわかりませんが、現在は平凡社の東洋文庫から全二巻で刊行されています。ずいぶんと手に取りやすくなっているのではないでしょうか。

東洋文庫には他にも『清朝史通論』が出ておりますので、ご興味のある方は是非どうぞ。

そしてこちらも名著、那珂通世『支那通史』です。岩波文庫で全三巻です。どうやらこちらは出版社で既に品切れになっているようです。とはいえ、岩波文庫はしばしば復刊をしますので、待っていれば復活することがあるかもしれません。

それにしても、『支那史学史』『支那通史』どちらもオリジナルを尊重して「支那」のタイトルをそのままにしているところがよいですね。あたしは中国人が「支那」と呼ばれることに不快感を覚えていることは重々承知しています。でもこの当時の著作に「支那」が使われているのまで「中国」に直す必要はないと思っています。もちろん著者が存命で、中国側の意向を汲んでみずからタイトルを変更したのであれば、それも受け入れます。

最後におまけ。昨日ご紹介した『二十五史補編』を並べている書架の上の段に並んでいるのはこちらです。『清経解』とありますが、中国学者であれば『皇清経解』の名で知っているはずです。その正編・続編です。

中国で刊行される段階で、あえて「皇」の字を取ったのだと思いますが、なんででしょうね? もう大清帝国の時代ではないからということでしょうか。共産党のイデオロギー政策のためですかね。

2025年4月30日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

ちゃんと架蔵しているのですが……

中公新書『二十四史』は無事に読み終わりました。学生時代に漠然と接してきた「二十四史」について思いを新たにしました。学生時代にも「○○史は出来が悪い」といった評価は先生や先輩から伝え聞いておりましたが、どうしてそのような評価が生まれたのか、歴史背景がよくわかりました。

さて同書には本文中でも「二十四史」の周辺文献に対する言及がしばしば見られました。懐かしい書名に学生時代を思い出しながら読みましたが、それらの文献のいくつかは今でも架蔵しておりまして、それらを今日はちょこっとご紹介したいと思います。

まずは『資治通鑑』です。中華書局の、いわゆる標点本で、20冊となります。ちなみにいま「標点本」と書き、同書でも標点本と表記されていますが、学生時代は点校本とか校点本という言い方もしていました。

たぶん点校本とか校点本というのは中国語そのままの呼び名で、それを日本語訳すると標点本になるのではないでしょうか。正確なところはわかりませんが……

さて次の画像は『通鑑紀事本末』です。お隣には『左伝紀事本末』も並んでいますが、こういった中国古典の基本的な作品が陸続と刊行されたのが、あたしが学生時代でした。昨今ももちろんさらに校訂されたり、注釈を施されたりして刊行され続けていると思いますが、あたしの学生時代にはどんどん刊行されていた、という印象があります。

そして最後は『二十五史補編』です。「二十四史」の欠を補うために作られた作品を収めた叢書ですね。『資治通鑑』や『通鑑紀事本末』は日本の単行本くらいの大きさですが、こちらはそれよりもずっと大きく、一冊ずつのページ数も多いものになっています。

また前二者が句読点が付いた、現在の活字で組み直したものであるのに対し、この『二十五史補編』は当時のものをそのままリプリントしたもので、本文はいわゆる白文となっています。いわゆる影印本というものです。

2025年4月29日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

だんだん増えていくものですから……

先のダイアリーで中公新書の新刊『二十四史』をご紹介しました。たぶん同書を買うのは中国史が好きな人だと思いますが、逆に中国史に詳しくない人にとっては「二十四史って何?」という状況ではないでしょうか。

「二十四史」とは中国の二十四種類の正史の総称です。中国歴代王朝は、前代の王朝の正史を編纂することで、その正統な後継者であることを証明してきたのです。中国史は当たり前として、中国哲学、中国文学など中国に関わる学問を専攻する人には必須の書物です。

では、その二十四史はどこで見られるのかと言いますと、中国の出版社・中華書局から出版されている「点校本・二十四史」が最もスタンダードです。最初の画像はわが家の書架に並んでいる、中華書局の「二十四史」です。日本人にも馴染みある『史記』や『三国志』なども含んで、清朝の正史である『清史稿』まで揃っています。

直前に『清史稿』というタイトルが出しましたが、「二十四史」とは本来は明朝の正史である『明史』までを指し、あたしが学生のころに『清史稿』が中華書局から刊行され、「二十五史」という言い方もされるようになりました。

あれ、明朝が『明史』なら清朝は『清史』じゃないの、という疑問が湧くかと思います。『清史稿』とはその名の通り、正史である『清史』を完成させる前段階の状態のものです。『清史稿』を更に推敲して、いずれは『清史』を完成させる予定だったようです。

学問の世界から離れた現在、『清史稿』をベースに『清史』が出来上がったのか否か、あたしは寡聞にして知りません。その後の中国が国共で分裂してしまったこともあり、資料の行方やどちらが正統の後継政権なのかという点でも争っているのかも知れません。

で、二枚目の画像は、その名も『二十五史』という本です。上に書いたように「二十四史」に『清史稿』を加えて「二十五史」として売り出されていたのです。この『二十五史』が発売されてしばらくして、同じ上海書店・上海古籍出版社から『元史二種』も刊行されました。これも正史とするならば「二十六史」になってしまいます。

果たして、現時点で中国の正史は何種類あるのでしょうか。もし国共の分裂や対立がなく、歴代王朝のように中華民国から中華人民共和国に移行したのであれば、中華人民共和国が『民国史』を編纂しなければならなかったはずです。しかし実際には中華民国と中華人民共和国の双方が清朝の正統な後継者だと主張し合い、どちらが『清史』を完成させるのか、非常に興味深いです。

話は戻って二枚目の画像の『二十五史』ですが、底本は故宮の所蔵されていた「武英殿本二十四史」と呼ばれるものです。

2025年4月23日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

ちょっと見つけました

先日落手した岩波文庫の『厳復 天演論』ですが、その時にも書きましたが、本書は本邦初の全訳だということです。つまり抄訳は既に刊行されているということになります。

そうなると既訳を探してみたくなるものです。雑誌などに発表されたものであれば、見つけるのはちょっと難しいと思いますが、たぶんこのあたりに載っているのではないかと予想は付けられます。

まずは、これも先日紹介した家蔵の叢書『新編 原典中国近代思想史』です。この第二巻「万国公法の時代」に『天演論』の序の邦訳が載っていました。序文だけなら、そこまでの分量にはならないでしょうし、序を読めばその本の要旨とか、著者の狙いが理解できるというものです。

序だけが訳されているというのは、『天演論』のエッセンスがそこに詰まっているということなのでしょう。

そしてもう一つ、平凡社の『中国古典文学大系』の第58巻「清末民国初政治評論集」にも載っているのではないかと思いました。載っているとすれば、これくらいしか考えられません。

同書を開いてみましたら、案の定、『天演論』が収録されていました。ただし、こちらも序のみでした。岩波版とは訳者は異なっていますが、『天演論』の序がこちらにも載っていたのです。そして岩波文庫は待望の全訳ということなのでしょう。

あと抄訳がありそうなのは明徳出版社の『中国古典新書』ですが、同社のサイトで検索した限りでは『天演論』は刊行されていないようです。

2025年3月21日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

岩波書店の講座本

昨日のダイアリーで岩波文庫の『厳復 天演論』を取り上げましたが、それで思い出したことがあります。昨日も書きましたように、『天演論』が本邦初訳(全訳)ということに驚いたのですが、抄訳であればどこかにあるのかな、と思った次第です。

それで思い出したのが、こちらのシリーズ、『新編 原典中国近代思想史』(全7巻)です。「原典」とあるように、いろいろな著作の邦訳が収められている、シリーズです。中国近代史を専攻する者であれば、常に参照しなくてはならないシリーズではないでしょうか。

ところで、このシリーズ名、気づかれた方もいらっしゃると思いますが、「新編」とあります。つまりこの新編に対して旧編とでも呼ぶべきシリーズがあるのです。それが二枚目の写真です。

こちらは『原典中国近代思想史』です。同じく岩波書店から刊行されていたシリーズで、あたしが学生時代は「新編」の刊行前でしたので、こちらを使っていました。懐かしいものです。

こういうシリーズ本、かつては「岩波講座○○○」といったタイトルで数多くの種類が販売されていました。巻数はものによって異なりましたが、全巻予約した人しか買えない、興味を持った巻だけを買うことができない、そういう縛りのあるシリーズ、それが「岩波講座」でした。

あたしが大学生の頃からはそんな縛りもなくなっていたように記憶していますが、やはり岩波書店のシリーズで買っていたのが最後の写真の『原典中国現代史』です。こちらは近代ではなく現代です。そして思想系の著作だけでなく、政治経済などの著作も含まれたシリーズとなっています。

2025年3月19日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー